※この話は「大人ヒットパレード」「七色」の続編にあたるため、先にそちらをお読み頂く事をお勧め致します。
待ち合わせた焼肉店には、まだ神くんの姿しかなかった。長身の体を折り曲げるようにして携帯を眺めていた神くんに、少し離れた位置から「お疲れさま」と声を掛ける。
「あー、彩ちゃん。お疲れさま」
顔を上げた神くんが、画面をオフにした携帯をテーブルの端に押しやる。つくづく、女子が放っておかない容姿―――牧さんとは別の意味で―――に違いないのに、牧さんの「嫁」であるという点にこの世の無常を感じてしまう。いろいろと夢見ている周りの友人たちにも、「いい男は既に売却されている」という事実を諭してやりたい。
「この店すぐわかった?」
「うん、まあ無事に着いたよ。って言うか麻布十番って初めて降りたけど」
神くんはドリンクメニューを差し出してくれたが、私はそれに一瞥をくれる事もなく「生中」と即答した。ですよね、と言わんばかりの表情を浮かべた神くんが店員を呼び止め、「すみません、生中一つ…あ、二つで」と注文する。
「牧さんは?」
「もうじき来るよ。今日は実業団の練習日だから、ちょっと遅れるかも知れないけど」
「あっ、そうなの?疲れてるのに焼肉奢りに来てくれるなんて悪いわねえ」
「彩ちゃんがリクエストしたんじゃん…」
私が6年同棲していた彼氏との結婚が決まり、なおかつ私と神くんが受験したアスリートフードマイスターの一次試験が無事に終わったお祝いとして、牧さんに焼肉を奢ってもらう約束をしたのが今年の一月の話だ。なかなか三人の予定が合わず、ようやく実現したのが今日、五月もそろそろ終わりという頃になっての事だった。その間に私と彼氏は入籍し、さらにアスリートフードマイスターの二次試験にも神くん共々合格できたのだが、それについてはまた別の機会に、という事にする。
そうこうしているうちに生中のジョッキが二つ運ばれ、私たちは「んじゃ、お疲れー」と互いをねぎらいながら縁と縁をかち合わせた。ジョッキごと冷え切ったそれを半分近くまで消費し、この一杯のために生きてる、と断言できるほどの幸せな呼気を深々と繰り出す。
「今日、旦那さんは?」
口元の泡を手の甲で拭いながら尋ねてくる神くんに、「仕事で接待」と答える。
「あっちは確か、虎ノ門のお寿司屋さんだったかな?友達の男夫婦に焼肉奢ってもらうって言ったら、そうなんだー、男夫婦さんたちによろしくって」
「ちょっ、彩ちゃん!言い方!」
神くんの肘が椅子の肘掛けからガクン、とずり落ちたのを見て思わず噴き出してしまう。と同時に神くんの携帯のランプが短いバイブ音と共に点滅し、それを取り上げてチラリと画面を見た神くんが「あー牧さん、今こっち向かってるみたい。あと15分ぐらいで来るって」と言った。
「あっ、ほんとに?意外と早かったわね」
「そうだね…あ、何か先に始めといてくれって。もう肉も注文しとく?」
「ねー、牧さんってそういう時はLINEで連絡来るの?」
画面上で滑らかに動いていた神くんの指が止まり、「いや、メール」という返事と共にその目線が引き上げられる。
「LINEで来た人にはLINEで返すけど、自分から発信する時はメールの方がいいみたい。俺はもうほとんどLINEだから、メールでやり取りしてるのは牧さんぐらいになっちゃったけど…」
「へー、そうなんだ?何だかいろいろあるのね」
「まあね」
神くんの達観したような笑みは、これまでに何度も遭遇した事があった。全てを受け入れる柔軟な姿勢は、やはり「嫁の鑑」と評するべきかも知れない。前にもそれについて言及した事があったが、神くんは大抵「俺なんか参考にしない方がいいよ」と低く笑うのみだった。
メニュー表を覗き込みながら「ねーねー、カルビの上と特上どっちがいいかなあ」「牧さんの奢りだから特上でいいよ」という、人でなしたちのやり取りが交わされる。ふと私が「そう言えば、うちの旦那が来月誕生日で」と漏らした事から、話の流れは次第に「誕生日プレゼントがどうのこうの」といった内容へと切り替わっていった。
「神くんは、誕生日プレゼントって牧さんからどういう物もらったりすんの?」
あの牧さんの事だから、いかにも高そうな時計だの靴だの財布だのといった類だろう。そんな私の想像の、遥か斜め上を行く回答が神くんの口から紡ぎ出される。
「去年はねー、蒸籠とか鍋とか中国茶用の茶器とかかな。中華街一緒に行ったから…俺、誕生日11月なのね?それで、一ヶ月もしないうちにクリスマスが来たりするからさあ」
「あっ、そうなんだ?じゃあクリスマスプレゼントは?」
「えーっと、デロンギのパスタマシーン」
何だか調理器具ばかりね―――思わずそう口走りそうになり、実際に私の唇は「な」の形に開きかけた。それをいち早く見抜いたらしい神くんが、「まあ俺のリクエストなんだけどね。時計も靴も財布もネクタイも、今持ってるやつで十分だからさ」と続ける。
「確かにね…男の人のプレゼントって難しいのよね。私も毎年すごい悩んでるもん」
「それで、ちょっと高めの調理器具を買ってもらう事にしたんだけど、もうけっこういろいろ揃っちゃってさ。あとはタンドールぐらいしかないんだよね、差し当たって欲しい物って」
神くんはそう言って、ジョッキの中で三分の一ほど残っていたビールを一息に飲み干した。タンドールね、と私はテーブルの端に肘をつき、カレーには付き物であるナンを焼く窯を脳裏に思い描く。
「ちょっと待って神くん、そのタンドールって…もしかして40万か50万ぐらいするやつじゃない?」
私が指摘すると、神くんにしては珍しく隙を突かれたのか、驚いたように眉山をピクリと引き上げた。「あれっ、彩ちゃん何で知ってるの?」と、思わず引き込まれそうになるほどの漆黒の瞳に悪戯っぽい光が宿る。
「やっぱりね…実は私も本格的なナン焼きたくて、タンドール買おうかなって割と真剣に考えた事があったから」
「そうなんだ?料理好きなら一度は通る道なのかな、家にタンドール欲しいって」
神くんが頭の後ろで手を組みながら、上体をやや後ろに反り返らせる。それはどうかわからないが、フライパンやオーブンなどではなくタンドールで焼いたナンを心行くまで食べたい、という気持ちは私も神くんも一致しているようだった。もちろん、タンドールと言ってもピンからキリまであるだろうから、自分が買えそうな値段の品を買えばいいだけの話だが―――。
「…恐ろしいのは、牧紳一だったら何の疑いもなく4、50万のタンドールをポンと買ってくれそうな所ね…」
「何か言った?」
「ううん、別に」
私は慌ててかぶりを振ったが、神くんの耳にはしっかり届いていたようだ。もっとも私も、特に声を潜めた訳ではなかったので致し方ない。神くんは笑いながら「いや、さすがの俺も全額とは言ってないよ?万が一買ってもらう時は折半だよ、折半」と付け足したが、そのセリフに今いち真実味を感じられないのは私だけだろうか。
「あっ、牧さん来た」
不意に神くんが店の出入り口に向かって呟き、私も斜め後ろに首だけをねじ曲げた。二人分の眼差しに気づいた牧さんが「おう」と返しながら歩み寄ってきたが、ただならぬ気配を読み取ったのか訝しげな面持ちに変化している。さすがに、かつての闘将は察しがいいようだ。
「何だ彩子、俺の顔に何かついてるか?」
「…もしかしたら、タンドール買わされるかも知れない人が来た」
「はあ?」
その如何ともし難い男の顔は、興味本位で写真に収めておきたい程度には見物だった。向かいで神くんが「ちょっ、彩ちゃん…!」と咎めるのも構わず、あまりに面白かったのでもう一言だけ忠告しておく事にする。
「気をつけてね牧さん。タンドールの相場は4、50万よ」
「…何だかわかんねえけど、肝に銘じとくわ」
また何かくだらねえ話してたな―――そんな顔つきで牧さんが頷き、私と神くんを代わる代わる見比べる。そして私は、照明を映し込んでやけにきらきらと輝いている神くんの瞳が牧さんを見上げる瞬間を目の当たりにしてしまった。