心地よいボサノバ・ジャズが流れる店内に、突如響き渡る「きゃりーぱみゅぱみゅ」―――と思ったら、向かいに座っていた男が「あ、牧さんからメールだ」と言ったので、俺はストローで吸い上げたアイスコーヒーを盛大に噴き出した。
「うわっ、びっくりした…どうしたの仙道?」
ポケットから携帯を取り出した神が音を止めると、辺りは再び静かなBGMに包まれる。しかし、完全に空気が元通りになったという訳ではなかった。
「ゲホッ、悪い…あのー、牧さんからメール来たって…?」
「そーだよ。えーっと…あー、何かねー、ちょっと遅れるみたい。東横線が人身事故だって」
了解ですよー、と呟きながら神が即座に返信を打ち始める。全く動じる様子のない神に、俺は周囲の客の視線を一身に浴びながら恐る恐る尋ねた。
「や、それはいいんだけど、さっきの着信…俺の聞き間違えじゃなかったら、もしかしてきゃりーぱみゅぱみゅ…?」
「そー、『にんじゃりばんばん』」
あの人、よく人身事故に巻き込まれるんだよね…と神は笑っているが、牧さんが「よく人身事故に巻き込まれる人」という認識は知らないし、どうでもいい話だ。そんな事より、かつて高校バスケット界で「神奈川の帝王」とまで呼ばれていた男からのメールの着信音がそれ、という事実がかなり問題なのではないか。
「…何?仙道」
携帯のディスプレイを軽くタップし、メールの送信を済ませた神が顔を上げる。そのあまりに屈託のない表情に俺は言うのをためらったが、どうしても聞き流せなくて口を開く。
「あのー、ちょっと素朴な疑問なんだけど、どうして牧さんからの着信音がきゃりーぱみゅぱみゅな訳?」
「えー?だってすぐわかるじゃん、牧さんからメール来たって」
しれっと神は言い放ち、不思議そうに首を傾げてみせる。正直、牧さんを知っている奴なら全員が全員疑問を抱くと思うのだが、どこか感覚を麻痺しているらしい神を追及しても仕方がない。
「いや、でも牧さんにも一応イメージっつーもんが…」
「そうかな?でも案外可愛い所あるんだよ、あの人。俺よりずっとロマンチストだし」
「あっ、そう…」
可愛い所があるかどうかは置いておくてして、ロマンチストというのは何となく頷ける話だ。それは、神の右薬指に嵌められたアガットのシルバーリングが全てを物語っているだろう。
牧さんと神が「一線を画した付き合い」をしている事を知っているのは、ごく一部の関係者だけだろうか。知らされた時も特に嫌悪感などは抱かず、「あー、そうなんだ」で受け入れられてしまった自分が少し恐ろしい。
これはあくまで俺の見解だが、高校時代には既にこの二人の「夫婦っぽさ」は出来上がっていた。だから、信頼しあう先輩後輩からさらに関係性が深まっていたとしても、まあわからないでもないかという気にさせられてしまう。
やはり毒されているのだろうか―――俺は改めてアイスコーヒーを啜りながら、涼しい顔で窓の外を眺めている神を見やった。神の考えている事がいまいちわからない、というのは割と周囲の人間から聞かれる話だった。中学からの付き合いである福田でさえ、「ジンジンはハードル高い」と言っていた気がする。いったい神が何を考え、どういう気持ちであの牧さんの伴侶という形に収まっているのか。
「やっぱわかんねーわ…」
「何か言った?」
「いや、こっちの話。ところで神さー、その指輪…」
俺は神の右薬指を露骨に指差した。これ?と、神が眩しそうに瞬きしながら自分の指輪に視線を移す。アガットというブランドを選ぶあたり牧さんにしては秀逸と言うか、本気度の高さを感じさせるのだが俺の考えすぎだろうか。
「それ、牧さんに貰ったやつでしょ」
「うん、去年のクリスマスにね」
「クリスマス…あの人、マジだな。それさあ、何で左の薬指じゃないの」
「何でって…んー、別にペアリングじゃないみたいだったから」
その返答を聞いて、俺はある事に思い至った。普段アクセサリーを着けている印象のない牧さんが、たまにシルバーのバングルを着けているのを見かける事がある。あれが多分アガットのバングルなんだな、と俺は悟った。そしてそれが、神から牧さんへのクリスマスプレゼントに違いない。何となく薄ら寒いというか、複雑な気分に陥りながら俺は尋ねた。
「神さあ、去年のクリスマス、牧さんにバングルあげたでしょ?アガットの」
「えー、すごいね仙道。何でわかったの?」
「やっぱりか…」
ぶっちゃけわかりたくなかった、というのが率直な俺の意見だ。他人の恋愛模様を見せつけられる事ほどバカバカしい物はなく、それが昔から良く知っている二人のそれだったら尚更だ。
そこで詮索を打ち切れば良かったのだが、どうせだからもう一つだけ聞いておこうかと悪戯心を起こしたのがそもそもの間違いだった。
「その、左の薬指用の指輪を貰う予定はあったりすんの?」
「えっ?うーん、言っていいのかな…何かねえ、どうやらあるらしいよ」
「あんのかよ!」
「こないだ、それらしい指輪を検索してるのを見ちゃったから」
牧さんには内緒ね、と神が困ったように笑いながら人差し指を唇の前で立ててみせた。そのくせ内心、まんざらでもなさそうなのは誰が見ても明らかで、俺は何とも言えないむず痒さを覚えながら天井を仰いだ。
「内緒って?」
「多分サプライズだから。俺が気づいちゃってたら牧さんに悪いでしょ?」
「さすが元後輩だなー。あくまでも先輩を立てる訳ね?」
「そりゃそうだよ、いろいろ気を遣ってるんだよこれでも…」
ストローの紙袋を指先で弄んでいる神に、さらに言葉を重ねようとして口をつぐむ。以前武藤さんに、「神には気をつけろ、愚痴と見せかけて堂々とのろけやがるから」と忠告されていた事を思い出したのだった。
しかし普段、自分から率先して発信する事のない神が、ここまでプライベートについて晒してくれるのは珍しい。もう少し突っ込んだ質問をすれば神の意外な一面を見られるかも知れなかったが、あまり深入りすると警戒され、手痛いシャットアウトを食らう事はまず間違いない。
「…今日って、他に誰が来るんだっけ?」
今日の俺はそこら辺の駆け引きには微妙に自信がなく、早々に勝負の場を下りてしまった。一瞬だけ神が浮かべた、いかにもつまらなそうな表情を見られただけでも個人的には良しとしておく。
「今日?俺と仙道と牧さんでしょ、あと藤真さんかな?」
「藤真さんか…そう言やさっき、東横線が人身事故って言ってたよな?あの人今、白楽か東白楽に住んでなかったっけ」
「あーそっか、確か白楽…ちょっと待って、LINEに何か入ってるかも」
神が再び携帯を手にしたので、俺も自分の携帯を取り出してLINEのアプリを開く。果たしてそこには藤真さんからのメッセージが届いていたが、その内容は俺たちが予想していた物とは少し違っているようだった。
「『悪い、寝坊した!!!!!』だって…しかも5分前だよ、これ」
「って言うか、もう3時過ぎじゃん。どんだけ寝てんだあの人…」
という事は、どれだけ藤真さんが急いだとしても、ここに来るまで一時間はかかるだろう。神はテーブルの隅に立て掛けたメニューブックに手を伸ばし、「あーあ、腹減ったからパンケーキでも食べようかな」などと呟いている。「仙道も何か頼む?」と聞かれたが、俺は首を軽く横に振った。
「藤真さん来るまでしばらくかかるだろ。俺、いったん家に帰るわ」
「えっ、何で?」
「ちょっと忘れ物。約束してたDVD取りに行くから…俺んち、こっから往復で30分ぐらいなんだわ」
「あー、吉沢明歩だっけ」
こ洒落たカフェで堂々とAV女優の名を吐く神も神だが、「いや、希崎ジェシカの方」と普通に返す俺も俺だった。
「希崎ジェシカの限定版DVD、前々から貸す約束してたんだけどなかなか渡す機会なくて」
「あー、それ藤真さんの後、確実に武藤さんに回るよね」
「その後が三井さんに回る所まで決まってるから」
「わー、すごい。何なの、その下衆フォーメーション…」
三井さん本人に聞かれたら「てめーもっと言葉を選べよ」と言いざま鉄拳が落ちてきそうなセリフだが、神なら案外何事もなく済むかも知れない。と言うか、神にしか許されない発言だろうと俺は思っている。
メニューブックを覗き込み、パンケーキの種類を真剣に迷っているらしい神に「じゃ、ちょっと行ってくるわ」と声を掛けて席を立つ。
「うん、いってらっしゃーい」
「あっ、そうだ神。ついでだから何か持ってきてやろうか?それこそ吉沢明歩とか…」
神が断る事は百も承知だったが、あえてそう持ちかけてみる。やはり神は断ってきたが、それに続く返答に俺は再び閉口する羽目になった。
「ありがとう、でもいいや。今、そっち方面は充実してるから」
「充実…」
「ごめんね」
その謝罪はいったいどういう意味なのか。俺の社交辞令的な申し出を断った事に対してか、それとも神の体から匂い立つ、性的な何かを想像させられてしまった事に対してか。神の右薬指では相変わらず、艶消しのシルバーリングが鈍い光を宿している。「いや、別に」と俺は言い、場の空気を変えるためにどうでもいい話題を振った。
「それより、さっきの神の着信音が『にんじゃりばんばん』でまだ良かったわ。『つけまつける』とかだったらどうしようかと…」
「あーいいね、『つけまつける』。今度からそっちに変えてみようかな」
「いや、それはさすがにやめてあげて…」
神の反応は見届けずにテーブルを離れ、店の外へ出る。途端に浴びせかけられる外界の眩しさに目を細めていると、すぐ近くから「仙道」と声を掛けられて俺は我に返った。
「あれっ、牧さん。もう東横線動いてるんですか」
頭の中で、反射的に「つけまつける」が流れそうになるのを慌てて打ち消す。そんなポップでキャッチーな曲が脳内BGMに選ばれてしまった日には、さすがの俺もどうすればいいのかわからない。
「動いてはいるけど、だいぶ遅れてるな。俺は中目黒まで来てたから、日比谷線に乗り換えて恵比寿で山手線乗ったけど」
無意識に、といった感じで牧さんが自分の顎を撫で回す。左手首に、腕時計と共に装着されたバングルが嫌でも視界に入り込んでくる。
「あっ、バングル着けてる」
その一言で、牧さんは全てを察したようだった。自分の左手首と俺の顔を見比べ、「何だ、神から聞いたのか?」と唇の端を引き上げてみせる。
「うーん、まあそんな所です」
「そうか」
どうせお前が誘導尋問したんだろう、とでも言いたげな顔だった。まあ、半分は当たっているので否定はしないでおく。
「そう言えば藤真さん、さっき目ぇ覚めたみたいですよ」
「何かそうらしいな。どんだけ寝てんだあいつ…」
「俺、藤真さんに渡す物あるの忘れてたんで、一旦家に帰ります。30分ぐらいで戻りますんで」
「何だ、吉沢明歩か?」
嫁と全く同じリアクションかよ、と思ったが口には出さず、「いや、希崎ジェシカの方です」と返す。牧さんでも吉沢明歩とか知ってるんだな、という事実の方が意外だったが、この人がAVを見て抜いている姿が想像できない。だいたい、昔は女が途切れたのを見た事がなかったぐらいなのに、どういう訳か今は神宗一郎という伴侶を得ている。
「…牧さんでも知ってるんですね、吉沢明歩とか」
「まあ、一応な」
「ついでだから何か持ってきましょうか?」
先ほどと同様、断られる事を前提で申し出てみる。いったい牧さんはどういう反応を示すのか―――案の定、牧さんは一片の迷いもなく断ってきたが、その理由はいっそ清々しいまでに単純明快な代物だった。
「俺はいい、必要ねえから」
「…さっき、神にも同じ事を聞いてみたんです」
「あ?」
「やっぱり断られましたよ。今、そっち方面は充実してるからって」
その時の牧さんの、実に上機嫌な笑みといったら若干憎らしいぐらいであった。思わず「オッサン、めっちゃ笑ってますけど」と毒づいてみるも、牧さんは気分を害する様子もなく表情を緩ませている。
「今から神がパンケーキ食うみたいなんで、俺が戻るまでの間、二人の時間を楽しんどいて下さい」
「おう、わかった。サンキュ」
そそくさと俺の脇をすり抜け、店の扉をくぐろうとする牧さんの二の腕を掴んで引き止める。
「いや、何でそんなちょっと嬉しそうなんですか。おかしいでしょ、今だって八割方一緒に住んでるくせに」
「何だよ、悪いか?」
足を止め、振り返った牧さんが鬱陶しげな視線を寄越してくる。さらに、駄目押しとばかりに放たれたセリフに俺は呆れ返った。
「俺は、隙あらば神と二人きりになりてえんだよ。じゃあな、気ぃ遣ってゆっくり戻れよ。空気読めよ?」
バシッ、と強めに叩かれた肩甲骨の辺りにじんわりと痺れが走る。背後で自動ドアの開く気配がしたと思ったら、牧さんの姿は既になかった。
「絶対15分ぐらいで戻ってやる…」
とは言え俺の事だから、普段の倍以上の時間を掛けてDVDを取りに行ってしまうのだろう。俺はやれやれ、と肩を竦めると、地下鉄の連絡口を目指してゆっくりと歩き出した。