2010-6-26 20:54
先日、窓の向こうの世界に早咲きの桜が現われた。満開ではないけれど、それは確かに春の到来を告げていた。
春の到来。卒業。
…ああ、もうそんな時期になるのか…。目を背けていた現実を突き付けられて、悔しいから強がって笑ってみる。
「五十分から卒業式の練習だよ!」
「分かってるって!」
私は残ったオムライスを口の中にかきこむと、靴袋を掴んですぐさま教室を出た。
――――桜、ひらり。
下校時刻になったので私は、友人と一緒にいそいそと帰り支度を始めた。高校入学と同時に買った、いかにも高校生らしいスクールバッグ。三年前は綺麗だったが、それも今ではすっかり色褪せ、端っこが擦り切れていたり所々白くなっていたりと、かなりボロボロになっている。
支度を終え、放課後の誰もいない廊下を、友人と談笑しながら歩いていると、どこからかクラシックの曲が聞こえてきた。ところどころ音が詰まり、かなり拙い演奏だ。
「吹奏楽部、頑張ってるねえ。」
友人は音楽室の方に目をやって言った。元吹奏楽部員の私は、少し誇らしげに頷いた。
「この時期は大変なんだよ。卒業式で演奏するし、三月の終わりに春の定期演奏会もあるから。テストもね。」
おつむのよろしくない私は、そのせいで随分苦労したっけ、と思いながら苦笑した。友人はふうん、と相槌を打ち、窓の方に近付いた。私もそれに続いて彼女の隣に並んだ。
太陽を背にしているせいか、校舎には黒い影がかかっていた。音楽室の明かりがついていなければ、いくら場所を知っていると言っても少し考えてしまっていただろう。
「ねえ、ちょっとだけ寄ってかない?」
「は?」
「どうせ帰ってから暇でしょ?試験終わってんだしさ。」
行こう行こう、と友人は軽快な足取りで音楽室へと駆けていった。突然のことに反応の遅れた私は、慌てて彼女の後を追う。少しだけ、息が詰まりそうになるのを感じながら。
音楽室のある階層に上がると、音がよりいっそう大きくなった。そういえば、夏のコンクールで引退して以来、部活には一切顔を出してないな。なんてことを考えながら、友人と音楽室に向かう。
音楽室は階段を上がって右に曲がり、そのままずうっと奥の角を左に曲がったところにあった。扉は防音のため二重構造になっているが、その効果は皆無に等しい。
私達は扉からそっと中を覗いた。合奏をしていたようだ。合奏体形になって指揮者の話に真剣に聞き入る彼らを見ていると、急に疎外感を感じた。数ヶ月前までは私もあの中にいたのに、今は何故か、少し遠いように思える。
「うわー、これはお邪魔しづらいな。」
「する気だったの?吹奏楽部でもないのに。」
「あわよくば間近で聴けないものかと、」
「馬鹿。」
軽く睨むと、友人はごめんごめん、と頭を掻いた。私も勿論本気ではない。と、その時、音楽室から音が聞こえてきた。そのどっしりと安定した低音は、言わずもがなチューバのものである。
「あ、あれってあんたがやってたやつだよね?えっと……、」
「うん、チューバ。」
友人の、大きいなあ、という呟きを聴きながら、私の目は自然とこの音を出している奏者の方に向いた。
視線の先にいるのは、銀メッキのピストン式チューバを構えた男子生徒だ。ガタイが抜群に良いという訳でもないのに、なかなかどうして、こう見ると実に逞しく、力強く見える。それは彼の音にも言えることで、私は静かに目を閉じて、彼の音に聞き入った。
(前より太くなってる。)
勿論、それは彼の体型ではなく、彼の音が、である。
(やっぱり男の人の音っていいなあ。力強さが全然違う。)
男らしい力強さと、春の太陽のように温かくて、優しい雰囲気を持つ音。私がどう頑張っても、奏でられなかったもの。
「はい、経験者です。チューバ歴四年目!」
経験者か、というパートリーダーの質問に、彼は笑ってそう言った。高校から始めた私は、《経験者》と聞いて、少し身構えたのを覚えている。
「先輩達もですか?」
「んー、俺はそうだけど。」
「…私は、高校からです。」
私は小さく呟いた。彼は、「そうなんですかー」と意外そうに返してきた。彼の反応に納得がいかないまま自己紹介は終わり、その日の練習が始まった。
「先輩!」
練習を終え片付けをしていた時、彼が近くに寄ってきた。
「先輩、高校からなんですよね?」
その言葉に私は、恐らくあからさまに顔をしかめただろうと思う。自分が上手くないのは十二分に理解していた。なので、わざわざ指摘されたくはなかった。しかもそれが先輩にならまだいいが、【彼】つまり後輩に言われるのだから、実力や年数上遥かに劣っていても、やはり悔しい。
だが、彼が私にかけた言葉はそうではなかった。
「嘘でしょ?先輩、かなり上手いじゃないですか!」
私は思わず、「え?」と聞き返してしまった。彼はにっと笑って。
「先輩、上手いです。高校からって聞いてたからそんなに上手くないのかなーって思ってたんですけど、びっくりしました。」
素直なのは、多分彼の性格だろう。そこには彼の人柄も影響したのか、嫌味のないその言い方に嫌な気はしなくて。彼がチューバを片付ける為、先に教室を出て行った後も、私は暫く茫然としたままだった。
この時のことを思い出す度、「人間って単純だなあ」としみじみ思う。私は、この時のこの出来事をきっかけに、彼という人間を好きになった。でも、それはまだ人として好きになっただけで、いつからそれが恋に変わったのかは分からない。
「私ね、男の人が吹くチューバの音が好きなの。」
「先輩、エロいっすね。」
「エロいとか!そんなんじゃないから!」
慌てて首を振ると、彼は面白そうに笑った。
「だって男と女じゃ力強さが違うでしょ?」
「そうかなあ…。」
彼は同意し難いらしく、首を捻る。少なくとも私はそう思うんだよと言うと、彼は苦笑を浮かべた。
「だから君の音も好きだよ。」
これではまるで告白ではないか、と一人恥ずかしくなる私の思いを知ってか知らずか、彼は「へへっ」と笑って、
「ありがとうございます。」
と言い、また吹き始めた。その音を聴きながら、私も見よう見まねで同じ音を出そうとしてみるのだけど、やはり出来ない。
そっと隣に座る彼を見ると、彼は背筋をシャンと伸ばして、どこか遠くを真っ直ぐに見ながら、力強く優しい彼の音を奏でていた。
(やっぱり好きだなあ。)
彼のことは人として好きだ。けど彼の音には、恐らくそれ以上の感情を抱いていた。
間違なく私は、彼の『音』に惚れたのだ。ずっと聴いていたくて、自分の練習を疎かにしてしまいがちになるほどに。その音を手に入れたくて、やがて私は、彼に惚れていったのだ。
扉から覗いていた私達にいち早く気付いたのは、パーカッションの子だった。先輩が来ている、と言ったのが扉を隔てていても分かったので、ちょっぴり恥ずかしい気持ちになる。言わなくてもいいのになあ、なんて思っていると、全員の視線がこちらに向く中、部長が走ってきて扉を開けた。
「来てたなら声かけてくださいよ。」
「いや、合奏中だったしさ。このまま帰る予定だったんだけど。」
そうして連れられるがまま、私達は指揮者の後ろにあった椅子に座らされた。
「先輩!」
顔を上げると、彼がチューバの横から顔を出して手を振っていた。手を振り返すと彼は嬉しそうに笑う。それは反則だろう、と私は、多分赤くなった顔を隠すように下を向いた。
練習は六時半まで続いた。結局最後までいることになった友人は、願いが叶ったというのにとても疲れた顔をしていた。
「すごく居心地悪かった…。」
「うん、お疲れ様。」
「先輩!」
声のする方に首を捻る。彼だ。もう片付けを終えたらしい。
「久し振りですね。先輩、中々来てくれないから淋しかったんですよ。」
笑う彼を見ながら、それは本心だろうか、と少し期待する自分を感じて、ばれないように苦笑する。
「かなり上手くなってたね。びっくりしたよ。」
「当たり前っすよ。俺天才だから。」
「調子に乗るな。」
彼の頭に手刀を落とす。勿論冗談だから、軽く触れる程度だ。彼は「痛いですよー、暴力反対ー」と笑いながら私の手刀を防ぐ。
そうやってふざけていると、部員の一人が彼を呼びに来た。どこもこうなのかは知らないが、少なくともここの吹奏楽部は部活が終わる前に集合して、顧問からの話を聞く。
彼が部員に「すぐに行く。」と返したのを見て、「じゃ私達もそろそろ…」と荷物を持ち上げた。
「じゃあね。練習頑張って。」
「あ、先輩!ちょっと待っててください!」
彼は慌てたように荷物置場へと走っていき、自分の鞄から何か取り出して戻ってきた。そしてそれを私に差し出す。
ロイヤルブルーの小さな紙袋だった。中に青い小箱が入っている。
開けていい?と聞くと、彼は少し緊張した面持ちで頷いた。
私は恐る恐る箱を開けた。中には音符の形をしたブローチが入っていた。
「へえ、可愛いじゃん。」
手元を覗き込み、友人が言う。彼は恥ずかしそうに頭を掻きながら、
「ささやかながら、大学合格と卒業祝いです。おめでとうございます」
そう言って頭を下げた。
「二年だけだったけど、先輩には色んなこと教えてもらいました。先輩と一緒のパートになれて、一緒にチューバ吹けて良かったです。」
先ほどの部員が、再び彼を呼ぶ。そろそろ行かないといけない。彼はまだ何か言いたそうな顔で私と部員達が集合している方とを交互に見やった。
「ブローチ、ありがとう。すごく嬉しい。大事にするね。」
私がそう言うと、彼は嬉しそうに笑った。「充分だよ」と心の中で呟きながら、彼に早く行くように促す。
「大学、大変だろうけど頑張ってください。また来てくださいね。待ってますから。それじゃあ、さよなら」
彼は再び頭を下げて、部員達の方に走っていった。その後ろ姿を見ていると、奥にいた顧問の先生と目が合い、私は頭を下げて音楽室を後にする。
暦上では春になったとはいえ、まだ寒い時期だ。外はすっかり陽が落ちて、空はもう黒くなっていた。
「良かったの?」
帰り道。切れかけの街灯が照らす中で、友人がぽつりとそんな質問をこぼした。
「何が。」
「ん、いや…。やっぱ何でもない。」
寒いねと間を繋ぐように友人は言う。私も、そうだねと白い息を吐いた。
友人が何を気にかけているかなんて、聞かずとも容易に想像がつく。そして、それに対する答えも、私は持っている。後悔するか否かと聞かれれば多分するだろうとは思う。だけどそれは一時のことだ。
ただ、無性にあの春の太陽のような優しい音が聴きたくなった。そこで思い出したのだが、もう春は来ているらしい。
アンダンテ
ゆっくり、歩くような速さで、
でも確かに時は流れているようだ。