「今日、何の日か知ってますか?」
夕飯のメニューの一つである「かぼちゃのそぼろ煮」を口に運び、咀嚼して飲み込んだ後に尋ねた。「今日?」と、サンマの塩焼きを食う事に没頭していた牧さんがおもむろに顔を上げ、その眉間に縦皺を寄せる。
「今日って10月31日だろ?…あっ、そう言や今朝のニュースでやってたな…もしかしてハロウィンか?」
「そうです、ハロウィンです。だから…」
箸先で、牧さんの器の中のかぼちゃを指してみせる。牧さんは、器を覗き込んだ姿勢のまましばらく固まっていたが、ようやく合点がいったという風に「あーっ…」と声を絞り出した。
「だからって、かぼちゃの煮物って…後付け感ハンパねえな。それに、どっちかっつーと冬至とかじゃねーか?かぼちゃの煮物は 」
「あー…まあ、そうとも言いますね。じゃあ、冬至の時はかぼちゃの小豆煮にしましょうか」
「まあ、お前が作ってくれる物なら俺は何でもいいけど…」
美味いけどな、と牧さんが箸でかぼちゃを摘まんでパクリと口に放り込む。総じて牧さんの食べ方は綺麗で、それは恐らく育ちの良さから来ている物だと想像されるのだった。今、牧さんの前にあるサンマにしたって清々しいほど身は食い尽くされ、頭と骨だけが残されている。
「あっ、あと、ハロウィンの時に何か言うやつあったよな?お菓子をくれなきゃイタズラするってやつ。あれ何つったっけ、確か…」
「はい」
すかさず、食後のデザートとして用意していた物を食卓に載せる。牧さんの目が驚いたように見開かれ、セロファンにくるまれたどら焼きをまじまじと見つめている。
「何だ?」
「栗どら焼きです。って言うか、お菓子です」
「それはそうだろうな…で?」
「今、『トリックオアトリート』って言おうとしたでしょ?それを言わせないために先手を打ちました」
きっかり数秒の間を置いて、不可解だと言わんばかりの牧さんの声が飛んでくる。
「そ…こまでわかってんなら言わせろよ!」
「嫌です、だって何か恥ずかしいし!だいたい俺は基本的に、日本の風習に合ってないイベントは好きじゃないんですっ。ほんとはどうでも良かったけど、かぼちゃの煮物だって俺的にはめちゃくちゃ譲歩したんですからね!」
「譲歩したのかよ!えー、じゃあクリスマスは?」
牧さんにしてはチープな質問だった。ほらね、やっぱりね、と俺は肩を竦め、我ながらもううんざりだというように大袈裟にため息をついてみせる。
「それも今まで、何百回と聞かれましたよ。クリスマスは好きですよ?日本の風習にすっかり溶け込んでるし、街並みだって綺麗だし…でもね、ハロウィンって無理して盛り上がってる感が何か好きになれないんです。それに…」
「それに?」
「お菓子をあげようがあげまいが、イタズラするんでしょう…?」
思わず口を滑らせてから、激しい後悔に襲われる。次の瞬間、実に満足そうに緩められた牧さんの顔がすぐ前にあった。
「そうだな、するよ?そんなの当然だろ?ここまでお膳立てされてんのに、俺がお前に何もしない訳がねーだろ、悪いけど」
「あっ、開き直りやがった!もー、だから嫌なんです俺はっ…!」
「あー、そういう可愛くない事言う?そうか、お前が嫌なら俺は別に無理強いするつもりはな…」
「えっ?!」
―――しまった、と舌打ちしたが既に遅かった。箸を握り締めたまま、言葉もなく食卓に突っ伏す俺の頭上に牧さんのとどめの一言が振り落とされる。
「俺の勝ちだな」
「……っ!悔しー、牧さんのくせに…!」
「俺に勝とうなんて百万年早えよ」
さらに「もう少し修行積んでこい?」という、ありがたい忠告と共に頭を撫でられる。不思議なもので、そんな簡単な動作一つでつまらない意地はどこかへ消え失せてしまう。何だかんだ言っても、結局は牧さんに頭が上がらないのは今に始まった事ではなかった。
「まあ、こんなのに勝ち負けなんか意味ねーんだけどな。俺は、隙あらばお前に触りたいと思ってる訳だし…」
なっ?と、もう一度わしゃわしゃと髪を掻き回された後に、ゆっくりと手が遠ざかっていくのを気配で感じる。俺はのろのろと顔を起こし、すっかり乱されたであろう髪型を決まり悪く撫でつけた。
「ところで、もうすぐお前の誕生日だよな」
「あー、そうですね…また一つ年取っちゃうなあ」
冷蔵庫の側面に貼られたカレンダーを確認すると、いつの間にか該当の日が赤いマジックで囲まれている事に気づく。牧さんがそうしてくれたのかな、と思うと急に嬉しさと照れ臭さが込み上げてきて、俺はない交ぜになった感情をごまかすように茄子の味噌汁を啜った。
「誕生日当日は平日だから、その週の土日にどっか行かねえか?」
「えー、じゃあ中華街行きたい」
そう言えば最近、足を運んでいなかった事を唐突に思い出す。中華街にはその名も「海南飯店」という有名な店があり、そこの名物である汁なしネギそばが久々に食いたかった。
「中華街な、わかった。海南飯店のネギそばだろ?」
「そうです、当たり。さすが牧さん」
「他には?」
「中華の食材と中国茶が買いたいかな。…あと、江戸清のブタまんが買えれば」
どうせ牧さんが持ってくれるんだから、多少荷物が多くなっても全く問題ないだろう。ピータンに中華麺に餃子の皮にプーアル茶と、買いたい物はいくらでもあった。あとは黒酢とナンプラーと紹興酒も…などと頭の中で算段している俺に向かって、牧さんがとんでもない提案を仕掛けてくる。
「じゃあ、夜はインターコンチにでも泊まるか」
「あっ、いいですね…って、えっ?ええーっ?!」
インターコンチってあの?と、ヨットの帆をかたどったという横浜のインターコンチネンタルホテルの特徴的な形状を宙に描いてみせる。それに対して、牧さんが「そう、それ」とあくまで自然に頷くものだから、俺はもう少しで「あー、やっぱりそっちですか」と納得しそうになるところだった。
「―――やっぱりそっちって何なんだよ、だいたいインターコンチって言ったらインターコンチネンタルしかないじゃん。何言ってんの俺…」
「独り言にしちゃあ声デカすぎるんじゃねーか?すっげー筒抜けだけど…」
「あーっもう!牧さんは黙ってて下さい!何で泊まらなきゃいけないんですか、しかもインターコンチに!」
「だって誕生祝いだから、お前の」
うっ、と喉の奥を詰まらせながら恨みがましく牧さんを睨みつける。もちろん牧さんは涼しい顔でそれを受け流し、腹が立つほど落ち着き払った口調で「まあいいから聞けよ」と言った。
「どうせお前の事だから、中華街で死ぬほど買い物するんだろ?それなら車で行った方がいいだろ?で、夜は酒飲むだろ?そしたらもう泊まるしかねーじゃん」
「…どうしてわかるんですか、死ぬほど買い物するって…」
「わかるわそんなの、誰が見たって…清田が見たってわかるぞ、絶対」
よりによって「清田が見たってわかる」とまで言い切られ、俺のプライドはズタズタに引き裂かれる。ぐうの音も出ないとはまさにこの事か。
「車で行かないか、酒は飲まないっていう選択肢はないんですか…?」
「えー、せっかく中華街行くのに飲まないで帰んの?俺は嫌だ」
「…でも、何もインターコンチに泊まらなくてもいいじゃないですか。今まで、歴代の彼女たちとはそういう所行ったかも知れないですけど…」
「まー、ぶっちゃけ今まではな?」
味噌汁を飲み干し、綺麗に夕飯を平らげた牧さんが箸を置いて椅子に座り直す。いつになく和らいだ表情を浮かべられ、俺はつい嫉妬めいた発言をしてしまった自分を恥じた。
「でも今は、お前としか行く気ねえから。もちろん、これから先もずっと…な?」
「牧さん…」
「だから、当日はホテルにチェックインして、車置いてから山下公園行って、中華街で死ぬほど買い物して、海南飯店で飯食って、ランドマークの展望台で夜景見て、インターコンチでシャンパン飲んでから俺に抱かれなさい。という訳で、この件に関しては以上」
「すっごい完璧なスケジュールだけど、何か二箇所ほど引っ掛かる点があるのは何故だろう…」
特に、インターコンチでシャンパンを飲んだ後の行為に問題があるように思えたが、牧さんに「気のせいだろ」の一言で片付けられ、俺としては黙るより他にない。こんな時、根底に先輩後輩という絶対的な上下関係が潜んでいる事がたまらなく癪に障るのだった。
「一個ぐらい年が上だからって、それがいったい何だっつーんだよ…あームカつくっ…」
「だから、さっきからすっげー丸聞こえなんだって…まあいいや、可愛いから」
「何か言いました?」
「いや、何も。それよりどら焼き食っていい?」
牧さんが栗どら焼きの包みを取り上げたので、慌てて「あ、お茶入れますね」と言って席を立つ。
「ちょっと神、その前に耳貸せ」
牧さんが俺を呼び止め、ちょいちょいと手招きする。何の疑いもなく素直に応じた俺の耳に、牧さんのやけにセクシーな声が吐息と共に流れ込んでくる。
「Trick or Treat?」
「あっ…!」
咄嗟に片耳を押さえて後ずさる。今のは完全に油断していた。呆然とその場に立ち尽くす俺を見て、牧さんは堪えきれないといった様子で肩を震わせて笑っている。
「やられた…今、完っ全に油断してた!もう、ハロウィンも嫌いだけど牧さんはもっと嫌いっ…!」
「ハロウィンと俺を同列に扱うなよ。つーか、ハロウィンより嫌いって…」
「こうなったら絶対、中華鍋や蒸籠やすっげー高い茶器も買ってやるんだから!牧さん持ちで!」
「だから独り言がデカいって…あ、今のは別に独り言って訳じゃねえか」
ほんと面白えなお前、と殊更に慈愛に満ちた眼差しを向けられて俺は腐った。もはや何に対しての怒りなのかを見失いつつあったが、辛うじてお茶を入れる事を思い出してシンクの前に立つ。
茶筒を開けると、俺が気に入っている中国緑茶の茶葉が残り少なくなっているのが目に留まり、あー中華街行ったら100グラム6000円の龍井茶も買わなくちゃ、と今度は独り言の範疇ではなくはっきり聞こえるように呟いた。