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眠っているのなら(4)

眠っているのなら(3)

起こしてくれる人がいないというのは、ここまで如実に影響を及ぼすものなのか。翌日、目を覚まして携帯を見た時には、開店時間の11時半はとっくに過ぎ去っていたのだった。

「やべっ…」

確か携帯の目覚まし機能を設定していたはずだが、いつの間にやら解除されている。無意識下の行動とは、全くもって恐ろしい―――などと感心している場合ではなかった。慌ててベッドを抜け出し、パジャマ姿のままで階段を駆け下りる。勢いよく扉を開け放つと、いつも開店と同時に訪れる常連のおじいさんが座り込んでいるのに出くわした。チラリと俺を見やり、「あー、やっぱり休みじゃなかったんだ」と言ってゆっくりと立ち上がる。

「張り紙とか何もなかったから、おかしいなとは思ったんだけどね」
「すみません、あの…寝坊しちゃって…」
「そうだろうね、そのボサボサ頭じゃね。いつも起こしてくれるとかいう兄ちゃんは、今日は来なかったの?」
「ああ、何か今日から仕事みたいで…すぐ支度しますね」

おじいさんを店内に招き入れ、顔を洗ってから二階へ引き返す。白いシャツと黒のデニムパンツに着替え、カフェエプロンを腰に巻いた所で「あっ」と声を上げた。昨夜から、エプロンのポケットに入れっぱなしだった物の存在に気づいたからだった。

ポケットに手を突っ込み、問題のカードを引っ張り出す。そこには昨夜見た物と寸分違わず、荒涼とした世界観が描かれていた。甲冑を身に纏い、馬に跨がった髑髏が人々を踏みつけてはなぎ倒していく。そう、まるで地獄のような―――そこまで思い至った俺はハッと息を呑んだ。何か最大のヒントが隠されているような気がするが、今それを明確に表現する余裕はない。俺は再びカードをポケットにしまい込むと、おじいさんが必ずオーダーする「野菜と卵のサンド」を作るべく寝室を飛び出した。

「すみません、お待たせしました」

店内にはおじいさんの他、やはり昼時に来店する数人の常連客の姿があった。口々に「マスター、今日どうしたの?」「具合でも悪いの?」と心配される中、各方面に頭を下げつつカウンターの中に入る。彼らのオーダーは九割方決まっており、よほど気まぐれを起こさない限り変えられる事はない。俺は、取り急ぎドリンクだけをそれぞれの客に提供すると、冷蔵庫から野菜や卵などの食材を取り出して調理を開始した。

卵は茹で卵ではなく、刻みネギを混ぜた卵焼きにするのが特徴だった。砂糖と味噌が入るため、パンに挟まずご飯で食べたいという客もいるぐらいだ。卵はボウルに割り入れ、菜箸で軽く溶いておく。長ネギをみじん切りにする段階で、普段はめったにやらかさない事故が起きてしまった。客を待たせてしまったという焦りから手元が滑り、包丁の刃が指先を掠めてしまう。ザクリ、という生々しい感触が全身を貫いた時には既に遅かった。

「……っ!」

ヤバい、切った―――しかもけっこう深く入ってしまった気がする。俺は咄嗟に反対の手で傷口を押さえ込みながら、やっぱり今日は厄日だな、と天を仰いだ。染みるような痛みと赤黒い血のぬめりは、何度経験しても耐えられる物ではない。そして今、まさにその状況に陥る事を覚悟した時に異変は起きた。

「あれっ?痛くない…?」

一瞬だけ走った痛みも、何故かそれ以上長くは続かなかった。と言うか、初めから傷口など存在していないかのような…不審に思いながら恐る恐る手を開いてみた俺は、そこにあった光景が俄には信じられなかった。

「えーっ…!」

何かがあった訳ではなかった。むしろ、「何もない」と言い換えた方が正しかった。間違いなく、包丁の刃は人差し指の皮膚を削いだはずだ。にもかかわらず、「何もない」という状況を正しく理解する事が出来なかった。傷口が存在しないのであれば、痛みも流血も発生しようがないという事だった。

「うそっ…何でーっ?!」
「どうしたの、マスター?!」

客の一人に諫められ、ようやく正気を取り戻す。気づけばその場にいた全員が、それぞれに怪訝な表情を浮かべながらこちらをじっと窺っていた。非常に気まずい空気が流れる中、ぼそぼそと「今日のマスター、やっぱりちょっと変だな…」「今日はもう休みにした方がいいんじゃ…」という独り言が聞こえてくる。穴があったら入りたい、とはまさしくこの事であろうか。

「すみません、大丈夫です…」

もちろん大丈夫ではなかったが、そう答えるより他になかった。ようやく中断していた調理を再開しながら、俺は目の前で広げた自分の左手をためつすがめつ眺めやる。もはや、どこを切ったのかさえもわからなくなっているという現実が薄ら寒さを倍増させるのだった。





「マスター、今日寝坊したんだって?」

木暮さんが珍しく二日連続で来店したと思ったら、屈託のない笑顔で問われたので俺は腐った。渋々ながらも「誰に聞いたんですか?」と尋ねると、「山崎さんだよ。さっき、お孫さんを迎えに園に来てたから…」と返される。山崎さんというのは、例の常連客である「おじいさん」の名字である。

「いつもマスターを起こしてくれる兄ちゃんもいないみたいだし、明日は大丈夫かねえって心配してたけど、山崎さん。…牧は来なかったんだ?」
「はい。実は昨夜、閉店まぎわにここに来て…今日から仕事でしばらく来れないって」

言いながら、昨夜この場所で牧さんとキスした記憶が蘇る。同時に、至近距離で聞かされた低めの優しい声も再現され、自然と顔がにやけてしまうのを抑えられない。木暮さんがあからさまに、「何かあったな」と言いたげな眼差しを寄越している。

「あと、急に大きな声を上げたからびっくりしたとも言ってたけど、何かあったの?」
「あー、それは…ほんとに何もなかったんですけど…」

実際、「何もなかった」のだから嘘はついていない。俺は結局、一日中ポケットに入れっぱなしだったカードを取り出して木暮さんに示した。眉間に皺を寄せた木暮さんが眼鏡のフレームを指で押し上げ、俺とカードを代わる代わる見比べている。

「何これ?」
「昨日、牧さんが帰った後にこれが椅子の下に落ちてたんです。…そう、今、木暮さんが座っている席の隣の椅子ですよ」

木暮さんはぎょっとしたように床下を覗き見たが、すぐに視線をテーブルに戻した。おもむろにカードの端を摘まみ、目の高さまで持ち上げながら口を開く。

「牧が帰った後に落ちてたって事は、牧の私物なの?」
「わかりません。でも、多分そうだと思います」
「そうか。これはあれだよね、…タロットカードの死神」
「タロットカード?」

知らない?と木暮さんが、眼鏡の奥の目を意外そうに見張ってみせた。コクリと首を縦に振ると、木暮さんは顎に手をやりながら「まあ男はね、こういうのはあまり縁がないかもね」と笑った。

「タロットカードってほら、よく占いとかで使うやつだよ。一時期、うちの妹が占いにハマっててさ。何か、自分でもカード買ってきて運勢とか見させられてたから」
「占いですか…星占いぐらいしか知らないんですけど…」

検索してみようか、と木暮さんがテーブルに伏せていた携帯を取り上げて文字を入力する。「ほら、これ」と差し出された画面を覗き込むと、検索結果として、ここにある絵柄と同じ物がいくつも表示されていた。

「死神…」

思わず漏らしてしまってから、木暮さんと顔を見合わせる。まさか…いや、そんな非現実な話があっていいのだろうか?牧さんが「死神」だなんて…先にも述べた通り、俺はこの手の空想世界には全く興味がないし知識もない。だが昨日、木暮さんから聞かされた牧さんについての疑惑は、もしかしたら彼がそうした存在であれば可能なのだろうか。すなわち、一切の証拠を残す事なく人を刺すという神業的な行為は―――。

「いや、まさかそんなねえ…いくら何でも…」

俺が言葉を発するより先に、首を傾げながら木暮さんが口ごもる。何の話ですか、とは聞かなかったし聞きたくもなかった。互いに暗黙の了解で、「疲れているんだろう」と結論づけてこの話題を切り上げる事にする。

「マスター、やっぱり疲れてるんじゃない?今日は早めに店じまいした方がいいよ」
「えっ?ああ、そうですね…じゃあそうしようかな…」
「明日は頑張って起きてね」

言われなくてもそうするつもりだった。これ以上、何かしらの超常現象を見せられるのは御免だった。曖昧な笑みを浮かべながら頷く俺に、木暮さんも似たような表情で応じる。たった一日牧さんに会えなかっただけで、ここまでリズムを狂わされる自分がいっそいじらしくてならなかった。





翌日からは、目覚まし時計を3個セットしていたため寝坊はせずに済んだ。が、人の声で起こされるのと機械的に起こされるのとでは、さすがに目覚めの質が違いすぎると言うものだ。ましてやそれが、牧さんの声であったらなおさら―――俺は、牧さんの不在が一週間の予定で良かったと心の底から安堵した。これが仮に、月単位か年単位であったら軽く廃人になっていたに違いない。

そんな味気ない生活が5日ほど続いた朝も、俺は3回目の目覚ましのベルで辛うじて覚醒する事が出来た。耳をつんざくような金属音を止め、空気の淀んだ室内を見渡す。今日が約束の「一週間後」だろうかと、靄のかかった思考をぼんやりと働かせた。常連客の間では、牧さんが来なくなってからの俺は相当「生きる屍」化が進んでいると専らの噂らしい。ちなみに発信元は例の山崎さんであると、木暮さんが呆れ気味に教えてくれた。

「まあ、別にいいんだけどさ。本当の事だから…」

上半身を起こし、サイドボードに手を伸ばす。そこにあったのは言うまでもなく、あの「タロットカードの死神」だった。この数日の間に、俺はそのカードを肌身離さず持ち歩くようになっていたのだ。見れば見るほど縁起の悪い絵柄だが、牧さんの分身かも知れないと思うと無下には扱えないという物だ。

実は自分でも、タロットカードの死神というカードについて少しばかり調べていた。まず、カードに付された番号が「13」らしい、という所からして不吉以外の何物でもなかった。そしてカードの意味も、「終末」「破滅」「死の予兆」といった忌まわしげな言葉のオンパレードで、それもまた見ての通りと言った感じだった。
しかし、それが逆位置―――上下逆さまになると「再生」「新展開」「上昇」といった意味に転じるらしく、この「再生」という単語を目にした瞬間に俺は突然腑に落ちる物があった。先日の傷口の消滅を「皮膚の再生」と捉えれば、あれはやはりこのカードのおかげであると考えざるを得ない。

俺はさらにサイドボードから携帯を掴み取り、着信やメールの受信が何もない事を確認してため息を吐いた。もしかしたら今日あたり、何か連絡が入ってくるのではないかと期待しているのだが―――ダメ元で電話帳から牧さんの番号を探し出し、発信ボタンを押してみてもそれは同じだった。「おかけになった電話番号は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため…」という、無機質なアナウンスを聞き終わらないうちに携帯を耳から外して発信を終了する。

でもこれが最後だから、と俺はあえて声に出して己を奮い立たせた。牧さんは「必ずここに戻る」と言っていたのだから、無事に戻ってきた暁にはずっと一緒にいられるだろう。絶対どこにも行かせないから…俺は決意も新たに宣言すると、足で毛布をはねのけてベッドから降り立った。





「牧さんっ?」

あと30分ぐらいしたら店じまいしようか…という頃に、扉を開ける気配を感じたので見もしないで言ってしまった。「牧さんじゃなくて悪かったですね」と、扉の隙間から信長がひょっこり顔を覗かせたので、俺の落胆ぶりはまさしく「世界の終わり」も同然といった勢いだった。

「何だ、信長かー…」
「何だじゃないっすよ。お客様ですよ、お・客・様」
「すみません、もう閉店なんですけど」
「ちょっ、神さーん…」

そのまま信長はカウンターの席に着き、俺は露骨に嫌そうな態度を表しつつも冷蔵庫から牛乳を取り出した。手鍋にココアパウダーと砂糖、少量の牛乳を加えてスプーンで練る。他に客はなく、スプーンの先が鍋底をなぞる音だけが乾いた空間を埋めていく。

「今日、帰ってくるんでしたっけ?牧さん」
「わかんない。一応、予定ではそうなってるけど…」
「神さん、ここんとこずっと待ってますもんね。牧さんの帰りを」
「まあね」

努めて素っ気なく答える。正直、信長とは牧さんの話をしたくなかった。どうせ信長には「得体の知れない男」呼ばわりされているのだし、牧さんの良さがわからない奴には何を言っても無駄だからだ。美味しいコーヒーを淹れられる人に悪人はいないのに…と内心むくれていた俺に向かって、信長が決定的なセリフを放つ。

「本当に大丈夫なんですか?もしかしたら人を、殺してるかも知れないのに…」
「なっ…」

伏せていた顔をガバリと起こす。その弾みですっぽ抜けたスプーンが宙を舞い、床に落ちた。先日、皿を割った時に比べれば大した被害はなく、わずかにココア色の染みが点々と木目を汚したぐらいだった。

「何で信長がそれ知ってんの?木暮さんに聞いたのっ?」
「木暮先生?いや、木暮先生には何も聞いてないですよ。俺のは単に、園児の親たちから聞いた噂話の域だから…でも」

急に背筋を正し、探るように俺を見上げてくる。もともと眼力の強い信長の目に鋭い光が増し、まるで刑事に尋問されている気分だった。それより何より、園児の親とかいう面々にまで牧さんの疑惑が伝わっているという実態が腹立たしい。俺はただ牧さんと一緒にいたいだけなのに、周囲の雑音の何と疎ましい事か。負ける訳にはいかない、と俺は拳を握り締めて信長を睨み返した。

「木暮先生もそう言ってるって事は、やっぱりその噂は真実なんですか」
「違うよ、牧さんは人なんか殺…してないと思う」
「いや、そこは『殺してない』って言い切るべきでしょ。牧さんの事が好きだったら」

信長の言う通りだが、完全にシロだと断言出来ない、律儀な自分が呪わしかった。それについては俺だって、あのカードさえ見ていなければ―――と声高に訴えたい所だ。だが、俺にしてみれば全く取るに足らない、「クソみたいな問題」であると言ってもいい。俺は牧さんが好きだし、これから先に何があろうとずっと好きで居続けるからだ。

「そうだよ、俺は牧さんが好き…好きだから、過去に何かがあってもなくても関係ないよ、俺からしたら。はっきり言えば『クソみたいな問題』だからっ」
「神さん…気持ちはわかるけど、何もそこまで…」

信長の顔つきが少しだけ和らぐ。珍しく熱弁を振るってしまったものだから、やたらと喉が渇いて仕方がなかった。これで脱水症状でも起こしたら間違いなく信長のせいだから、と微妙に見当違いの怒りを沸騰させてみる。

「不甲斐ない先輩を心配してくれてるんだったら、本当に申し訳ないけど…それとも、急にそんな風に言い出したって事は、もしかして信長は俺が好きとか…?」
「や、それは絶対にないっす。つーか、こんな面倒臭い先輩を好きになるとか1000パーあり得ませんから」
「1000パーってどんだけっ?!」
「あのー、お取り込み中悪いんだけど…」

いきなり割って入った第三者の声に、俺と信長が同時に視線を走らせる。いつからそこにいたのか天然パーマの、飄々とした佇まいの男が信長の斜め後ろに控えていた。そう言えば牧さんがここを発つ前、「武藤って奴がこの店に来るかも知れない」と話していたのを思い出す。ひょっとするとこの男が今、何の脈絡もなく登場した―――。

「あのー、武藤…さん、ですか?」
「あっ、牧から聞いてた?そうそう、俺、武藤。よろしくね、神くん。好きな芸能人は有村架純」

軽い―――どこまでも軽いノリに、俺自身がついていけない。そんな戸惑いなどは、それこそ取るに足らないとばかりに武藤さんは顔を綻ばせ、「それはさておき、神くんに伝えたい事があるんだけど…」と言って信長をじろじろ見やった。その上、異様に大きな咳払いを二度もしてみせるという徹底ぶりで、これにはさすがの信長も退散するしかないという具合だった。

「あー…神さん、俺、帰りますね?ココアはまた明日にでも飲みに来ますんで」
「えっ?あ、そう?ごめんね、じゃあまた明日…」
「はい、おやすみなさい。牧さんによろしく」

ペコリ、と頭を下げた信長が扉の向こうに去っていくと、武藤さんはその行方を見届けた後にカウンターの席に着き、「じゃ、人払いも済んだ所で…」と俺に向き直った。人払いというのはもっとさり気なく、そういった空気を匂わせない程度に行うものではないのか。

「…何か飲みます?」
「ああ、ここ喫茶店だもんね。じゃあ、コーヒー…はないんだっけか…そしたらレモネードとか作れる?」
「レモネード…」

おまけにその、昭和っぽさ全開のオーダーはいったい何なんだ―――言いたい事は山ほどあったものの、「かしこまりました」とだけ返事して冷蔵庫の前に立った。レモネードって確かレモンと蜂蜜だったっけな、と古い記憶を呼び覚ましつつ該当の食材を探し当てる。牧さんが「武藤」という名を口にした時の、微妙に辟易していた様子が今なら納得できる気がした。

俺の作ったレモネードを武藤さんは美味そうに飲み干し、「こんな美味いレモネードは生まれて初めてだ」とまで絶賛してくれた。それはさすがにどうかと思うが、さっそく明日からメニューに追加してもいいかも知れない。

「あっ、そうそう。明日ね、牧、帰ってくるから」

急に核心に迫ったセリフを投下されたので、一瞬何を言われたのか判断できないほどであった。

「えっ?」
「すっげー疲れて帰ってくると思うけど、君に会いたい一心で頑張ってたから誉めてやって」
「あのー、あなた方はいったい…」

何者なんですか、という質問を寸での所で押し殺す。どうせ、まともに答えるつもりはなさそうな事は百も承知だったからだ。武藤さんはグラスに残った氷をカラカラと鳴らし、「俺はねー、今は牧の担当っつーかコーディネーターみたいな立場なんだけど。もともとは牧と同じ高校で、バスケ部にいたんだよね」と言った。概ねそれは、俺が考え得る範囲内の回答だった。

「ついでに言うと、木暮とは小・中が一緒だったんだよね。高校は別だったけど」
「そうなんですか?じゃあ木暮さんが言ってた、『牧が通ってた高校に俺の友達が行ってて』っていうのは…」
「そんな話してたんだ?じゃあ、それは多分俺の事だね」

お代わりある?とグラスを掲げられ、黙って水滴の纏わりついたそれを引き取る。牧さんと木暮さんという、直接の知り合い同士ではない二人を取り持つキーパーソンが武藤さん、というのが個人的には解せなかった。果たしてこんな雑な対応の男に、重要な役割を担わせて大丈夫なのだろうか。

「武藤さんはもちろん、牧さんの過去の疑惑はご存知なんですよね?」
「そりゃ当然知ってるって、昨日の事のように覚えてるよ。ついでに言うなら牧がそん時付き合ってた、井川遥っぽい音楽の先生についても詳しく語れるけど、それは別に聞きたくないでしょ?」
「あー、それはまあ…確かに興味ないですね」
「ま、昔の話だからさ。今、牧が好きなのは君だから安心して」

安心してって言われても…俺はどうにも返しようがないまま、新たにレモネードを注いだグラスを武藤さんに手渡した。受け取りざま、一気に半分ほど消費した武藤さんが「あー、やっぱレモネード美味いわ。最高」などと満足げに独りごちる。

「その、牧さんの過去の話と今の仕事っていうのは…これと関係あるんですかね?」

俺は切り札として用意していた、 例の死神のカードをコースターの隣に並べてみせた。それで武藤さんの態度が一転するかと思いきや、顔色一つ変わる訳でもない。どこまでも食えない男だ。ある意味、牧さん以上に最強の人物かも知れない。

「あっ、これ?これは牧の名刺だったりメッセージカードだったり、まあいろいろなんだけど。でもあいつ、帰ってきたらこの仕事を引退するらしいから、効力は薄れちゃうかも知れないけどね」

武藤さんはカードを拾い上げてひとしきり眺めた後、ぽい、と手のひらから滑り落とすようにした。こんなにも見る者に恐怖心を植え付ける力がありながら、ただの紙切れにも等しい扱いというのも何だか妙な話だった。

「効力?それじゃやっぱり、俺がこないだ包丁で指切った時に傷口がなくなっちゃったのは…」
「そんな事あったんだ?へー、このカードが逆位置の意味で作用したのは初めてだなあ。驚いたわ。神くん、相当牧に愛されてるんだね」
「それはどうも…」

相当愛されている、というストレートな響きが羞恥心を過剰に煽った。嬉しいが、複雑な胸中だ。やはり牧さんの口から直に聞きたいと思っていると、すかさず人の心を読んだらしい武藤さんに、「本人が帰ってきたら、浴びるほど言ってもらってね」と釘を刺されてしまう。

さてと、と武藤さんは残り半分のレモネードも食道に流し込み、「じゃ、牧の事よろしく頼むわ」と言って席を立った。千円札を渡され「釣りはいらないから」と断られたが、レモネード2杯分としては当たらずとも遠からずな価格であり、得意満面な顔をされるほどの事でもなかった。
ライダースジャケットを羽織り、扉の手前まで突き進んだ辺りで歩みを止める。振り返った武藤さんはとぼけた笑顔でありながら、諦めの境地のような悪あがきのような、相反する風貌も醸し出していた。

「うちらの業界からしたら、牧みたいな有能な奴を失うのは大きな痛手なんだけど…本人の意志は固いみたいだし、こればっかりは仕方ないかなあ」
「そちらの業界については知りませんが、牧さんは俺と一緒にこの店をやっていく事が決まってますので…申し訳ないですけど、牧さんは絶対に渡しませんから」

淀みなく捲し立てる俺に、武藤さんは軽く両肩を竦めてみせただけだった。その短い挙動だけで、了解というサインを送ってくれたものと解釈しておく。
扉が閉まり、一人店内に残される。途端に緊張感から解放された俺は、腹の底から嘆息しながらズルズルとその場にしゃがみ込んだ。





「眠っているのなら(4)」に続く→

眠っているのなら(2)

「…という訳なんです、木暮さんどう思いますか?」
「あはははっ、そりゃノブ先生も災難だったねー」

木暮さん、というのは信長と同じ保育園で働いている保育士である。週に一、二度の割合でこの店に来て夕飯を食っていく彼は、信長の事を「ノブ先生」と呼んでいる。

「そう言や今日、ノブ先生すごい愚痴ってたなあ。ほんとの事言っただけなのに、神さんに頭はたかれたーって」

木暮さんはいかにもおかしそうに笑うと、掛けていた眼鏡を外してハンカチで拭い始めた。そんな彼の前に、ナポリタンの皿とアイスティーのグラスを置いた俺が軽く舌打ちしてみせる。

「あれは信長が悪いんですよ…」
「あとね、自分の先輩が自業自得とは言え、得体の知れない男にイカレてるのを見るのは忍びないとも言ってたっけな」
「あいつ、そんな事言ってたんですか?!あー、やっぱりもう一発殴っとくんだった…」

しかも、確か昨日は「素性の知れない男」という表現だったのが、一夜明けたら「得体の知れない男」呼ばわりに変わっているのが非常に気に食わない。つい押し黙ってしまった俺を見やり、眼鏡を掛け直した木暮さんがおもむろに口を開く。

「実は俺、牧のこと知ってるんだよね」
「えっ、そうなんですか?初耳ですけど…」
「直接の知り合いって訳じゃないからね。牧が通ってた高校に俺の友達が行ってて―――実は、ちょっとした噂があるんだ」

これは、ノブ先生にも話してないんだけど…と木暮さんは言葉を切り、ほんの少しためらうような素振りを見せた。良くない噂であろうというのは想像に難くなかったが、俺は木暮さんに向かって目配せする事で先を促した。何を聞いたとしても、牧さんが俺にとって特別な存在である事に変わりはないからだ。そんな俺の決意を汲み取ってくれたらしい木暮さんが、視線を宙に走らせながら語り始める。

「当時、牧は…もう15年ぐらい前になるかな、高校生の時の話ね。めちゃくちゃ強豪のバスケ部のエースで、一年の時から既に高校バスケット界では頭角を現していたんだ」
「バスケ…」

ふと思い出した事がある。牧さんが初めてこの店でコーヒーを淹れてくれた日に、牧さんが俺をまじまじと見つめながら「けっこう身長あるみたいだけど、何かスポーツやってた?」と尋ねてきたのだ。
牧さんの指摘通り、俺は割合と背が高くて189センチあるのだが、特にスポーツなどの経験はなかった。そう告げると、牧さんはひどく残念そうに「そっか…何かもったいねえなあ、そんだけタッパあるのに」と呟いたのだが、あれはそういう意味だったんだなと今となっては納得がいく。

「実は俺もバスケやってたんだけど、うちの高校のバスケ部は予選一回戦負けの弱小チームだったからね。牧は俺の事なんか知らないんじゃないかな」
「木暮さんもバスケやってたんですか?何か意外…」
「うん、みんなに言われるよ。でも俺でさえバスケやってたのに、神が何もしてなかったっていう方が俺にとっては意外だったけどね」

そこで木暮さんはフォークを取り上げ、オレンジ色のパスタをくるくると巻きつけ始めた。俺が学生時代にスポーツに縁がなかったのは、両親を早くに亡くしてそれどころではなかったからであるが、その辺の話については今は割愛する。

「…まあ俺の事はさておき、牧の高校は今も言った通り強豪校で強い選手がいっぱいいたんだけど、そんな中で一年生にしてレギュラーの座を勝ち取った上に、デビュー戦から次々と当時の記録を塗り替えていくスーパールーキーだったんだ。いやー、びっくりしたよね。同じ高校生とは思えないぐらいだった」
「……」

木暮さんは珍しく饒舌で、部外者の俺でさえ、当時の牧さんの凄さというものがひしひしと感じられるようだった。一度でいいからその、「スーパールーキーの牧さん」を拝みたかった気もする。

「でも、そんな牧の活躍を良く思わない先輩もいたみたいで…けっこうな嫌がらせも受けてたらしいんだよね。その中でも特に牧を目の敵にしてる先輩がいたとかで、さすがの牧もうんざりしてたって俺の友達から聞いたけど」
「あー…やっぱあるんですねそういうの、どこの世界にも」
「まあね、それでなくても牧は目立ってたから」

木暮さんが、まるで飴玉のようにフォークに絡みついたパスタを口に運んで咀嚼する。甘いケチャップの匂いが空腹中枢を刺激し、俺も自分の夕飯はナポリタンにしようかな、などと緊張感のない事に頭を巡らせた。が、その他愛もない思考は次の瞬間に凍りつく。

「それから何ヶ月か経った後、その先輩―――牧に対して一番当たりの強かった先輩が、学校の屋上で血まみれになって発見されたんだ」
「えっ…!」

頓狂な声を発してしまってから、慌てて店内を見回す。幸い木暮さん以外に客はなく、俺はそっと胸を撫で下ろした。そんな血生臭い展開が待ち受けているとは…まさか、牧さんの仕業だとでも言うのだろうか。俺の動揺をよそに、木暮さんは柔和な態度を崩さないまま首を横に振ってみせる。

「大丈夫だよ。腹やら胸やらナイフで刺されてはいたけど、一命は取り留めたから。あと牧は、ちょうどその時間帯―――昼飯時だったらしいけど、音楽室にいたんだって」
「音楽室?」
「ぶっちゃけると牧はその頃、音楽の先生と付き合ってたって話なんだよね。事件が起きた時間に、牧が音楽室から出てくるのを何人かが目撃していたみたい」
「じゃあ、アリバイは証明されたんですねっ?」

俺は勢い込んで木暮さんに詰め寄った。「顔、すっごい怖いんだけど」と木暮さんに噴き出され、込み上げる恥ずかしさと決まり悪さに目を伏せてしまう。

「一応、そういう事になるのかな。もちろん、ある程度の事情聴取はされたかも知れないけど」
「でも木暮さん、さっき『ちょっとした噂がある』って言ってましたよね?それはやっぱり、牧さんがその先輩って人を…」
「刺したんじゃないかって?んー、面と向かって言う奴はいないけどね。むしろ、牧に対する同情の方が多いぐらいだから…」
「その先輩は、自分が刺された状況について何て言ってたんですか?」

俺が素朴な疑問を投げかけると、それがねえ、と木暮さんは腕組みの姿勢で体を反らせ、天井を仰ぐ。

「刺された瞬間の事は全く覚えていなくて、気づいたら血まみれになって屋上で寝っ転がってたって」
「不可解ですね…」

ますます訳がわからない。その先輩は、牧さんを快く思っていなかった(むしろ憎しみさえ覚えていた?)のだから、真実であろうとなかろうと「牧さんに刺された」と証言してしまえばいいだけの話だ。それをしなかったのはなけなしの良心が働いたのか、はたまた別の理由による物なのか。

「結局、その先輩は事件直後にバスケ部を辞めて、牧に反発する勢力もすっかり消滅したって事なんだけど」
「そうですか…」
「マスターは大丈夫?」

不意に矛先を向けられ、声にならない声で応じる。木暮さんの意図は大方見当がついたものの、わざと気づかないふりで「何がですか?」と返した。やや重苦しくなった空気の中、木暮さんが予想通りの問い掛けを繰り出す。

「そんな、人を刺したかも知れない奴を好きになったりなんかして」
「木暮さんは疑ってるんですね、牧さんの事…」
「そりゃあ、可能性はゼロではないからね。でも俺は所詮、部外者だから何とも言えないけど」

その後に付け足された、「ごめんね」という一言がひっそりと胸を打つ。木暮さんが心配してくれているのは痛いほど伝わってきた。それでも俺は、牧さんに惹かれていく自分を止める事は出来なかった。理由はわからないし、理屈で説明できる感情でもない。木暮さんはそれきり口を閉ざし、湯気の収まったナポリタンを消費する事に神経を集中し始めた。あの話さえなければ、いつもと何ら変わりのない夕刻の風景、という感じではあった。





木暮さんが帰って行き、入れ違いに何人かの客が来店してからはパタリと客足が途絶えた。今日は信長も顔を出さないようだし、この辺でそろそろ店じまいかな…と顔を上げた俺が全身を硬直させる。扉が開き、昨夜と同じように姿を現したのが牧さんだった。普段なら自然と顔が緩む所なのに、さすがにあんな話を聞いてしまった後では、強張ったままの頬は1ミリたりとも動かない。

「悪い、もう閉店の時間か?」
「…いえ、まだ大丈夫ですよ。牧さんは梅昆布茶ですか?」
「そうだな…別に他の物でもいいんだけど、ここに来ると不思議とそれしか思い浮かばねえわ」

何でだろうな、とうっすらと微笑まれる。そんな禅問答的な事を仕掛けられても、俺などに牧さんの頭の中が読み取れるはずもなかった。疲れているから酸味の効いた物が欲しくなるのだろうか、などといった通り一遍の解答しか導き出せない。

「今日、この店に木暮来ただろ?」

牧さんに背を向けて梅昆布茶の準備を始めた俺は、危うく手のひらから湯呑みを取り落とす所であった。何で―――背筋をゾクリと震わせながら振り返った俺と、コートを脱いでスツールに腰掛けた牧さんの視線がかち合う。

「牧さん、木暮さんのこと知ってたんですか?」
「面識はねえけどな。高校ん時の友達の友達が木暮で、学校は違うけどお互いバスケやってたから」
「……」

木暮さん、思いっきり面割れてますけど―――危うく口からこぼれ落ちそうになったセリフを飲み込む。汗ばみ、上手く動かせない手を何とか駆使して梅昆布茶を淹れ、「どうぞ」と言って牧さんに差し出す。何だか俺も喉がカラカラだったので、ついでに自分のマグカップにも梅昆布茶を注ぎ入れた。

「木暮から聞いたか?俺の話」

梅昆布茶なんて久しぶりだな、と奇妙な感慨に浸りながら一口啜った所でむせそうになる。とても、「何の話ですか?」などとしらばっくれるような雰囲気ではなかった。空咳をしながら牧さんを窺うと、鋭い眼差しをしているとばかり思っていたその顔は意外に穏やかで、むしろ楽しげですらあった。

「あー…ええ、まあ何となく…」

何となくどころか「がっつり聞いてしまった」のだが、とても本当の事は言えない。ましてや、牧さんが木暮さんに疑惑をかけられているなんて事は―――しかし、案の定そんなのはとっくにお見通しのようで、「昔の話だけどな」と一笑に付される。

「お前はどう思う?」
「どう…って?」
「俺が本当に、当時の…先輩を刺したかどうかっていう話」

つくづく、返答に困るような質問を立て続けに浴びせられている。もしくは試されているのだろうか?牧さんがそのような所業を犯した人間だったとして、それでも牧さんと店をやりたいと望むのか。それ以上に、牧さんと一緒にいたいと願えるのか―――それならば、俺の腹の内はとうに決まっている。

「わかりません、俺は話を聞いただけだし、当事者でも何でもないから…でも一つだけ言えるのは、そんな些細な事では俺の気持ちは変わらないです」
「神」
「俺はただ、牧さんと一緒にいたいだけだから。過去に何があったかなんて俺には関係ないし、どうだっていい。俺はあなたの事が…」
「神、好きだ」

ガタン、と立ち上がった牧さんがスツールに片膝を載せ、その半身をのし掛からせる。カウンター越しに顔が近寄せられ、触れるだけのキスを施された。

「明日から仕事で、一週間ぐらいはここに来れない」
「えっ…」
「上手くいきゃ一週間以内で終わるか、それ以上かかっちまうかな…でも、それが本当に最後だから。終わったら必ずここに戻る」

それまで待っててな、と念を押され、黙って頷く以外になかった。俺が断れないのを見越した上での言葉であるのは明らかで、そこはずるいとしか言いようがない。あるいはこれが、大人の駆け引きという物なのか。

「ずるいです、牧さん。俺が断れないってわかってるくせに…」
「ごめん。けど、帰る場所があるって思わないと踏ん切りがつかねえから」
「珍しいですね、牧さんがそんなに迷ってるの」
「そうだな、今回はちょっと長旅になるから。心配なのは…」

大きな手のひらで、ぐしゃぐしゃと頭を掻き撫でられる。地肌に触れられる感覚が心地よくて、いつまでもそうされていたかった。

「俺がいない間、お前が朝、ちゃんと起きれるかどうかって事なんだけど」
「それは…すみません、マジで自信ないかも…」
「毎朝、電話でもしてやれればいいんだけど、電波の届かない場所に行っちまうからな」
「そんな辺鄙な所へ?」

いったい何をしに行くのか。喉元まで出掛かっている疑問だけは、どうしてもぶつける事が出来なかった。どうせ聞いても教えてくれないだろうし、今それを聞くべきではないような気もした。時期が来たら教えてくれるはず、というささやかな期待を抱くのは間違っているだろうか。

「朝起きられなくても、飯だけはちゃんと食えよ」

牧さんの唇が、その骨張った指で露わにされた額に押し当てられ、離れていく。ある種の浮遊感で足元を掬われそうになっている間にも牧さんの身支度は整えられ、我に返った時には所定の金額分の硬貨が湯呑みのそばに添えられていた。

「じゃ、また一週間後な。体調にはくれぐれも気をつけろよ。あと―――」
「何ですか?」

その場に立ち尽くす俺を、牧さんの薄茶色の瞳が射抜く。丸裸にされるような錯覚と妄想で、俺の理性はどうにかなってしまいそうだった。そんな窮地を知ってか知らずか、牧さんは淡々とした口調で次のように述べた。

「もしかしたら、俺のいない間に武藤って奴がこの店に来るかも知れない。悪いけど、適当にあしらっといて」
「武藤さん、ですか?」
「マジで適当でいいからな?気遣いとかは全く必要ねえから」
「はあ…」

深々とため息をついた牧さんが店を去り、辺りは再び静寂に取り囲まれた。牧さんが「武藤」と言った時の、どこか鬱陶しげな表情が引っかかったが思い過ごしかも知れない。そんな事より一週間という期間は長すぎる。牧さんが不在の間、俺は滞りなく店を開ける事が出来るのだろうか。

悩んでも仕方ないので、とりあえず閉店の準備をするためにカウンターの外へ出る。牧さんが座っていたスツールの下に、何やら小さくて四角い紙が落ちているのが目に留まった。身を屈めて拾い上げると、それはカードのようであった。恐らくはトランプとか、そういった類の…何気なく裏返した俺は、視界に飛び込んできた物に絶句せざるを得なかった。

「何これ…」

そこに描かれていたのは、何とも不吉な絵柄だった。甲冑を身に纏った髑髏が、白い馬に跨がって黒い旗を掲げている―――本来ならこの手の「非現実な世界」にはまるで興味がなく、知識も持ち合わせていない。だが、その絵がもたらす冷酷なまでの禍々しさは、とても常人が堪えうる代物ではないように思われた。





「眠っているのなら(3)」に続く→(coming soon!)

眠っているのなら(1)

喫茶店を営む俺の朝は早い―――と言いたい所だが、実際にはそれほどでもない。俺の朝はたいてい、店の常連客である牧さんに起こされる事で始まるのが通例だった。

「何で客の俺が起こさなくちゃいけねえんだ、店主のお前を」

勝手知ったる何とやら、で二階部分のプライベートルームまで上がってきた牧さんに呆れられる。ちなみに牧さんには、既に合い鍵まで渡してしまっている。俺がのろのろとベッドの上で半身を起こすと、仕方ねえな、と呟いた牧さんがバスタオルを投げて寄越した。

「そのボサボサ頭と寝ぼけたツラを何とかしろ。コーヒー淹れといてやるから」

そう言って身を翻し、足早に階段を下りていく音が耳に心地よく届く。俺は、誰もいなくなった部屋で涙が溢れ出るほどの欠伸をかまし、居心地の良い布団の世界をゆっくりと抜け出した。





しっかり30分ほど風呂に浸かってから浴室を出ると、キッチンから漂うコーヒーの香りが鼻先を掠めた。喫茶店を始めて半年ほどが経つが、未だにコーヒーだけは自分が納得のいく味に仕上げられない。牧さんが淹れた方がよほど美味しいので、毎朝俺を起こしに来るついでにコーヒーを豆から挽いてもらっている次第だった。その代わり牧さんには、朝飯を無償で提供しているので持ちつ持たれつといった所か。

「神、お前さー…少しは練習してんのか?」

ドリップケトルを傾け、注意深く湯を注ぎ終えた牧さんが顔を上げる。生乾きの髪のまま、冷蔵庫から卵やベーコンを取り出した俺は曖昧に首を捻ってみせた。

「練習って?」
「だから、コーヒーを淹れる練習っつーの?上手く淹れられるようになったら、メニューに載せるって言ってなかったっけ」
「あー、それは…多分無理です、牧さんの味を超えられないから」
「おいおい」

しっかりしろよ、と背中を強めに叩かれる。俺はわざと大げさに痛がってみせながら、フィルターの中で湯を含んで膨れ上がっているコーヒーの粉末に目を走らせた。それは俺だって、普通に家で楽しむ程度のコーヒーなら問題なく淹れられるとは思う。しかし、金が貰えるレベルかどうかというのはまた別の話だ。

「だから、コーヒーに関しては牧さんに権利を譲りますから…卵、目玉焼きにしますか?それともスクランブルエッグ?」
「ああ、じゃあ目玉焼きで…権利って?」

怪訝そうに牧さんが尋ね返す。眉間には縦皺が刻まれ、さらに言葉を継ぎ足す事をためらわれるような空気を与えていた。しかし俺は構わずに先を続ける。

「だからね、もう牧さんが俺と一緒に店やればいいと思うんですよね。それで牧さんがコーヒー担当で、俺が紅茶とか軽食担当で」
「またその話か…」

牧さんが深々とため息をつくのも無理はなく、俺はこの話をほぼ毎日のように牧さんに持ちかけていた。だが、俺だってそう簡単には引き下がれない。俺にとって牧さんのコーヒーこそが理想形なのだから、そんな逸材をみすみす逃す訳にはいかないのだった。

そもそも牧さんとの出会いは半年前、俺が喫茶店を開店してから二日ほど経った日まで遡る。彼がドアを開けると、一陣の風も入り込んできて俺の前髪を軽く揺らした。店内の客が注目する中、男はつかつかとカウンターに歩み寄ってスツールにドカリと腰掛ける。そしてメニューも見ずに「グァテマラ」と告げたので、俺は途端に申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。

「すみません、うちコーヒー置いてないんです」
「あっ、そうなんだ?ここってお茶専門か何か?」
「ええ、不本意ながら…コーヒー以外でしたら大抵の物はありますので」
「ふーん…じゃあ梅昆布茶」

―――数分後、俺の視界には湯呑みから立ち上る湯気を吹いている男の姿があった。「何でコーヒー置いてないの?」と問われ、素直に「自分で納得できるようなコーヒーを淹れられないからです」と返した俺を、「なるほどね」と頷いた男がじっと見据えてくる。

「淹れてやろうか?」
「えっ」
「俺が淹れてやるよ、コーヒー。豆は?」
「あっ、一応用意してますけど…」

その後、何故か全ての客に男の淹れたコーヒーが振る舞われ、それは絶妙な香りと風味を持ち合わせた逸品であった。口々に沸き起こる賞賛の中、衝動的に俺が「すみません、明日も来てくれませんかっ?」と申し出たのは言うまでもない。そのまま、なし崩し的に男が店に通ってくれるようになり今に至る。

「俺は仕事があるって言ってるだろ」

俺が共同で店を経営する事を提案するたびに、その男―――牧さんにすげなく断られるのもお約束の流れだった。普段ならば、不毛な応酬が続いた後でその話題はうやむやになるのであるが、今日はもう少しだけ食い下がりたい気分だった。俺は目玉焼きとベーコンを盛りつけた皿をテーブルに置くと、意を決して牧さんに向き直った。

「仕事って…いいじゃないですか、こっちを牧さんの本業にしちゃえば」
「あ?」

牧さんの目に鋭い光が宿る。正直怖かったが、奥歯をぐっと噛み締める事でどうにか堪えた。そして俺は大胆にも牧さんの目を見つめ返し、前々から抱いていた疑問を口にしたのだった。

「だいたい牧さん、普段は何してる人なんですか?具体的に、どういう仕事をしてるのか今まで教えてくれた事ないし」

一気に捲し立て、大きく肩で息をつく。牧さんの生活は、朝9時過ぎに俺を起こしてコーヒーを淹れ、一緒に朝飯を食う所までは把握している。そこから先は、全く未知の領域であった。仕事はしているらしいが、どこで何をしているのかは知らないし、聞いてもはぐらかされるばかりだった。

「神…」

コポコポ、という水音で我に返る。牧さんはサーバーからカップに移したコーヒーをテーブルに載せると、その表情をわずかに和らげてみせた。それは、毎日接している俺でないと見分けられないぐらいの微妙な変化だった。

「今の仕事が、あともうちょっとで片が付く」
「えっ?」

しばしの沈黙の後、唐突に牧さんが切り出したので俺は戸惑いを隠せなかった。牧さんが、自分の仕事について話してくれたのはこれが初めてだったのだ。とは言え、仕事の内容についてはやはり明らかにされないままだった。

「そしたら全てが終わるから…その時は、お前とここで店やるわ」
「…本当ですか?」
「約束する。だから、もう少しだけ待ってくれないか」

それは普段の不遜さからはかけ離れた、どこまでも静かで殊勝な語り口だった。反論の余地もなく首を縦に振った俺を、牧さんが覗き込んで「いい子だ」と低く笑う。そこで俺もようやく緊張を解き、唇の端を綻ばせながらマグカップに手を伸ばした。少し温くなったコーヒーから伝わる酸味と苦味が、俺の口内でない交ぜになって喉の奧へと染み渡った。





「そんな、素性の知れない人と店やっちゃって大丈夫なんですかあ」

間延びした物言いながら、やけに核心を突いてきたのが信長という男だった。高校時代の後輩で今は保育士として働いている彼は、たいてい閉店間際になるとこの店に出没する。カウンターで行儀悪く頬杖をつき、無駄に正論を吐く姿が単純に俺を苛つかせた。

「素性の知れない人って…信長だって会った事あるじゃん、牧さんに」

信長の手元に、ミルクを多めに入れたココアを差し出してやりながら異を唱える。カップを鷲掴みにし、音を立てて中身を啜った信長が不満げに唇を尖らせた。

「そりゃ会った事はありますけど…でも、何か怪しいっすよね?」
「どうしてそう思うの?」
「だって、どういう人なのかいまいちわかんねえし…」
「美味しいコーヒーを淹れられる人に怪しい人はいないよ」

我ながら根拠のない持論だったが、そう口にせずにはいられなかった。何より、牧さんが疑われる事に俺自身が我慢ならなかったのだ。たとえ信長の言う事の方が、はるかに理にかなっているとしても。

「神さんさー、牧さんの事好きでしょ」

ぐいっとカップを呷り、唇の周りを淡い茶色に染めた信長が俺を見上げる。手にしていた皿が引力に従って滑り落ち、派手な音を鳴らしながら床の上で砕け散った。

「あー、図星でした?だってめちゃめちゃわかりやすいもん、神さん」
「むかつくっ…」

仕方なくその場にしゃがみ込み、四方八方に散らばった欠片を拾い始める。間髪入れず頭上から降ってきた、「手、ケガしないで下さいねー」という呑気な言葉が俺の心をますますささくれ立たせた。

「何か神さん、しょくぱんまん様に恋するドキンちゃんみたいですもんね」
「えー、何それ?」
「ああ、気にしないで下さい。職業病なんで…」

保育士の信長は日常的に見ている幼児番組のようだが、俺には一切わからない範疇の話だった。とりあえず、大きい欠片だけを一ヶ所に集めた所でやれやれとばかりに立ち上がる。ほうきとチリトリを取りに行きかけたタイミングで扉が開き、顔を覗かせたのが渦中の人物だった。

「おっ、何だ。お前も来てたのか」
「あ、しょくぱんまん様だ」

俺と信長を見比べて眉を引き上げる牧さんに、信長がよりによって一番通じそうもないセリフを繰り出す。当然ながら、牧さんの反応は薄いどころか「ない」に等しかった。

「は?」
「いや、何でもないっす…」
「牧さん、梅昆布茶飲んで行きませんか?」

微妙な空気を打破しようと、慌てて声を掛けた俺を牧さんが手を振って制する。「悪い、これから仕事なんだ」と牧さんは言い、「また明日の朝、起こしに来るから」と続けた。

「今からですか?こんな遅くから?」
「ああ、今日はな。その前にちょっと、お前の顔見に来ただけだから」
「牧さん…」
「おやすみ」

再び扉は閉められ、店内には先ほどと同じように俺と信長だけが残された。もちろん信長の存在などはまるで眼中になく、胸の内で「お前の顔見に来ただけだから」という牧さんのセリフを狂ったように反芻する。

「…神さん、目がハートマークになってますよ」
「うるさい」

咄嗟に腕を振り上げ、信長の脳天に容赦のない平手打ちを見舞う。テーブルに突っ伏して悶絶している哀れな男は放置したまま、俺は今日はもう動きそうもない扉の、真鍮の取っ手をただひたすら凝視し続けた。

「あっ、しょくぱんまん様じゃなくてカレーパンマンだったか…見た目で言ったら…」

俺に叩かれた箇所を撫でさすりながら、信長が性懲りもなくくだらない事を独りごちる。それに対してはさすがの俺も応じる気力はなく、冷ややかな一瞥を与えるだけにとどめておいた。





「眠っているのなら(2)」に続く→
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プロフィール
嬉野シエスタさんのプロフィール
性 別 女性
誕生日 5月10日
地 域 神奈川県
血液型 AB型