2009-11-30 20:42
私は、白川と春菜、二人から話を聞くようになっていた。と言っても、春菜の方はすっかり諦めていたけれど。
溝端さんの件は春菜の勘違いだと、ちゃんと彼女に伝えたのだが、既に気持ちは無くなっていたらしいのだ。
白川はまだ春菜が好きらしかった。たとえ事務的なことでも、春菜と話せたとなれば舞い上がるほど喜んでいたし、彼女が他の男子と談笑しているだけで不機嫌になった。
単純な奴、と思ったが、自分に素直なんだろう。何だか、嬉しくなった。
「白川はさ、告白しないの?」
そう尋ねると白川は真っ赤になって顔を背けた。
「しねえよ。」
「何で。好きなんでしょ?」
「フラれるの怖いもん。それにさ、フラれた後、また同じ関係に戻れるか分かんないし。」
白川は本で顔の下半分を隠しながら言う。私は驚いた。同じだったのだ。春菜の告白に対する考えと全て。
「あんた達、本当似てるね。」
白川は意味が分からない、と首を傾げたが、私はそれ以上何も言わなかった。
嬉しかった。同時に悲しくなった。二人が結ばれればいいなあ、と強く願った。
木々が色付き始めていた。中一の秋のことだった。
*
「陽子は白川が好きだったんだね。知らなかった。幸せになってね。」
そう言って走り去っていく春菜を、私は追いかけもせず、ただ眺めていた。訳が分からなかった。確か以前にもこんなことがあった気がする。そんなことはどうでも良かった。とにかく、ムカついていた。
「おい、須崎。」
白川が走ってきた。
来なくてもいいのに。
「なあ、桑本のやつどうしたんだ?喧嘩?」
「私は知らない。知りたくもない。」
「桑本泣いてたぞ。」
それを聞いた瞬間、なんだ、と思った。怒りは消え、変わりに脱力した。何だか分からないけど、たまらなくおかしい。
「須崎?」
「白川が行ってあげてよ。」
「え、俺?」
「私は疲れた。帰って寝る。」
返事を待たずに教室に戻る。鞄を置いて来たのだ。
西陽は傾き、空をオレンジに染めていた。空だけではない。雲も街も、全てが少なからずオレンジだった。
教室には誰もいなかった。私は机の上にポツンとある鞄を取り、立ち去ろうとした。と、白川の席の前で足を止める。
机の右隅に、何か書かれていた。それが何か分かると、私は思わず笑ってしまった。
『白川春菜』
随分気が早すぎる落書きだ。結婚だなんて、まだまだ先の話だろうに。いや、それ以前にまだ付き合ってすらないくせに。
「子供だなあ。」
帰ったら電話しよう。
長々とは話さないでおこう。ただ、頑張ってってだけ伝えよう。それだけでいい。
この日、結局私は春菜に電話をしなかったのだけれど、それが結果的に良かったということに気付くのは、少しあとのこと。
私が帰ったあとの二人の会話を、私は知らなかったのだ。
*
翌朝。珍しく寝坊してしまい、春菜には先に行ってもらった。
家を出て、早足で歩く。途中、何度も携帯で時刻を確認しながら。学校までは二十五分だから、うん、ギリギリ大丈夫。
ふと、後ろから名前を呼ばれた。振り向かずとも分かる。白川だった。
「珍しいなあ、こんな時間に会うなんて。」
「寝坊したの。白川はいつもこの時間?」
「うん。」
「嫌な予感するわ。遅刻するかもしれないじゃない。」
暗に白川のせいだと言ってみるのだが、気付いているのかいないのか、彼はずっとにこにこしていた。何がそんなに嬉しいのか分からないが、特に気にすることでもないだろうと思って、何も言わなかった。
教室に入ると、その場にいた人間全員が一斉に私達の方を見た。にやにやと笑ったり、嫌悪感を露にしたり、その反応は様々だった。
私は特に何か言うわけでもなく、普通に机の間を通って席に着いた。
「ツレの男取るとか最低。」
そんな呟きが確かに聞こえた。瞬時に白川と春菜が浮かんだ。
なるほど。彼女、いや、クラスメートは私と白川が付き合ってると思っているのだ。
馬鹿じゃないか、と小さく笑った。二人はまだ、互いに好き合っているのに。付き合ってはないけど。
だけど本当は、私が知らなかったのだ。
*
「須崎のことが好きだ。付き合ってほしい。」
夜。白川からきたメールに、そう書かれていた。訳が分からなかった。私は即座に彼に電話をかけた。
「ねえ、今のメール、何?」
「何って、見た通り告白メール。」
電話の向こうで、はにかむ白川が目に浮かんだ。声の感じも少し違うし、本当なんだ、と思った。
「あんた、春菜のこと好きじゃなかった?」
「確かに桑本のことは好きだったよ。だけど今は須崎のことの方が好きで……」
「……、によ、それ」
「え?」
「何よそれ!」
ふざけんな、と思った。何だか裏切られた気がした。
白川が何か言っていたが、無視して電話を切った。ベッドに倒れ込む。なぜだか分からないが涙が出た。
好きだった。春菜に恋する白川が、大好きだった。春菜一人に振り回されて悲しんだり舞い上がったり不機嫌になったりする、馬鹿なくらい自分に正直な白川が。
季節と同じように人の心は変わる。当然のことなのに、私は何故か、それを受け入れられることができなかった。
私は恋をしたことがない。だから、二人の恋の結末に泡沫の夢を重ねていたのかもしれない。現実とはもともと、幾度となく雨に打たれて錆び付いた金属みたいなものだったのに、そのことを私は充分理解していたはずなのに。いつしか私は綿菓子みたいに甘くてふわふわして、それからきらきらしたフィルターをかけていた。それが今、びりりと剥がれてしまったのだ。
春菜への罪悪感がぐるぐると巡る。学校での、女子の言葉が鮮やかに蘇った。
早急に春菜に謝らないといけない。時計を見ると、八時を少し過ぎていた。この時間ならまだ大丈夫。私は上着を取って、部屋を出た。
中二の冬。その日、街には雪が降っていた。
*
春菜の家に行き、半ば強引に彼女の手を引いて、やってきたのは近くの公園。街灯の光は弱々しく、少し頼りなく感じた。
私は春菜に、ベンチに座るよう言った。そして、自動販売機で温かいココアを二人分買って、一本を春菜に渡す。春菜は笑ってくれなかったけど、「ありがとう」とは言ってくれた。
「話って、何?」
声の調子から、彼女が不機嫌である、と分かった。当たり前か。
「この間のこと。私、まだ何も言ってないから。」
「いいよ、今更聞きたくなんか、」
「私、白川のことが好き。」
春菜は目を小さく見開き、そして、ふい、と目を地面に向ける。
「知ってるよ、そんなこと。」
「違う。春菜は知らない。私は、」
「嫌!聞きたくない!」
「春菜!」
彼女の手首を握り締めたのは無意識だった。多分、彼女が逃げようとしないように、と手が伸びたのだろう。
春菜はびく、と肩を震わせた。私は滅多に声をあげないから、驚いたのか。彼女の大きな瞳は、多分涙のせいで潤み、震えていた。
「好きは好きでも私は、春菜に恋する白川が好きなの。白川単体はどうでもいい。」
雪がしんしんと降り続いていた。
白いそれは私と春菜の間を断りもせずに入っていき、そして、音もなく消える。木製のベンチだったので、黒い後が残った。
「春菜のいいところや悪いところをいちいち見つけて、全てひっくるめて春菜が好きだって言う白川が、私は大好き。」
白川に限らず、恋をしている人が好き。きらきらしていて、同じ世界を見ているはずなのに、何故かその人は、私が気付かない幸せを見つけていく。
好きな人と話した。隣りを歩いた。目が合った。そんな、普段なら気にも止めないようなことに喜ぶ。私には分からない。けど、羨ましいなあって思う。いいなあって思う。
「春菜、あんたまだ、白川が好きでしょう?」
春菜は何も言わない。分かっていた。だから、私が一方的に話す。
気持ちは伝えない。けど、その背中を押すくらいは、許されるだろうから。
「諦めないで。私も出来得る限り強力するし。」
「でも…。」
「春菜は勘違いが多すぎるの。ちゃんと確認取らないと、勘違いされた側も迷惑よ。今回みたいにね。」
春菜の目から涙が落ちた。私は黙って春菜を抱き寄せる。
髪の毛に雪がついていたので払ってあげた。手袋をしていなかったので、冷たかった。
それから春菜を家まで見送った。扉が閉まるのを見届け、私は手のひらに息をかけて温めながら空を仰いだ。
鈍色の空はどこか重々しい感じがして月も空も無い。不規則にたくさん、降ってくる白い雪は淡く発光しているように見えた。
さあ、次は白川だ。
携帯を開く。もう少しで九時になるところだった。
まだ大丈夫だろうか。少し不安になりながら白川に電話をかける。五回目くらいのベルで、ようやく彼は電話に出た。
「さっきはごめん。何か訳分かんなくて。」
「…嫌いなら嫌いって言えよ。その方が怒鳴られるよりはいくらかマシだったのに。」
やはり彼の声も沈んでいた。
悪いことしたなあ、と先刻の自分の言動を悔やむ。
「違うの。白川のことは好き。」
「そんな、気なんて遣わなくても…、」
「本当よ。春菜に恋してる白川が、私は好き。」
私は話した。まるで小さな子供のように春菜に恋する白川が好きだと。だから、裏切られたような気持ちになって、失望して怒鳴ったのだと。
「結局、俺が失恋したことには変わらないじゃないか。」
「ううん。だって白川、あんたの好きな人は私じゃないでしょう?」
「え?」
これは私の、理想混じりの推測。そうであってほしい、そうでなくちゃいけないという願望。
掛けであった。
「根拠は無い。私は今までのあんたを見てきた上で、確信してるの。よく考えてみて。」
暫く沈黙が落ちる。スピーカーから何かの音楽が聞こえた。洋楽だ。その音は随分小さく、彼が聞いていたのだろうと知る。落ち着いた、少し寂しい感じのバラードだ。
「…………俺、さ。」
ようやく聞こえてきた白川の声に耳を傾ける。
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