己の意見を主張すること

主張することが正義だと、思っていました。
それが、すべてにおいて善きことだと、そう、思っておりました。

それは、己にとってのみの善行であることに、気づかぬフリを、続けていただけです。
主張せねば、滞ります。蓄積します。それはすごく疲れることです。言ってしまえば主張するという行為は、そのような自分を、楽にさせるためだけの、自分本意な悪行でもあるのです。
主張された側は、知らなかったものを知ることになるでしょう。そこに可能性が生じます。可能性とは、必ずしも善きものとは限りません。現状から、大きく悪化することもありえます。アダムとイブの原罪に同じです。

それらを全て承知の上で、なおも主張することに重きを置く私は、どれほど罪深いのでしょうか。

押し付けは嫌いだと言いました。価値観はその人固有のものであり、部外者が不用意に干渉し、どうこうしようとするのは、ナンセンスだと思っています。でありながら、おそらく私は、この「主張することの重要さ」を、多くに押し付けんとしています。私は、矛盾が凝り固まってできあがった、醜い物質なのでしょう。

シンプルに書けば、言いたいことがあります。聞き手は、あのお方のみに限定されます。ですが、おそらく今回ばかりは、この選択はしてはいけないのでしょう。私は、非常に多くの主張と想いを、この身の内に内包します。そして、ごめんなさいの言葉で、それに封をしました。

願わくは、あのお方が、内包した私の想いを、汲み取ってくださることを。