高校時代の神とのエピソードはそれなりに事欠かない物があるが、その中でも特に印象深いのが夏合宿での出来事である。
「神、隣いい?」
サービスエリアでの最後の休憩を終えた後は、ノンストップで辻堂への帰路に就く予定になっていた。バスに乗り込んだ部員たちがそれぞれの席に戻る中、俺は前方の席に一人で座っていた神に声を掛けた。ぼんやりと窓の外を眺めていた神がイヤホンを耳から外し、「何ですか?」と尋ねてくる。
「あー、隣座ってもいい?」
先ほどのセリフを、若干丁寧な言葉に言い換える。神はようやく合点がいったように「いいですよ、どうぞ」と頷いたのち、「ご自分の席はどうしたんですか?」とその首を傾げてみせた。もっともな疑問に、俺は片頬をピクリと引きつらせる。
「武藤に取られた」
「武藤さん?…ああ…」
体を浮かせて振り返り、後方を確認した神があからさまに同情の眼差しを寄越す。俺が先ほどまで座っていた座席はまさに、盛大に眠りこけている武藤に占領されてしまっている状態だった。めったな事では腹を立てない俺だが、さすがにこれでは俺の平常心が辻堂まで保ちそうもない。
「しょうがないですね、武藤さんは…」
「あれで、曲がりなりにもレギュラー張ってるっつーのが信じらんねえけどな」
言いながら俺は座席に身を乗り上げ、車内を見渡しながら「全員いるかー?」と声を張り上げた。バスは二台を借り切っており、もう一台のバスでは高砂に点呼を取ってもらっている。そう言えば、神の隣には清田が座っていたような…と思いつつ神の顔を窺うと、「信長はもう一台のバスに乗りましたよ。宮さんとサシで話したい事があるんですって」と笑ってみせた。
「宮とか?あいつら妙に気が合うな」
「あー、何か宮さんと恋バナしてくるとか何とか…ほら、宮さんって幼稚園から付き合ってる彼女いるから」
「幼稚園?それって単なる幼なじみの部類じゃねーのか?」
「いや、れっきとした彼女ですよ。中二の夏に、幼なじみから彼女に昇格したらしいです」
昇格ね…と、声には出さずに口の動きだけで返す。直後、バスのエンジン音が響いたのを機に俺は座席に身を沈める。程なくバスはゆっくりと発車し始め、大きく旋回しながら高速道路へと滑り出していった。
疲れたな―――ついそんな一言を放ってしまったのを、聞き逃すような神ではむろんなかった。「あれ、牧さんが『疲れる』なんて事あるんですか?」と、黒目がちの目を丸くしながらわざとらしく驚いてみせる。
「そりゃ俺だって疲れる事ぐらいあるよ」
「そうですか?牧さんは、そういう感情とは無縁な人だとばかり思ってました」
「お前なあ…」
軽く握った拳骨で神の頭を小突く。それを笑いながらかわした神が俺をじっと見据え、俺が「何だ?」と聞く寸前に視線をそらせてしまった。神に関しては、こういう行動が割と多い気がする。理由はわからないし、気になって仕方ないというほどでもないのだが、何故だか心の片隅に引っ掛かってしまう。
「食います?」
不意に差し出されたクロレッツを、「お、サンキュ」と言って摘まみ上げる。包み紙を解いて緑の粒を口の中に放り込むと、独特の甘苦い味が喉の奥まで染み渡った。神も俺に続いてガムを噛み始めたらしく、狭い空間にミントの香りが充満して嗅覚を刺激した。
しばらくは、合宿中の出来事とか試合のフォーメーションについてだとかいった会話が交わされる。我ながら色気がないとは思うが、神とは結局、この種の話題が一番盛り上がるのだった。
そう言えば神のプライベートについてはあまり知らないし、話した事がない。知っているのは、神が小学生の時に親父さんが交通事故で亡くなり、看護士のお袋さんと二人で暮らしている事ぐらいだ。たまに神が、自分は本来ならこんな恵まれた環境の中でバスケなどしてはいけないんだ、などと漏らす時があったが、それは彼の並々ならぬ事情によるものなのだろう。もちろん、そんな己の悲壮感を周囲に匂わせるような事は一切なかったが―――。
どちらからともなく会話が途切れ、バスの揺れに身を委ねるだけの時間が続く。やがて包み紙にガムを吐き出した神が、座席のホルダーに差していたペットボトルの茶を抜き取ったのを潮に俺から口を開いた。
「…神は、卒業したらどうすんの?」
「えっ?」
キャップを捻ろうとしていた手が止まる。「卒業って…まだ再来年の話ですよ?」と返してきた神は、不審げな表情をありありと浮かべていた。それは無理もないというものだったが、俺があえて尋ねたのには理由があった。海南大附属高校という学校名であるぐらいだから、高校卒業後はそのまま海南大に進む者が六割近くに上っている。
残り四割程度は他大学や専門学校などへの進学者であり、かく言う俺も深体大―――深沢体育大学からの推薦の話が上がっていた。その話が順調に進めば、俺もその「四割程度」のうちの一人という事になるだろうか。
どうやら神が海南大には進まず、他大学への一般受験を考えているらしいと小耳に挟んだのは最近の話だ。本人から聞いた訳ではないので定かではないが、もし一般受験するとなれば、来年のウインターカップを待たずに引退する可能性もあるという事だった。俺としては次期主将は神以外にあり得ないので、どうしても今その真意を確かめたかった。
押し黙った俺をどう思ったのか、二度ほど空咳をした神が「以前、牧さんには言いましたよね?俺が小5の時、父親が亡くなったっていう話…」と切り出す。無言で頭を垂れると、神はホッとしたように強張らせていた頬を緩めた。
「一応、遺族年金とかは入ってきますけど、基本的には母親の稼ぎと貯金の切り崩しで生活してるんですよね。だから俺は、本当は海南みたいな私立の学校でバスケやれるような身分じゃないんです」
その声音が微かに震えている事に気づき、無意識のうちに手を伸ばしかけて我に返る。俺はこの手で、神に何をしようとしていたのか。神が部活の後、一人で500本のシューティング練習をこなしていたのは今となっては有名な話だ。だが、去年の段階でそれを知っていたのは高頭監督と俺ぐらいだろう。そして俺は密かに、神が練習で初めてスリーポイントシュートを決めた瞬間を見ていた。美しく放物線を描く様と凛とした横顔は、今でもはっきりと俺の脳裏に焼きついている。
「でも、中3の時にインハイ予選で海南の試合見て、どうしても海南でバスケしたくて…無理を承知で母親に頼んだんです。一生のお願いだから、海南に行かせてほしいって」
「…それで、お袋さんは何て?」
「喜んでました。やっと、自分が本当にやりたいと思った事を話してくれたねって。逆に、あんたが親に気を遣うなんて百年早いって怒られたかな」
ふと神が、窓の外を見やりながら口元を綻ばせる。つられて俺も吐息混じりに笑ってみせた。神のお袋さんには何度か会った事がある。確かにそんな、愛情の裏返しのような物言いをしそうな感じだったと記憶している。流れていく景色を眺めていた神が、再度その視線をためらいがちに引き戻した。
「でも、結局は母親に無理させてる事になるんで…だから大学は、海南には進まないつもりです。国公立を受験しようと考えてるので…」
「バスケは?」
「それもちょっとわからないですね。もちろん来年までは続ける予定ですけど、その先の事はまだ…」
語尾を濁した神が、思い出したようにペットボトルの中身を呷る。「先の事はまだ」と言いつつ、神の意志がほぼ確実に固まっているであろう事も容易に想像がついた。神ほどのシューターが失われるかも知れない、そんな焦燥感にも似た思いで俺の胸は軋んだ。
そうか、とだけ言って神の反応を待つ。神は答えず、重く澱んだ空気が二人の間に停滞した。静寂を破ったのはまたもや俺の方で、やや掠れ気味の「惜しいな」の声で神がわずかに目を見張る。
「後にも先にも、お前ほどのシューターはいないかも知れないのに…」
それでも神は黙ったままだった。周囲の喧騒やバスのモーター音が、この時ほど耳障りに思われた事はなかった。あまりにも反応がないのに焦れた俺が、横から神の顔を覗き込もうとした瞬間に乾いた声が絞り出される。
「その…」
「えっ?」
「その言葉だけで俺は…」
すみません、という短い謝罪と同時に左肩に何かが当たった。それが神の頭だと理解するまでに、少々の時間を要した。突然の展開に俺の体は硬直したが、何故か不思議と拒絶する気になれなかった。むしろ効き過ぎるほどに効いた冷房の中で、神から伝わる体温が心地良く感じられるぐらいだった。
「神?」
「ごめんなさい牧さん、もう少しだけ…」
あまりに神が切なげに懇願してくるものだから、俺もその意図を図りかねたまま神に半身を貸し続けた。今となっては神の頭が預けられる「しっくりくる感じ」に、俺がもっと早く気づいておくべきだったのかも知れない。
神が消え入るような声で礼を述べて頭を起こした後も、俺の半身はある種の痺れが生じたままだった。舌の上ではとうに味のしなくなったガムが残されていて、俺はそれをバスを降りる直前まで惰性で噛み続けた。
「―――そん時の神の顔が、何かいつまでも頭から離れなかったんだよなあ」
「そういう無駄に記憶力いいとこ、本当に感心しますね…」
どこか決まり悪げに瞼を伏せる神から、柔らかな湯気の立ち上るマグカップを手渡される。夏合宿での出来事から十年、思いと体を通じ合わせた俺たちは一つ屋根の下で暮らしている。実は15歳の時からずっと牧さんだけを好きだったと告げられた時、俺は即座に己の鈍さと見解の狭さについて呪った。多分俺も、高3の時ぐらいには神を好きになっていたのだと思う。その頃から欠片でも認識していれば、神を無駄に待たせる事はなかったものを―――。
「あれ、覚えてねえ?」
俺の斜向かいで立ち尽くす神をチラリと見やり、マグカップの中身を啜る。今日のお茶はプーアル茶ですと言われ、その癖のある香りと苦味に納得する。俺が、多少なりとも酒とコーヒー以外の飲料―――中国茶の味まで理解できるようになったのは、他ならぬ神のおかげであった。神の影響は俺の日常に余す所なく浸透しており、もはや神のいない生活などは想像もつかない。当の神はうっすらと頬を上気させ、唇を尖らせながら「それは覚えてますけど…」と口ごもった。
「牧さん、俺があの時…十年前に言いそびれた事、今言ってもいいですか?」
照れ臭そうに神が尋ねてくるのへ、軽く首を縦に振って先を促す。神もカップを携えて食卓につくと、張り詰めていた息をそっと吐き出した後にのろのろと言葉を紡いだ。
「あの時確か、俺が中3の時にインハイ予選で海南の試合見て、海南でバスケしたくなったって話をしたと思うんですけど…」
「うん」
「本当は俺、海南の牧さんとバスケしたくなった、って言いたかったんです」
はあ、やっと言えた…と神はもう一度呼吸を繰り出し、安堵の表情を浮かべてみせた。それはすっきりと晴れやかで、積年の憑き物がようやく取り払われたといった笑顔に見えた。
「試合見てて、すっごいドキドキしました。あの12番、まだ一年生のはずなのにめちゃくちゃすげえじゃんって。私立の高校、ましてや海南なんかに行ける余裕がないのはわかってたけど、俺も絶対に海南入って、12番の人と同じコートに立つんだって決意したんです。でも、それを言ったらキモイって思われるかなって気になっちゃって…」
「何だ、そんな事なら―――清田だって入部した時、すぐ俺に宣言してきたんだぞ。牧さんに憧れて海南に入りましたって。それで俺が来たからには、絶対に牧さんの代でインハイ優勝の夢叶えますからって」
「えっ…!」
さっきまでの恥ずかしげな態度から、一気に鬼の形相へと変化する。俺があまり馴染みのない、神の別人格を垣間見た気がした。清田がたまに「牧さんは知らないんですよ、神さんの本当の恐ろしさを…」とぼやくのを耳にするが、あれはこの事だったのかと今さらながら腑に落ちる。心底恨めしげに、「信長の奴、俺を差し置いて…」と呟いている神を見ているうちにふと思い立ち、「あっ、そうだ神」と声を掛けた。
「はい?」
「そしたら俺も、あの時言った事を一ヶ所だけ訂正するわ」
両手でカップを包み込み、怪訝そうに眉を顰める神に向き直って姿勢を正す。本当はもっと早く神に伝えたかった。胸の内で熟成寸前まで温めていたセリフを、噛んで含めるように言い聞かせる。
「後にも先にも、お前ほどのシューターはいなかった」
「……」
「いないかも知れないじゃなくて、いなかった、な?ここだけちょっと訂正させて」
まるで神の周りだけ、時間の流れが止まってしまったかのようだった。こちらが心配になるほど一点を凝視していたかと思うと、テーブルの上で組んでいた腕にパタリと顔を突っ伏してしまう。
「神?どうした?」
「牧さんって…本当にスナイパーですよね…」
「スナイパー?」
「今まで牧さんにはさんざん撃ち抜かれてきましたけど、今のはほんと、確実にダメ…」
喉の奥から発せられた、微かに震えを帯びた声はあの時と同じだった。だが決定的に違うのは、長い年月を経て俺たちがそれなりに大人になったという事実だった。俺はぬるくなった茶を一息に飲み干し、静かに立ち上がってリビングへと移動した。革張りのソファーにもたれ、テーブルに俯せたきり微動だにしない神に優しく呼びかける。
「神、こっち」
「……」
「こっちおいで。ギュッてするから」
案の定返事はなかったが、緩慢に椅子を引きずる音が鳴らされるのにそう時間はかからなかった。不本意だけど仕方なく来た、と言わんばかりの神がため息と共に俺の前までたどり着く。
「…別に、されたくて来た訳じゃないですよ?」
「うん、わかってる」
「俺はそんなの別にいいんだけど、牧さんが呼ぶから仕方なく―――」
皆まで言わせず、神の腕を掴んで強引に引き寄せる。減らず口を叩いていた割に、抵抗なく倒れ込んできた身体をわずかな隙もないぐらいに抱き締めた。
「もう、何だろうな…そういう素直じゃねえ事言ってるお前が一番可愛いな」
「何とでも言って下さい…」
全ての思考を放棄したらしい神が俺の肩に顔を埋め、額を強く擦りつけてくる。大型犬なんて飼ってたっけな、と、これまた神が不貞腐れそうな事を考えながら神の耳に唇を密着させ、自分でも呆れるぐらい甘い囁きを繰り返した。