祈れ呪うな

クリスマス・イブに残業なんて、うちの部署は呪われている。総務部の奴らは定時のチャイムと同時に席を立っているのに、企画開発部の人間は俺も含めて、全員がパソコンと向き合ったままだ。

最低でもあと2時間はかかりそうだと諦め半分に察し、私用の携帯でLINEのアプリを立ち上げる。牧さん宛てに一言「お疲れさまです」と入力した後で、「すみません、まだあと2時間ぐらいかかるかも…」と続ける。程なく返信が届き、「お疲れ。俺の事は気にすんな、残業頑張れ」という、いかにも男気のある言葉に思わず口角が上がってしまう。すぐに「終わり次第連絡します」と返し、携帯の画面を伏せた。向かいの席では梶山さんという後輩の女の子が、やはり深々とため息をつきながらウサギの耳のついたiPhoneをいじくっている。梶山さんも彼氏と、俺と同様のやり取りしているであろう事は容易に想像がついた。

「梶山さん、まだだいぶかかりそう?」

タイミングを見計らって声を掛ける。梶山さんは驚いたように顔を上げ、二度三度と瞬きを繰り返したが「そうですね、あと一時間ぐらい…」と重苦しげに吐き出した。何でよりによってイブに残業なの、そんなうんざりした表情がありありと浮かんでいる。

「手伝おうか?」
「えっ?…あ、大丈夫です。これさえ終わっちゃえば…」
「でも、急いでるんでしょ?」
「それは神さんも同じじゃないですか」

今度は俺が驚く番だった。向かいの席だからやり取りの内容までは見えないものの、焦っている様子は何となく把握できたのだろう。しかし梶山さんの頭の中では、あくまで俺が「彼女」と約束があると考えているに違いない。もちろん不要なカミングアウトをする気もないので、「まあね」とだけ肯定しておいた。そして俺は数時間後、ベッドの上で最愛の男に組み敷かれる事が確定している。

「ま、お互い早く帰れるように努力しよっか…」

とにかく今は、目の前の仕事を黙々と片付けるのが得策のようだ。梶山さんが小さく頭を下げたのを機に背筋を正し、ディスプレイに向き直る。少しでも早く帰って、一分でも長く牧さんと聖夜を過ごしたい…我ながらいじらしい発想に、引き結んだ唇から不自然な呼気が漏れ出た。





「神さんすみません、お先に失礼します」

―――ガタン、と椅子を引いて立ち上がる音に思考が途切れる。つい数秒前まで、鬼の形相でキーボードを叩いていた梶山さんだった。今はすっきりと、憑き物が落ちたような眼差しを俺に向けている。「お疲れさま、早く終わって良かったね」と素直に労をねぎらうと、梶山さんの瞼に済まなそうな陰りが滲んだ。

「神さん、まだ終わらないんですか?」
「んー、俺もあと30分ぐらいかな?思ったより早く上がれるかも…」

その答えに偽りはなかった。やはり一度も席を立たず、全身全霊で仕事に打ち込んでいたのが功を奏したらしい。梶山さんはホッとしたように「そうですか」と頬を緩め、「神さん、絶対あと30分以内で帰って下さいね」と微笑んだ。

「うん、ありがとう」
「お疲れさまです」

小走りに更衣室へ向かう彼女を静かに見送る。ここはやはり彼女の期待に応えて、絶対に30分以内で仕事を片付けなければならないだろう。空咳をしながら天井を仰ぎ、引き出しから取り出した目薬を差す。清涼感の強い滴が、乾き切った瞳に染み渡って俺の頭を切り替えた。

「終わった…」

添付ファイル付きのメールを送りつけ、パソコンの電源を落とす。俺が業務をこなしている間にも数人の社員が退社し、フロアにはだいぶ人気が少なくなっていた。挨拶もそこそこに、コートとマフラーを引っ掴んで廊下へ飛び出す。エレベーターに滑り込みながら携帯の画面をタップし、「お待たせしてすみません、今終わりました」とメッセージを打ち込む。

『お疲れ、大変だったな』

ほどなくそんな返事が表示され、俺の疲労はたちまちどこかへ吹き飛んでいく。今ほど「ドラえもんのどこでもドア」を激しく切望した事はなかったが、ただの人間である俺は地道に交通機関を利用する。

「今から帰ります!」

そうこうしているうちに一階に到着したので、急いで一言だけを打ち終えた携帯をそのまま握り込んだ。
ロビーの真ん中に鎮座する、華やかに飾りつけられたクリスマスツリーの脇を走り抜けて外へ出る。冴え冴えとした夜気が頬に触れ、背筋をぶるりと震わせると共に首に巻いたマフラーを顎先まで引き上げた。今なら、現役時代に死ぬほど練習させられたダッシュで信長より速く走れるかも知れない。それぐらいの勢いで、地下道への階段を駆け下りる。しかし今日がクリスマス・イブというだけで、こんなにも人が溢れかえってしまうものだろうか。かく言う俺も、クリスマスの夜を楽しもうという仲間の一人には違いなかった。

どうにか京王線のホームにたどり着き、ようやく安堵の息を漏らしながら携帯の画面に目を落とす。通常通り定時で帰ったらしい牧さんからの、「駅まで迎えに行く」という申し出が読み取れた。あと三分後に各停の橋本行きが来る事を電光掲示板で確かめ、「14分発の橋本行きに乗ります」と打ち返す。

実は今日は、「どこかで飯食ってホテル泊まるか」という数ヶ月ほど前の牧さんの提案を断り、家で静かにクリスマスを迎えたいと俺の方から希望していたのだった。その理由とは―――。





『今から帰ります!』

画面に映し出された、非常に端的な一言に目を細める。クリスマスムード溢れる街を疾走してくる神を思い浮かべ、自然と唇が緩んでしまうのを抑えられない。誰にともなく空咳をし、つけていたテレビを消して立ち上がる。手早くコートを羽織り、テーブルに放り出していたキーケースを掴んで玄関へと向かった。

神から残業で遅くなると連絡があった時、普通に定時で上がっていた俺はあと二駅ほどで最寄り駅に到着するという状況だった。とりあえず「お疲れ。俺の事は気にすんな、残業頑張れ」と返事を打ち、窓の外を眺める。今日みたいに、クリスマスイブの夜を自宅で過ごすというのは何年ぶりだろうか。下手したら十何年ぶりとか、そういうレベルの話かも知れない。

「今年のクリスマスなんですけど」

まだ残暑厳しい9月、クリスマスイブの宿はセルリアンタワーかウェスティンか、それとも思い切って帝国ホテルにでもするか―――といった事をリビングのソファーでつらつら考えていた時だった。不意に手元が暗くなって目線を上向けると、俺の前に立ち尽くした神が如何にも呆れたような、「またろくでもない事考えてるな…」と言わんばかりの顔つきで俺を見下ろしている。

「何だ?」

手元のiPadにはホテルのクリスマスプランが映し出されており、俺が片っ端から検索していたのを背後から確認したのだろう。ちょうどいい、今お前の意見を…そう尋ねようと口を開きかけた所で、純度の高い神の視線に射抜かれる。

「牧さんさえ良ければなんですけど、ここで…家で過ごしませんか。どっか泊まったりしないで」
「家?」

軽く思考が停止する。これまでクリスマスと言えば、たいてい自宅以外に泊まり続けていた俺には新鮮な提案だった。俺が無言で先を促すと、神は頬を赤く染め、実に言いにくそうに唇をすぼめてみせる。

「だって、俺…見られたくないから」
「何を?」
「牧さんを。他の誰にも」
「……っ」

一瞬、息が吸い込まれる。何だこいつ、今すっげー可愛い事言いやがった―――そんな感情がたちまち駆け上がってきて俺の胸でスパークする。俺は他人の目など気にした事はないから、誰がどんな風に俺たちを見ていようが関係ないと思っていた。だが、神はそうではないらしいという事がとにかく目から鱗だった。神が俺を誰にも見られたくないと感じている、それがどれほどの優越感に値するだろうか。

「…もう、そんなニヤけないで下さいよ」
「何で?俺、今めっちゃくちゃ嬉しいんだけど」
「で、どうなんですか牧さん的には、今年のクリスマスは」

むろん、そういう理由であれば俺の方では異存はない。俺は無言で手招きし、何の疑いもなく上体を屈めてきた神を力を込めて引き寄せた。

「わっ…!ちょっ、牧さん!」
「好きだ、神。すげえ好き」
「急に何言って…」

俺の腕の中でバランスを崩し、身をよじらせている神を思うさま締め付ける。耳まで赤く染まった神が小さく息を繰り出したかと思ったら、途端に大人しくなって俺の肩口に額を擦り付けてきた。俺の方でスイッチが入ると、簡単には腕から抜け出せない事を身に染みて理解しているらしい。もっとも俺も、抱き締めた細身の体を解放する気は毛頭ないというやつだった。

「あー、もう何だろ。すげえ幸せ…」

そんなセリフが、自然と口をついて出る。改めて、神が好きだという事実に気づけて良かったと安堵した次第だった。神はよく「抱き心地悪いでしょ、女じゃないから」などと恐縮気味に言うけれど、そんな事は俺にとって全くどうでもいい事だ。ずっと欠けていたパーツが、隙間なくぴたりと嵌まる瞬間にたまらなく俺は酔い痴れた。

「…俺、ローストチキンとシーザーサラダ作りますから。さすがにケーキまでは無理だけど」

頭をもたげ、俺の様子を窺っていた神がおもむろに唇を開く。密やかな返事を囁いた後、俺の肩甲骨に這わせた指をぐっと内側に折り曲げるのだった。

―――足早に部屋を出てエレベーターに飛び乗り、地下の駐車場に降り立つ。あと15分かそこらで、残業上がりの神に出会えるだろう。お帰り、お疲れ、大変だったな…いたわりの言葉がおのずと脳裏に思い浮かぶ。その次はやはり「メリー・クリスマス」と言うべきか、それはまだ後のお楽しみに取って置くべきか。まあ後者だろうなと納得し、手の内に握り込んだ鍵で車のロックを解除した。

45回転の夜

これは、温厚で人当たりがいいと評判の神が、実はそうでもない事を言いたいがための話である。

会社を出しなに携帯を確認すると、LINEに何やらメッセージが入っている事に気がついた。差出人は神からで、急な残業で帰りが遅くなるので飯は先に済ませて下さいと言う。「了解」とだけ返信を打ち、携帯をスーツの内ポケットにしまい込んだ。神のはらわたは相当煮えくり返っているに違いないので、神が帰ってきたら取り急ぎ食わせる物を用意しなければならない。

俺は大した料理は作れないが、たまに休みの日などに作るラーメンを神が食いたがるので、帰宅する前に材料を調達しておく。駅前のスーパーに立ち寄り、手に取った野菜を次々とカゴに投げ込む。鮮度の良し悪しは、どうせ俺が見ても区別がつかないので気にしていない。「牧さん、ちゃんと確認したんですかっ?」と問い詰められるだろうな、と思うと込み上げる笑いを抑えきれない。

チャーシューと煮卵は出来合いの物を選び、袋麺の味は神の好きな塩味一択とする。俺はどちらかと言うと味噌派なのだが、そこで余計な自己主張などしてしまった日には、様々な努力が水の泡になる事は俺が一番良くわかっている。

もちろん、ハーゲンダッツのアイスとプレミアムモルツをカゴに追加する事も忘れていない。だがそんな俺の機転は、「当たり前でしょそんなの、夫としての最低限の義務ですよ」の一言で片付けられそうなのは明らかだった。俺は密かに唇の端をねじ曲げると、異様な熱気を孕んでいるレジ待ちの列の最後尾についた。





ここ最近は二人で晩飯を食う日が続いていたが、一人きりの晩飯は随分と久しぶりであった。帰宅するなり作ったラーメンを黙々と食い、冷凍してあった炒飯と唐揚げも食う。録画していたNBAやプレミアリーグの試合を流し見していると、やけに粗暴な感じで玄関の鍵を解除する音が耳に入った。その直後にドアを蹴破るような音と鞄を放り投げる音が立て続けに響いたので、これは一筋縄ではいかない夜になりそうだ―――という事を静かに悟った次第だった。

「おかえ…」

リビングのソファーにもたれたまま、首だけを伸ばして神の様子を窺う。騒々しく足音を鳴らしながら、本人は一目散にキッチンに突き進んで冷蔵庫の前に立ちはだかる。慌ただしく何かを取り出す気配があり、それがプレミアムモルツなのは言うまでもない事だった。そしてこちらに駆け寄ってきたかと思うと、俺の隣に腰を下ろして初めてそこで目を合わす。

「ただいま、牧さん」
「…お疲れ」

神は俺に視線を留めたままプルトップをこじ開け、俺の詮索を遮断するかのようにその中身を呷った。少しは気が収まったのか、麦芽臭い息を深々と吐き出しながら言い放つ。

「牧さんのせいですからね!」
「えっ、俺?!」
「冗談です」
「とても冗談には聞こえなかったけど…」

そんな俺の懸念をよそに、神はあっという間に一缶飲み干してしまったらしかった。空になったそれをガラステーブルに転がすと、勢いよく俺の腿に倒れ込みながら顔を埋めてくる。

「つっ……かれたあーっ!」
「また例の、使えない課長のせいか?」

神の直属の上司にあたるとかいう、無能な課長についての愚痴はちょくちょく聞かされていた。神が残業する時は大概、その課長に急な仕事を押しつけられて…というのが通例となっている。俺の下肢に突っ伏したままコクコクと頷いた神が、普段の温厚そうな人柄には似つかわしくないセリフを漏らす。

「あんな使えない奴、死ねばいいんだ…」
「大変だったな、月曜日から」

若干べたついた髪に指を梳き入れ、優しく地肌を撫で回してやる。テレビ画面の片隅に表示された時刻を見やると十時十五分、今からラーメンを食うのはためらわれる時間帯だが念のため尋ねておく。

「飯は?」
「あー、一応食いましたよ…コンビニのおにぎり…」
「ラーメン食うか?遅い時間だけど」

俺の膝頭を這う神の手のひらがピクリと反応し、搾り出すような声で「…食います」と返ってくる。さらに「アイスも買ってあるけどどうする?」と告げると、神の機嫌はようやく上昇の一途をたどり始めたようだった。猫のように目を細めながら俺を見上げ、「どうするって言われたら、やっぱ食うしかないですよね?」と嬉しげにほくそ笑んでくる。

「お前はいいよな、食っても太らない体質で」
「そうですか?でもおかげで苦労しましたけどね、現役時代は」
「確かにな…」

神は細身ではあるが決して少食ではなく、むしろ俺より食欲が旺盛な時もあるぐらいだった。本人曰く「胃下垂だから食っても太らないんです」という話だが、それが真実かどうかは定かではない。神についてはまだまだわかんねえ事だらけだな、と自嘲気味に呼吸を繰り出したのを聞き咎めた神が、「何ですか?」と問いかけてくる。

「ん?いや、別に…ちょっとな」
「その『ちょっと』がすげー気になるんですけど…まあ、後で聞かせてもらいますね。それより…」

神は折り曲げていた体を半分だけ起こし、大きく開かれた目で俺を見据えてきた。いつの頃からか、その黒々とした瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥るようになり、現在に至っている。要するに俺が勝手に神に囚われている訳だが、そんな思惑などはどうでもいいとばかりに神の睫毛が揺らめいている。

「俺ね、朝からずーっと会議資料と営業報告作らされてた上に、定時五分前に大嫌いな課長から何だか良くわかんねえ仕事押しつけられて、めちゃくちゃ疲れてるし腹が立ってしょうがないんです。牧さんだったらどうしてくれます?」
「…お前が今、平常な精神状態じゃない事だけは理解できた」
「それだけわかれば十分ですよ。じゃあ言いますね―――この後、たっぷり二時間ぐらいは可愛がってもらわないと気が済まない」

互いに言葉もなく見つめ合う。神からこんな風に誘われるのはさほど珍しくはなかったが、それが週の初めの月曜日となるとやはり稀な事例と言えた。まさかビール一本で酔った訳でもあるまいし、と不審に思いつつ神の出方を待っていた俺に、神の人差し指がゆっくりと伸ばされて下唇をなぞられる。

「返事は?」
「そりゃもちろん、謹んで承諾するに決まってるけどさ。一応、どの程度まで望んでいるのか聞いとくわ」
「程度…ですか?」

俺は左膝に預けられた神の手に己の手を重ね、そっと力を込めて五本の指を絡め取った。まるでそうされるのを待っていたかのように、俺の膝頭で神の指先が蠢いている。

「だからさ、月曜の夜から濃厚なヤツかましちゃっていいのか、明日に響かない程度に済ませた方がいいのかっていう…」
「そんなの決まってるじゃないですか。俺は死ぬほど疲れてて、牧さんに慰められたいんですよ?だったら―――」

ぼすん、と俺の肩に柔らかく当たる物があり、それは神の額だった。少し間を置いた後、おもむろに頭をもたげて艶気を含んだ眼差しを寄越す。

「前者…しかないですよね?」
「わかった、前者な?」

ソファーの上で体勢を整え、改めて神に向き直る。もう片方の手で神の体を引き寄せると、赤みの差した首筋に唇を触れさせてから腰を浮かせて立ち上がった。

「その前に着替えてこい、先に風呂でもいい。それからラーメンとアイスを食え」
「いいんですか?」
「いいも悪いも―――食った分以上のカロリーは、俺がきっちり消費させてやるから」
「マジですか?ヤバいなあ、また痩せちゃうかも…」

如何にも仕方なさげな口調とは裏腹に、神は陶酔感に浸りきった顔で俺を見ていた。本来なら俺も、週の初めからそのような行為に没頭できる身分ではないのだろうが、神の発情をみすみす逃すなどという愚かな真似もしたくはなかった。

スリッパを履き直してキッチンに向かう。背後で神の、「明日は有給申請しないと…」という冗談めいた呟きが発せられたが気のせいかも知れない。いずれにしてもその予言は翌朝になって現実の物となり、それに伴う神の恨み言も二晩ほど続くのだった。

カルマ・ピクニック

『靴底の下は、一面塗りつぶされた闇の世界だった。「飛び降りろ、神」という牧さんの声が耳を貫く。その姿を確かめる事は出来ない。立ちすくむ俺を、牧さんがさらに強い口調で促した。「大丈夫だ、俺が受け止めてやるから」まっすぐ差し伸べられた腕を心の目で見定めた次の瞬間、俺の体は宙を舞った。(2015.11.13 Twitterより)』



獣道、としか言えない道だったが仕方なく進んだ。それ以外に道は存在しないも同然だった。足を進めるたびに、地面を覆っている枯れ枝が踏みつぶされて乾いた音を鳴らす。頬に当たる冷気と、パキッパキッという規則正しい響きがやけに心地よかった。ああ、もうすぐ着くんだなと俺は実感した。間もなく到着するという感慨深さだけが先走っていて、どこを目指しているのかとか、何が待ち受けているのかとか、そういった事は全く把握していなかった。

向こう側から、こちらへ近づいてくる男の姿があった。恐らくは50代か60代ぐらいか。確か山道ですれ違う時は、互いに挨拶しあうしきたりがあったはずだ。俺の方から「こんにちは」と声を掛けると、相手も丁寧に返事をしてくれた。そのまま行き過ぎようとした所で、「ああ、ちょっと君」と引き留められる。

「はい?」
「今から行くの?もうすぐ日が暮れるけど」

指摘され、もうそんな時間かと左手首の時計を確かめる。3時半を少し回ったあたり、夕方と呼ぶには早い気がしたが山の世界では日暮れも早いのだろう。「そうですね」と俺は答え、「あの人が待ってますから」と続けた。言いながら、「あの人」とは誰を指すのだろうかと頭を巡らす。もちろん牧さんである事に間違いないのだが、果たして牧さんでいいのかな、という疑念が生じたのもこの時が初めてだった。

「そうか、まあ気をつけてね。日が暮れたら足元見えなくなるから」

俺を気遣うセリフと薄い笑みを残し、男は俺の脇をすり抜けていった。ほんの一瞬、湿っぽい樟脳の匂いが鼻先を漂ったが気のせいかも知れない。
確かに暗くなったら厄介だ。漠然とした不安が脳裏をよぎり、自然と歩く速度が早くなる。しかしあまりに焦りすぎたせいか当然の結果か、俺は落ち葉のぬかるみに足を取られて大きく体を反転させてしまった。

派手に尻餅をつきながらその場に倒れる。慌てて周囲を見回したが、先ほどの男は既に影も形も見えなくなっていた。誰にも見られなくて良かった、と奇妙な安堵に陥りながらのろのろと起き上がる。幸いにも足首は痛めていないようだ。立ち上がり、再び目的地を目指して進み出す。牧さんが待っているのだから、こんな中途でぐずぐずしている場合ではなかった。それこそ、太陽が傾き始めたらあっという間に日没が訪れてしまう。

それにしても何故俺は、一瞬でも「あの人」が「牧さん」ではないかも知れないなどと考えてしまったのだろうか。俺にとっては牧さんだけが全てで、他の誰も代わりにはならないと言うのに…
そして今し方出会った男―――父親ぐらいの、と言いたい所だが、俺の父親は俺が小学生の時に交通事故で亡くなっている。もし父親が生きていたらあんな感じになるのかなという気もするし、全く違うような気もする。それはともかく、これ以上父親の面影を重ね合わせるのは危険だという直感が働いた俺は、慌てて思考を打ち消した。

『神』

不意に、俺の名を呼ぶ声に反応して足を止める。紛れもなく牧さんの物であったが、どこから聞こえてくるのかがわからない。もう一度聴覚を研ぎ澄ませ、全神経を集中させる。それに共鳴するように『神、こっちだ』と俺を招く声がして、導かれるままに足を運んだ。降り積もった落ち葉と行く手を阻む木々を掻き分け、ようやくたどり着いた所は―――。

「…あっ…ぶね……」

急に視界が開けたと思ったら、靴底の下は一面塗りつぶされた闇だった。足元から転がり落ちる石ころが、自分が断崖絶壁の上にいる事を容易に理解させる。慌てて体勢を整えながら視線を泳がせた所で、今度ははっきりと牧さんの『神、間に合ったか』という声が響き渡る。

「えっ、牧さん?間に合ったかって…」
『悪い、もう時間がない。そこから飛び降りろ』
「飛び降りろって…ええっ…?!」

ここから?という言葉は喉の奥に飲み込まれた。これは間違いなく自殺に繋がる行為だ。もちろん、こんな所でみすみす命を落とす訳にはいかない。奥歯を噛み締め、どうにかその場で踏みとどまる。爪先から崩れ落ちた地面が、見通しの聞かない崖下へと吸い込まれていく感覚に背筋が凍りついた。

「な…んでですか?って言うか、牧さんどこにいるんですか?」
『下』
「下?」

恐る恐る覗き込んだが何も見えない。それどころかただ暗黒の世界が広がっているばかりで、こんな所へ飛び込もうとするなんてとても正気の沙汰ではない。言葉を失っている俺に、努めて冷静さを保とうとしているかのような牧さんの声が畳み掛ける。

『そっちは、あと五分ぐらいで火の海に包まれる。下の方が安全だ。だから…』
「は?!火の海って、えっ…!」

全く訳がわからない上に、常識の範疇を飛び越えている。しかし、何故火の海になるのかといった問いかけは無意味な気がした。この期に及んで、牧さんは嘘をつくような人間ではない。牧さんが「火の海」だと言ったら、きっとその通りになるのだろう。

「―――駄目です、こんな所…とてもじゃないけどっ…」

怖い。炎で焼かれるのも御免だが、谷底に叩き落とされるのもやはり御免だ。堪えきれない沈黙が走り、途方もなく長い時間に思えた。空白を破ったのは牧さんが先で、「神、落ち着け。俺が悪かった」と告げた後に息を吸い込む音が生々しく耳に届く。

『やっぱり怖いよな?大丈夫だ、俺が受け止めてやるから』
「えっ…!」

いや、それもどうだろうか。どれほどの深さがあるのか知らないが、成人男性が投身したら相当の負荷がかかるに違いない。戸惑いを隠せないでいる俺に、牧さんの「神、目つぶれ」という命令が降り注ぐ。反射的に従うと、良く見知った牧さんの真摯な顔つきが瞼の裏に現れたので俺は幾分ホッとする事が出来た。その牧さんが、俺に向かって両腕を差し伸べている。ここに飛び込んでこい、という無言の圧力に理性が押しつぶされそうだ。

『神、早く』

もう、誰でもいいから俺の背中を突き飛ばしてくれないかな―――そう叫んでしまいたかった。俺は自分が勇気を振り絞る事と、牧さんの気分を害する事ではどちらがより被害を最小限に済ませられるかについて比較した。間違いなく前者だと即決した俺は腕を振り、勢いよく地面を蹴り上げる。そして俺の体は、今まで味わった事もないほどの速度と重力を伴って谷底へと急降下していった…。





「…あれっ?」
「お、起きたか」

見慣れた天井の柄を遮って、視界に入ってきた牧さんの顔に焦点を合わせる。自分がリビングのソファーに寝そべっていた事に気づくまでに数秒を要した。背もたれに手を這わせ、ゆっくりと上体を起き上がらせる。途端に体の節々がバキバキと軋み、これはきっと尋常ではない何かがあったからに違いないと察知した。そう、例えば事故で生死の淵をさ迷ったとかいった感じの―――。

「牧さん、俺…もしかして事故か何かに…?」
「いや、昼寝」
「昼寝…?」
「今、4時過ぎてるから一時間は寝てたかな」

そうですか、と声には出さずこっくりと頭を垂れる。安堵のような失望のような、何とも言えない心境だった。夢にしてはリアリティに溢れすぎていたが、得てしてそんな物かも知れない。ともあれ夢で良かった、と俺は胸の内に溜まっていた呼気を短く吐き出した。俺の挙動を不思議そうに見守っていた牧さんが、「何だ、夢でも見たのか?」と尋ねてくる。

「あー、まあそんな所です」
「どんな夢?」
「どんなって…」

説明しようにも、上手く言い表す自信がない。国語力の欠落と言うよりは、果たして牧さんが俺の見た夢に本気で興味があるのか、という疑問の方が先だった。どうしようかな、と逡巡する俺に向かって牧さんが緩慢な瞬きを繰り返し、おもむろに口を開く。

「今、お前が見た夢…俺が再現してやろうか」
「えっ…」

眼前がうっすらと翳り、牧さんの顔が覆い被さってくるまでに大した時間はかからなかった。重なった唇から伝わる熱に思考がぼやける。啄むようなキスを繰り返された後に唇は離れ、してやったりといった風に牧さんの口角が緩んでいる。

「どうだ?」
「全然違っ…」

相変わらずの肉食ぶりに呆れたものの、今のじゃ全然足りないな、と考える俺も大概だった。仕方ないな、と独りごちてしまったのは牧さんに対してか自分に対してか―――どっちでもいいか、という頼りない結論に達した俺は牧さんの首に腕を回し、緩やかに顎を上向けた。

境界線を越えるな

何か怪しいな…という気持ちを露わにしながら、俺は目の前の男を凝視している。この男とはかれこれ、十年以上の付き合いになるだろうか。高校時代は強豪、しかも県下一と呼ばれるバスケット部に所属し、共にレギュラーとして数多の試合を戦ってきた仲間だ。そんな、向かいの席に着いている男―――牧が、あからさまに怪訝そうな表情で「何だ武藤、俺の顔に何かついてるか?」と尋ねてきた。

「あーそうだな、目と鼻と口がな」
「お前にしてはつまんねえな」
「だな。俺も今、すっげー後悔してる…」

如何にもがっくりと肩を落としつつ、しかし大して落胆した訳でもなくグラスビールに手を伸ばす。俺はいわゆる「ビール党」で、飲みの席ではずっとビールでいいと思っているぐらいなのだが、牧は既に麦焼酎のロックに口をつけている。しかも「炙りしめ鯖」を肴に、だ。

「しかも『百年の孤独』のロックだもんなー。ったく、飲ん兵衛にも程があるっつーか…」
「ん?お前も飲むか?」
「や、いいわ。俺、焼酎は芋派だから」
「ふーん」

何故、牧と差しで飲む事になったのか―――まあ、「俺が誘ったから」の一言で済む話なのだが、どうも牧の身辺に「何か」があったらしく、それを探り出してこいという藤真先輩の仰せに従った次第だった。「藤真が直に聞きゃいいじゃん」というもっともな意見には、「俺が聞いて、牧がまともに答えてくれる訳ねーだろ」と即答された事は言うまでもない。

藤真が牧に、バスケ以外では信用されていないのは自業自得だとして、俺だったら牧が素直に応じてくれるかと言えば少なからず疑問が残る。まず、この男は自分の事をベラベラ他人に話さない。人当たりはそう悪くはないのだが、やはり「優しそう」と言われるよりは「怖い」と称される方が多いだろう。それなのにやたらと女が寄ってきて、俺の知る限りでは中学ぐらいからずっと女が途切れた事はない。しかし今―――。

「牧が彼女と別れたの、今年の初めぐらいだよな?ほら、壮絶な修羅場の末にさ…」

嫌な顔をされる事は百も承知で、改めてそう確かめてみる。案の定、不機嫌極まりないといった目線を俺へと寄越してきたが、それも俺にとっては既に見慣れた代物だった。
「壮絶な修羅場」という言葉で集約してしまったが、あの時ほど自分が牧じゃなくて良かったと安堵した事はない。当時の彼女とはけっこう長く…確か五年近く付き合っていたはずだった。何となく二人は結婚まで行くんじゃねえかという予感はあったし、本人もそんなニュアンスの事を口にしていた気がする。それが別れてしまった―――しかも牧から別れを切り出した、と聞いて顎が外れるほど驚かされた。

「あん時、俺にも何回か連絡あったもんな。紳一に別れたいって言われたんだけど意味わかんない、武藤さん何か知らないですかって。よっぽど切羽詰まってたんだろうなあ」
「それは…悪かったな。迷惑かけた」
「まあ、それは仕方ねえっつーか別にいいんだけど…」

やけに従順に謝ってくる牧に違和感を覚えつつ、俺は箸を持ち直して炙りしめ鯖を摘まみ上げた。パクリと口に放り込み、しみじみと美味さを噛み締めた後にゆっくりと視線を上向ける。

「牧。お前、新しい女出来ただろ」
「……」

牧は無言のまま、色素の薄い瞳をわずかに丸く見開いてみせただけだった。図星だったのか的外れだったのか、容易にはわかりかねるほどの変化だ。これは間違いなく前者だ、と踏んだ俺は即座に椅子を引いて前のめりの体勢を取った。ここ半年あまり、牧にしては珍しくフリーだったがついに陥落した、という事だろうか。

「…で?」
「何だよ」

苦虫を噛みつぶしたような、とは正に今の牧みたいな状態の事を指すのだろう。牧とは伊達に長い付き合いではないので、こんな仏頂面とも腐るほど対峙させられている。清田を始めとする後輩連中からは「武藤さん、くっそ機嫌悪そうな時の牧さんとよく一緒にいられますね」と感心される事が多々あるが、「あー、あれは牧のデフォだから」と返すと大概は納得されるのが常だった。

そう言えば、あいつからはそんな愚痴を聞いたが事ないな…と俺は、今この場にいない後輩の顔を思い浮かべる。一つ下の神宗一郎は、OBの集まりや飲みの席などでは牧のお世話係を請け負ってくれるという、実に奇特な男だった。牧と同様に余計なお喋りを好まず、どんな事態にも冷静に対応してくれそうなイメージから自然とそんな役割を担わせている。

あえて「イメージがある」と付け足したのには理由があり、実は去年のOB会の暑気払いで神が珍しく深酔いした事があったのだった。あの時は牧が、神を高円寺の自宅まで送り届けたようだが大丈夫だったのだろうか。まあ俺が心配する事でもないか…と改めて牧に向き直り、牧が最も嫌がるセリフを紡ぎ出す。

「どこで知り合ったのよ。つーか、いつから付き合い始めた?」
「俺、まだ何も言ってねえんだけど」
「わかるってそんなの、俺の目はごまかせねえって知ってんでしょ?」

牧は答えず、相変わらず眉間に縦皺を刻み込んだままグラスの中身を一息に呷った。周囲の喧騒と、氷とグラスのぶつかり合う音だけが二人の間を埋めている。およそ並みの人間では堪えられそうもない時間だったが、意外にも痺れを切らしたのは牧が先だった。「仮に、俺に新しい女が出来たとして」と言い置いてから通りがかった店員を呼び止め、「すみません、獺祭発泡にごりで」とオーダーする。

「あ、もうポン酒に走りやがった」
「何でお前にいちいち報告しなきゃいけねえんだ」
「そらそーなんだけどさあ…」

牧の言う事はもっともだが、俺にも意地という物がある。今まで牧の女関係は全て把握し続けており、その記録をここでストップさせる訳にはいかないのだった。牧は俺をチラリと見やり、やれやれ、とばかりに両肩をすくめてみせる。

「そう言や、武藤から俺にその手の報告って全然ねーよな」
「…うっせ!痛いとこ突くんじゃねー!」

牧の頭をはたく真似をした俺の右手は見事に空を切り、大袈裟に俺の攻撃をかわした牧の髪がバサリと揺れた。さらに「大学時代に一回あったぐらいか?」と追い討ちをかけられ、慌てて「俺の事はいいんだよっ」と睨み返す。このまま形勢が逆転してしまっては、本末転倒もいい所だ。

その後、何度か牧の本心を聞き出そうと試みたものの、牧のくせにやけに歯切れが悪いと言うか、曖昧な返事ではぐらかされるばかりだった。今までなら、この時点で彼女について何らかの情報を導き出せているはずなのに、今回ばかりは恐ろしくガードが堅い。何故だ。俺のこの、巧みな話術を以てしても牧の鉄壁を突き崩せないとは…やがて俺たちのテーブルに「獺祭発泡にごり」が運ばれてきたので、ふと思い立って全く別の話題を振ってみる。

「そうそう、知ってた?神が…」
「えっ?」
(あれ?)

ささやかな違いだったが、牧の声音にある種の動揺が走ったのを聞き逃す俺ではなかった。神と何かあったのだろうか、と案じつつ立ち去ろうとした店員を慌てて引き止め、「あーお姉さん、黒霧島水割り。あと比内地鶏のたたきね」と矢継ぎ早に畳みかける。

「黒霧の水割りか…ビール党のお前にしちゃ珍しいな」
「何か、急に飲みたい気分になったから。…あのー、神、こっちに戻ってきたんだよな?5月ぐらいに…」

既に周知と思われる事実を提示し、牧の反応を窺う。やはり牧の眉根が、ほんの一瞬寄せられた気もするし気のせいかも知れない。神は去年、OB会の暑気払いの直後から期限つきで広島へ転勤しており、二ヶ月ほど前に東京へ戻ってきたと聞いていた。清田や小菅あたりは会ったらしいが、俺はLINEで一、二度連絡を取ったきりでまだ直接は会っていなかった。

「会った?神に」
「あー、俺はまだ…いや、会ったな。うん」
「どっちなんだよ」
「会った」

すっげー怪しい―――危うく、そんな言葉が喉から出かかったのをどうにか収める。気を取り直し、何気ない風を装いながら「へー、そうなんだ?知らなかった」と言ってやると、これまたやけに白々しい調子で「そうだっけ?」と返された。やはり怪しい。これが怪しくなくて、いったい何が怪しいと言うのか。

「いつ会った?」
「先週かな…」
「すげー最近じゃん。どこで会った?」
「辻堂…」

会話の端々に面倒臭さを滲ませるようになった時が、核心を突かれている何よりの証拠だった。牧本人は気づいていないだろうが、この癖は十数年前から全く変わる事なくもたらされ続けている。牧のそういった一面を、垣間見られる立場にある自分が少しだけ誇らしかった。

「辻堂って何、海南行ってたの?何だよ、俺も誘ってくれりゃ良かったのに」

椅子にもたれかかって背筋を反り返らせ、天井に突き上げた手を頭の後ろで組む。それに対しては「あー、そうだな…悪かったな」と不明瞭な声で呟かれるばかりだった。そこへ、威勢のいい店員の声と共に黒霧島の水割りと比内地鶏のたたきが到着し、やや張り詰めていた空気が解ける。心なしか牧もホッとしたような息を漏らしていて、思わず腹の底で「こいつ命拾いしたな…」と毒づかずにはいられなかった。

「あ、やっぱ美味いなー黒霧。何か久しぶりだわ」
「そりゃ良かったな」

すっかり俺の追及を逃れた気になっている牧に、「お前も食えよ」と比内地鶏の皿を指し示す。「お、サンキュ」と箸を伸ばしかけた牧の動作がピタリと止まった。「どうした?」と聞くより先に、「悪い、ちょっとメール…」と牧がポケットから携帯を取り出す。誰からだ、と詮索するまでもなく神からだと察知した。ディスプレイを眺める牧の、閉じられた口の端に若干の緩みが生じている。

「メール、神から?」
「うん、まあメールっつーかLINEだけど…」

何故俺が「神から」だとわかったかについて、牧の方では考えが及んでいない様子だった。それも通常ならあり得ない状況であり、俺の中で急に全ての回路が開けたような気がした。あ、「女」じゃねえんだ、という直感が俺の頭に降り注ぐ。まるで凪いだ海のように、静かで穏やかな牧の目を俺は今まで見た事がなかった。正直「穏やかな牧」というのも薄気味悪かったが、事実なので仕方がない。もし、牧をそうさせている張本人が神だとしたら―――いや、まだ確定するには早すぎる。これまで女が切れた事のない牧に限って、そんな話があるのだろうか。

「神、こっちに呼んだら?」
「今日は無理だな。残業らしい」
「そういう連絡?」

牧の指がディスプレイの上で素早く滑り、恐らくは「了解」とでも返信しているのだろう。俺は再度、温和で物腰が柔らかいと評判の後輩の顔を脳裏に蘇らせた。強いて表現するなら「癒し系」か、と思う。ストイックで厳しい世界に生きるアスリートだからこそ、最強の癒しという物が必要なのかも知れない。あくまで憶測だが。

「ところで武藤、何で今の…神からだってわかった?」

心底不思議そうな問いかけに、俺は勝手に巡らせている想像を停止して牧を見つめ直した。それは俺にも上手く説明できそうにない。頬を引きつらせながら短い吐息を漏らし、「さあ、何でだろうな?」と答えてやるのがせいぜいだった。

「あー、参ったなあ。藤真に何て報告しよっかなあ」
「え?藤真?」
「いや、何でもねえわ。こっちの話…」

南行き(2)

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プロフィール
嬉野シエスタさんのプロフィール
性 別 女性
誕生日 5月10日
地 域 神奈川県
血液型 AB型