これは、温厚で人当たりがいいと評判の神が、実はそうでもない事を言いたいがための話である。

会社を出しなに携帯を確認すると、LINEに何やらメッセージが入っている事に気がついた。差出人は神からで、急な残業で帰りが遅くなるので飯は先に済ませて下さいと言う。「了解」とだけ返信を打ち、携帯をスーツの内ポケットにしまい込んだ。神のはらわたは相当煮えくり返っているに違いないので、神が帰ってきたら取り急ぎ食わせる物を用意しなければならない。

俺は大した料理は作れないが、たまに休みの日などに作るラーメンを神が食いたがるので、帰宅する前に材料を調達しておく。駅前のスーパーに立ち寄り、手に取った野菜を次々とカゴに投げ込む。鮮度の良し悪しは、どうせ俺が見ても区別がつかないので気にしていない。「牧さん、ちゃんと確認したんですかっ?」と問い詰められるだろうな、と思うと込み上げる笑いを抑えきれない。

チャーシューと煮卵は出来合いの物を選び、袋麺の味は神の好きな塩味一択とする。俺はどちらかと言うと味噌派なのだが、そこで余計な自己主張などしてしまった日には、様々な努力が水の泡になる事は俺が一番良くわかっている。

もちろん、ハーゲンダッツのアイスとプレミアムモルツをカゴに追加する事も忘れていない。だがそんな俺の機転は、「当たり前でしょそんなの、夫としての最低限の義務ですよ」の一言で片付けられそうなのは明らかだった。俺は密かに唇の端をねじ曲げると、異様な熱気を孕んでいるレジ待ちの列の最後尾についた。





ここ最近は二人で晩飯を食う日が続いていたが、一人きりの晩飯は随分と久しぶりであった。帰宅するなり作ったラーメンを黙々と食い、冷凍してあった炒飯と唐揚げも食う。録画していたNBAやプレミアリーグの試合を流し見していると、やけに粗暴な感じで玄関の鍵を解除する音が耳に入った。その直後にドアを蹴破るような音と鞄を放り投げる音が立て続けに響いたので、これは一筋縄ではいかない夜になりそうだ―――という事を静かに悟った次第だった。

「おかえ…」

リビングのソファーにもたれたまま、首だけを伸ばして神の様子を窺う。騒々しく足音を鳴らしながら、本人は一目散にキッチンに突き進んで冷蔵庫の前に立ちはだかる。慌ただしく何かを取り出す気配があり、それがプレミアムモルツなのは言うまでもない事だった。そしてこちらに駆け寄ってきたかと思うと、俺の隣に腰を下ろして初めてそこで目を合わす。

「ただいま、牧さん」
「…お疲れ」

神は俺に視線を留めたままプルトップをこじ開け、俺の詮索を遮断するかのようにその中身を呷った。少しは気が収まったのか、麦芽臭い息を深々と吐き出しながら言い放つ。

「牧さんのせいですからね!」
「えっ、俺?!」
「冗談です」
「とても冗談には聞こえなかったけど…」

そんな俺の懸念をよそに、神はあっという間に一缶飲み干してしまったらしかった。空になったそれをガラステーブルに転がすと、勢いよく俺の腿に倒れ込みながら顔を埋めてくる。

「つっ……かれたあーっ!」
「また例の、使えない課長のせいか?」

神の直属の上司にあたるとかいう、無能な課長についての愚痴はちょくちょく聞かされていた。神が残業する時は大概、その課長に急な仕事を押しつけられて…というのが通例となっている。俺の下肢に突っ伏したままコクコクと頷いた神が、普段の温厚そうな人柄には似つかわしくないセリフを漏らす。

「あんな使えない奴、死ねばいいんだ…」
「大変だったな、月曜日から」

若干べたついた髪に指を梳き入れ、優しく地肌を撫で回してやる。テレビ画面の片隅に表示された時刻を見やると十時十五分、今からラーメンを食うのはためらわれる時間帯だが念のため尋ねておく。

「飯は?」
「あー、一応食いましたよ…コンビニのおにぎり…」
「ラーメン食うか?遅い時間だけど」

俺の膝頭を這う神の手のひらがピクリと反応し、搾り出すような声で「…食います」と返ってくる。さらに「アイスも買ってあるけどどうする?」と告げると、神の機嫌はようやく上昇の一途をたどり始めたようだった。猫のように目を細めながら俺を見上げ、「どうするって言われたら、やっぱ食うしかないですよね?」と嬉しげにほくそ笑んでくる。

「お前はいいよな、食っても太らない体質で」
「そうですか?でもおかげで苦労しましたけどね、現役時代は」
「確かにな…」

神は細身ではあるが決して少食ではなく、むしろ俺より食欲が旺盛な時もあるぐらいだった。本人曰く「胃下垂だから食っても太らないんです」という話だが、それが真実かどうかは定かではない。神についてはまだまだわかんねえ事だらけだな、と自嘲気味に呼吸を繰り出したのを聞き咎めた神が、「何ですか?」と問いかけてくる。

「ん?いや、別に…ちょっとな」
「その『ちょっと』がすげー気になるんですけど…まあ、後で聞かせてもらいますね。それより…」

神は折り曲げていた体を半分だけ起こし、大きく開かれた目で俺を見据えてきた。いつの頃からか、その黒々とした瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥るようになり、現在に至っている。要するに俺が勝手に神に囚われている訳だが、そんな思惑などはどうでもいいとばかりに神の睫毛が揺らめいている。

「俺ね、朝からずーっと会議資料と営業報告作らされてた上に、定時五分前に大嫌いな課長から何だか良くわかんねえ仕事押しつけられて、めちゃくちゃ疲れてるし腹が立ってしょうがないんです。牧さんだったらどうしてくれます?」
「…お前が今、平常な精神状態じゃない事だけは理解できた」
「それだけわかれば十分ですよ。じゃあ言いますね―――この後、たっぷり二時間ぐらいは可愛がってもらわないと気が済まない」

互いに言葉もなく見つめ合う。神からこんな風に誘われるのはさほど珍しくはなかったが、それが週の初めの月曜日となるとやはり稀な事例と言えた。まさかビール一本で酔った訳でもあるまいし、と不審に思いつつ神の出方を待っていた俺に、神の人差し指がゆっくりと伸ばされて下唇をなぞられる。

「返事は?」
「そりゃもちろん、謹んで承諾するに決まってるけどさ。一応、どの程度まで望んでいるのか聞いとくわ」
「程度…ですか?」

俺は左膝に預けられた神の手に己の手を重ね、そっと力を込めて五本の指を絡め取った。まるでそうされるのを待っていたかのように、俺の膝頭で神の指先が蠢いている。

「だからさ、月曜の夜から濃厚なヤツかましちゃっていいのか、明日に響かない程度に済ませた方がいいのかっていう…」
「そんなの決まってるじゃないですか。俺は死ぬほど疲れてて、牧さんに慰められたいんですよ?だったら―――」

ぼすん、と俺の肩に柔らかく当たる物があり、それは神の額だった。少し間を置いた後、おもむろに頭をもたげて艶気を含んだ眼差しを寄越す。

「前者…しかないですよね?」
「わかった、前者な?」

ソファーの上で体勢を整え、改めて神に向き直る。もう片方の手で神の体を引き寄せると、赤みの差した首筋に唇を触れさせてから腰を浮かせて立ち上がった。

「その前に着替えてこい、先に風呂でもいい。それからラーメンとアイスを食え」
「いいんですか?」
「いいも悪いも―――食った分以上のカロリーは、俺がきっちり消費させてやるから」
「マジですか?ヤバいなあ、また痩せちゃうかも…」

如何にも仕方なさげな口調とは裏腹に、神は陶酔感に浸りきった顔で俺を見ていた。本来なら俺も、週の初めからそのような行為に没頭できる身分ではないのだろうが、神の発情をみすみす逃すなどという愚かな真似もしたくはなかった。

スリッパを履き直してキッチンに向かう。背後で神の、「明日は有給申請しないと…」という冗談めいた呟きが発せられたが気のせいかも知れない。いずれにしてもその予言は翌朝になって現実の物となり、それに伴う神の恨み言も二晩ほど続くのだった。