熱めに淹れてもらったソイラテを啜り、本に挟んでいた栞を抜き去った所で「神くん!」と声を掛けられる。その直前から既に、誰かが勢いよく店内に飛び込んできた気配を察していた俺は静かに顔を上げた。
「あっ、彩ちゃん。お仕事お疲れさま」
再び栞を元の位置に戻して文庫本を閉じる。ここまで走ってきたらしい彩ちゃんがストールを取り去り、息を整えている姿が視界に捕らえられた。
「ごめんね遅くなって…だいぶお待たせしちゃったんじゃない?」
「ううん、俺もさっき来たばかりだから」
「ほんとごめんねー」
彩ちゃんは、俺の前の席に荷物を置くと財布だけ取り出し、「私、ちょっと注文してくるね」と言いざまカウンターへ向かおうとする。
「彩ちゃん待って。ここ、俺払うから」
俺も財布を手に立ち上がる。女の子の横に並ぶ機会が激減しているせいか、目線の置き所に少なからず迷いが生じてしまった。
「えっ、いいの?」
「うん、だって今日は俺が頼んで来てもらったんだから…良かったら、ケーキとかスコーンとかも一緒に食べようよ」
「ほんと?ありがとう。ちなみに神くんは何飲んでるの?」
「俺?ソイラテのエクストラホット」
どうしようかなー、とカウンターに寄りかかった彩ちゃんがメニュー表を指でたどり、「んー、せっかくだからニューヨークチーズケーキとか食べちゃおうかな」と俺を見上げてくる。
「あっ、俺もそれにしよ」
「そしたら、飲み物は甘くないやつがいいから…じゃあアメリカーノのトールで。マグカップでお願いしますね」
注文と支払いを済ませ、受け渡しカウンターの方へ移動する。「先に戻ってて。俺、持ってくから」と言うと、彩ちゃんの琥珀色の瞳が殊更に輝きを増した。
「神くん優しいー!そんなに気遣いできる男子なのに、どうしてよりによって牧さんの嫁なのー」
「ちょっ、彩ちゃん声デカいって…」
彩ちゃんにまで「嫁」呼ばわりされてしまうぐらいだから、俺と牧さんの事はかなり隅々まで知れ渡っているのだろう。別に隠してる訳じゃないから当たり前か、と俺は彩ちゃんが席に戻っていくのを待って薄くため息をつく。同時に、口元が綻んでしまうのを慌てて手のひらで覆い隠した。
「あっ、年明けに神くんと会うの初めてよね?あけましておめでとう」
彩ちゃんの前にマグカップとチーズケーキの載った皿を並べると、唐突に改まった挨拶と会釈をされて俺も急いで居住まいを正す。
「そう言えばそうだよね。こちらこそ、今年もよろしく」
「はい、お約束のノートのコピー」
鞄からクリアファイルに挟まれた紙の束を出し、俺に向かって手渡してくる。アスリートフードマイスターの一次試験を10日後に控え、俺が彩ちゃんに頼んで講習会のノートをコピーさせてもらったのだった。書道5段だという彼女のノートは完璧で、講習会の出席者はおそらく全員、コピーさせてほしいと頼んでいたのではないだろうか。もちろん俺もその一人だった。
彩ちゃんとは去年、初級コースであるジュニアアスリートフードマイスターの講習会で久々の再会を果たした。それ以前もごくたまに顔を合わせる事はあったものの、ちゃんと連絡を取り合うようになったのはここ最近の話だ。そして俺は、再会して30秒足らずで牧さんと一緒に暮らしている事を露見されてしまったのだった。誰に聞いたのかと尋ねると、「えー、仙道くんとか藤真さん」という半ば予想通りの答えを聞かされ、全身が脱力してしまったのを覚えている。
「ごめん彩ちゃん、コピー代いくらだった?」
ファイルを受け取り、尻ポケットに挿した財布に手を掛けた俺を「あーいいのいいの、全然大丈夫」と彩ちゃんが制する。
「うちのプリンターでコピーしちゃったし、コーヒーとケーキまでご馳走してもらっちゃったからそれで十分よ」
「ほんとに?こんなので良ければ、いつでも奢ってあげるけどね」
パラパラと紙を捲り、整然と書きつけられた文字を眺め入る。字が綺麗なだけではなく、要所要所をきっちり押さえている彼女のノートは簡潔でわかりやすかった。
「ありがとね、彩ちゃん。これさえあれば一次試験は受かったも同然だよ」
「そう言ってもらえて嬉しいけど、神くんは絶対大丈夫だと思う。だって、最初から心構えが違うし」
「心構え?」
思い当たる節が見つからず、何度か瞬きをしてみせた俺に彩ちゃんの悪戯っぽい眼差しが注がれる。
「そう、現役アスリートの旦那さんを支えようとする心構え。私なんかはスポーツメーカー勤務だから、この資格もあくまで仕事の一貫だけど…」
「いいじゃない、それだって全然立派な心構えだよ」
現役アスリートの旦那さん、という言葉に若干照れながらもカップの縁に唇をつける。「そうかなあ」と小首を傾げつつ、チーズケーキの先端をフォークで突き刺している彩ちゃんに俺はさらに口を開いた。
「そうだよ。俺は牧さんと住むようになって、必要に迫られたって言うか―――もちろん牧さんは何も言わないし、俺が作った物は何でも美味いって食ってくれるけど、それだけじゃやっぱまずいかなって」
「あ、何か今、さりげなくノロケ入った」
「えっ?ああごめんね、ちょっと自慢しちゃった。…で、アスリートフードマイスターの資格を取ろうと決めたはいいけど、講習会からして女の子ばっかりだったのは一つだけ誤算だったかな」
一通り話し終えて自分のフォークを摘まみ上げる俺を見て、彩ちゃんがおかしそうに噴き出しながら「そりゃそうよ、神くんには悪いけど…だいたい、フードと名の付く資格は女子が多いって相場が決まってるのよ」と言った。
「やっぱそうなっちゃうよね?まあ仕方ないけどね」
「ねえ、神くんたちはお正月はどうしてたの?」
フォークで削り取ったケーキの欠片を、おもむろに口に運んで噛み締める。いつもながらスターバックスのチーズケーキは濃厚で、コーヒーと一緒に食べる事で調和される味なのだろうと思われた。
「正月?別に普通だったよ。普通に目黒不動尊に初詣行って、あとは棚とカーテンを見にイケアに行ったぐらい。彩ちゃんは?」
「私もまあまあ普通だったけど…あっ、元旦に彼氏の実家に挨拶に行ったかな」
「そうなんだ、もしかして結婚するとか?」
次の瞬間、彩ちゃんの動作がピタリと止まり、目が見開かれると共にその頬がほの赤く上気する。
「すごいね神くん、何でわかったの?」
「わかるよー、だって実家に挨拶って言ったらそれしかないでしょ…いやー、でもほんとおめでとう。いつするの?」
俺まで何だか嬉しくなってしまい、つい矢継ぎ早に質問を浴びせてしまう。はにかんだ様子で、最高級の笑顔を浮かべる彼女はとてつもなく可愛かった。
「ありがとう。とりあえず、籍だけは来月か再来月に入れようかなって。式の日取りとかはまだ全然先だけど」
「そっかー、彩ちゃん結婚するんだ」
感慨深く目を細め、何気なく彩ちゃんのウエディングドレス姿を脳裏に思い描いてみる。それは十分綺麗だったけれど、実際には俺の想像などたやすく超えるに違いないし、言うまでもない事だった。
「それでね、実は神くんに聞きたい事があったんだけど…」
「うん、何?」
不意に彩ちゃんに切り出され、俺は椅子に座り直してその顔を見つめ返す。やや間を置いた後、彼女から提議されたのは俺にとっては予期せぬ内容だった。
「夫婦が仲良くやって行くための秘訣について」
「それ、俺に聞くの?」
意外な話の流れに、俺は戸惑いを隠しきれなかった。以前、ちらっと耳にした所によると彩ちゃんはその彼氏とけっこう長く同棲していたはずだ。どう考えても、牧さんと暮らし始めてようやく2年足らずの俺が語るテーマではないし、そもそも俺たちは世間一般的な「夫婦」ではない。
「俺なんかに聞かなくたって、他にいくらでも適任の人いるんじゃないの?」
「それが、神くんしか思い当たらないんだってば。私の周りでは結婚してる子まだそんなにいないし、それに…」
彩ちゃんは一旦そこで言葉を途切らせ、マグカップを両手で包み込むようにした。パールホワイトに塗られた爪に、淡いオレンジの照明が当たって柔らかい光を放っている。
「はっきり言って、あのタラシの牧さんが神くんを嫁にしてて、それも仙道くんや藤真さんが呆れるぐらいにメロメロだっていうのが相当すごい事なのよ。私からしてみれば」
「改めてそう言われると恥ずかしいなあ…」
「神くん、絶対牧さんに何かしてるでしょ」
所在なく後頭部を掻き回す俺への追及を、彩ちゃんが緩める事は決してなかった。俺はそうだなあ、と視線を宙に走らせると、一つだけ心掛けている習慣について話し始めた。
「…秘訣ってほどでもないかも知れないし、彩ちゃんはとっくに実践してるかもだけど、毎朝の挨拶だけは絶対に欠かさないかな。しかもちゃんと目を見てね」
あくまでこれは、「目を見て挨拶する」という点が重要だった。俺と牧さんの仲はおおむね良好だとは思うけど、たまには言い争いになる事もあるし、気まずい雰囲気のまま眠りにつく事もある。それでも朝になれば素知らぬ顔で、何事もなかったように「おはようございます」と告げるのだった。それで全てがリセットされ、様々なわだかまりが浄化するものと俺は勝手に解釈している。牧さんの思惑は知らないが。
「あー、確かに…毎日挨拶はしてるけど、ちゃんと目を見てっていうのは案外してないかもね。ありがと神くん、すごい参考になった」
「まあ、単純な事なんだけどね」
残りのソイラテを一息に飲み干し、甘くぬるまった呼気を吐き出す。俺の助言がなくても彩ちゃんは幸せになれるだろうが、彩ちゃんのような女の子に頼られるのは当然、男としては光栄というものだった。
「神くんは、今度の魚住さんとこの新年会は行かないの?」
スターバックスを出て、駅までの道すがら彩ちゃんに問いかけられる。確か今週の土曜日だったかな、と牧さんから聞かされたスケジュールを頭の中で引っ張り出しながら俺は首を横に振ってみせた。
「えー、あれってうちらの一個上の同期会でしょ?俺、関係ないし行かないよ」
「そうなの?何か三井さんが、今度の新年会に牧は神を連れてくるのかとか、牧が嫁を紹介するらしいとか何とか…」
「うわーっ、三井さんまでそんな事言ってんの?…いや、でもやっぱやめとくよ。試験も控えてるし、家で勉強してるよ」
とは言え、いずれはその同期会に顔を出さざるを得ない予感がするのは気のせいだろうか。いいんだけど、別にいいんだけど…と声には出さずに独りごち、彩ちゃんに感づかれない範囲内で深々と息を繰り出した。
「神くん、私、山手線だからここで」
やがてJRの乗り場が見えてきて、山手線に乗る彩ちゃんと京王線に乗る俺は改札口付近で「じゃあまたね」と互いに言い合った。
「あっ、彩ちゃん」
くるりと体を回転させ、立ち去りかけた背中を呼び止める。振り返った彼女に、俺はあえて他愛もない事を口にした。
「今日の晩飯なんだけど、昨日カレー作ったから今日もメインはカレーなのね。でも副菜に迷ってて…出来れば、ブロッコリーとエノキ茸を使い切りたいんだよね。どうしたらいいと思う?」
「ブロッコリーとエノキねえ…その組み合わせだったらスープにしちゃったら?ネギかベーコンがあれば一緒に入れちゃって、スープはコンソメでも鶏がらでも」
「スープか…その発想はなかったかも。ありがとう、すごい助かった」
やはり彩ちゃんに相談したのは正解だった。彩ちゃんは「こんな相談ならいつでも受け付けるからね」と笑い、「じゃあね神くん、試験頑張ろーねー!」と手を振って今度こそ駅の構内にその姿を紛れさせて行った。
少しだけそれを見届けてから、俺も京王線乗り場を目指して歩き出す。しばらく人の流れに従いながら足を進め、たどり着いた改札口で良く知り尽くした人影があるのを発見した。
「牧さん」
「おう」
駆け足でその背中に追いつき、肩を叩いて立ち止まらせる。牧さんと帰宅が同じ時間になるのはそうそうある事ではなく、それは牧さんも同意見のようだった。
「珍しいな、この時間にお前とここで会うの」
「そうですね、今日はちょっと遅くなったんで…あっ、晩飯は昨日のカレーと、ブロッコリーとエノキのスープですよ」
忘れないうちに、彩ちゃんから伝授されたメニューを披露しておく。さすがに牧さんには何の脈絡もないセリフに聞こえたようだが、すぐにその表情を和らげて「そうか、わかった」と頷いてくれた。こんなやり取りにはすっかり慣らされてしまった、とでも言いたげな顔つきだった。
「あっ、そうだ。実はさっき魚住からメールが来てて…」
自動改札をくぐり抜けた所で、牧さんがポケットから取り出した携帯の画面を振りかざすようにする。歩きながらなので一瞬ではあったが、何やら小さい文字の羅列が垣間見えた。
「魚住さんから?」
「神が新年会に来るなら、舟盛りに伊勢海老と鯛をつけるけどどうするって聞いてきてるんだけど…」
「えっ…!」
―――この、一つ上の代の人達の無駄な情熱や労力はいったいどこから来るのだろうか。誰か一人ぐらい批判する奴はいないのかよとも思うが、幸か不幸か、そういう事をしそうなメンバーに心当たりがないというのが現実だった。
「嫌だったら無理して行く必要はねえけど」
「別に嫌ってほどじゃないですけど、今回は遠慮しときます…」
軽い眩暈や頭痛に襲われつつも辛うじて俺は答え、彩ちゃんの結婚話については何となしに言うタイミングを逃してしまった。