※この話は一応「終電まぎわのバンジージャンプ」の後日談ですが、単体としてもお読み頂けます。



俺が昨夜買ってきたハーゲンダッツのアイスが冷凍庫に鎮座しているという事もあって、神の機嫌は朝からひどく上々だった。ともすれば鼻歌だけでなくスキップでもしそうな勢いだったが、そんな機嫌のいい神の姿を拝めるのは当然ながら悪くない。

今日は土曜日で神は休みであり、俺も実業団の練習は休みの週に当たっていた。それでも午後からは自主トレに行く予定なので、あと数時間ほどは家で神と過ごしていられる。それを知っている神が、「ねーねー牧さん、今からアイス食っちゃいましょうよアイス」と言い出したのはいつもより少し遅い朝飯を食い終わった後の事だった。

「今から食うの?」
「だって牧さん、昼から自主トレ行くんでしょ?だったら今しかないんでコーヒー入れて下さいね」
「そうだな…じゃあそうするか」

使用済みの食器をシンクに運ぶついでに、冷蔵庫からコーヒー豆の入った瓶を取り出す。二杯分の豆をコーヒーメーカーのミルにセットしている脇から、神の「牧さんはアイス、何買ったんですか?」というあからさまに弾んだ声が飛んでくる。

「俺?俺はチョコレートと、和栗」
「和栗?」
「何か、期間限定って書いてあったから」
「ふーん…」

いかにも興味がないといった風に生返事をしているが見せかけであり、本心は食ってみたくて仕方がないのをもちろん俺はわかっている。しかし神の性格上、自分から見境なくねだるような真似はしないであろう事も初めから織り込み済みであった。

素直に「一口食いたい」と言ってくれれば可愛げがあるのだろうが、あいにく俺は、そんな「可愛げのない」神が好きでたまらないのだった。込み上げる笑いを堪えながらコーヒーの準備をしている俺に向かって、神がいかにも不思議そうな眼差しを寄越している。





コーヒーメーカーがドリップを開始したのを真っ先に確認した神が、冷凍庫を開けながら「牧さんはどっちにしますか?」と尋ねてくる。冷凍庫でカチカチに固まったアイスが常温でゆっくり溶けていき、二人分のコーヒーが入る頃には食べやすい柔らかさに解凍されているという計算だった。再び食卓に座り直し、iPadでニュースを流し見ていた俺は「そうだな…」と神の手元に目を凝らす。

「うーん、じゃあ俺は…チョコレ」
「えーっ和栗にしないんですかっ?!」
「…嘘、ごめん。やっぱ和栗の方で」

ですよねー、という快活な返事と共に冷凍庫の扉は閉められ、意気揚々とテーブルに着いた神が抹茶と和栗のアイスを並べてみせる。俺の向かいに腰を下ろすなり和栗のカップに手を伸ばし、「あっ、ほんとだ…期間限定って書いてある」などと呟きながら蓋に刷られた文字をためつすがめつ眺めやっている。

「お前は抹茶の方だろ」

少しだけ意地の悪い事を言ってやると、はっと我に返ったらしい神が顔を上げ、「ちょっと見てただけですから」と唇を尖らせる。ちょっとどころじゃなく、思いっきりガン見だったけど―――この時点で俺の腹筋は崩壊寸前だったが、どうにか咳払いでごまかしてコーヒーメーカーに視線を投げる。

「あっ、ドリップ終わったみたいだな」

抽出完了のランプが点灯したのを合図に席を立ち、サーバーからマグカップにコーヒーを注ぐ。いつもなら少量の牛乳か生クリームを入れる神も、甘い物を食う時だけはブラックと決めているらしいので、特に何も注ぎ足す事はなく二つのマグカップをテーブルにコトンと置いた。

「ありがとうございます。はい牧さん、スプーン」
「お、サンキュ」

神の手からスプーンを受け取ると、淹れたてのコーヒーを一口啜ってからアイスの蓋を開け、その下にあるビニールも取り去る。何やら前方から異様な雰囲気を感じて目線だけを動かすと、神が自分の抹茶アイスには全く手もつけずに身を乗り出し、能面のような面持ちで俺の挙動をじっと見守り続けている。

「…神」
「何ですか?」
「一口食うか?」

次の瞬間に神が見せたキラキラと輝く瞳と満面の笑みは、ハーゲンダッツの凄さというものを改めて認識させられたかのようであった。そんなに食いたいんなら言えばいいのに、というセリフが喉まで出掛かるのを寸での所で思いとどめる。

「ほら、口開けな」

まるで鳥か何かに餌付けしているような気分だったが、ティースプーンでギリギリ限界の量まで掬ってやったアイスを神の口元に差し出す。光の速さでそれにかぶりついた神は、じっくり舌で堪能して飲み込んだ後にさらに瞳の奥をスパークさせた。

「美味しい…!ねー、牧さん…」
「あ、交換するよな?俺、抹茶食うから」
「えーっ、いいんですかあ」

何か催促したみたいで悪いですね、と口では謝りつつ全く悪びれた様子もなく神は笑い、俺の手から和栗のカップを半ば強引に奪い去るのだった。俺は神に悟られない程度にため息を吐くと、食べ頃を通り越してかなり溶解してしまった抹茶アイスにスプーンを沈ませた。

「俺さー、抹茶アイスって実はあんまり…」
「はい?」
「…いや、何でもねえって、ちゃんと食います、はい」

普段、「牧さんは基本的には先輩ですから」などと口癖のように言っている神だが、果たしてそれはいつまで有効なのだろうか―――俺は、自分の地位が日を追うごとに陥落するのを実感しながらも、あまり得意ではない味のアイスを食い、コーヒーで流し込む。要するに俺は、神の笑顔を絶やさないためなら何でもするという事だった。