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生きる意味をもう一度


こんばんは。お久しぶりです、夢路です。
震災から、5年。
「もう」と捉えるのか「まだ」と捉えるのかは、それぞれですね。
この5年の間に、私はなにができただろうか。
今日はそんなことを考える一日でした。

就職をして、毎日泣いて、ようやくお客様に顔を覚えてもらえて、
「アンタと話してるといろんなもん買っちまうよ」と呆れながら笑って言ってくれる方や、
「姉ちゃん、商売うまくなったな」と褒めてくださる方、
かと思えばようやく常連さんとして、うちを気に入って度々来てくださっていた方が、今度転勤してしまうという話を聴いたり。
いろんなことがありました。

常連さんは、比較的ご老人の方々が多く、ひとりで暮らしている方が多いです。
目の見えない可愛らしいおばあちゃん、歩くのがやっとの偏屈だけど話すと優しさがにじみ出るおじいさん、物忘れが多くて自分がなにを買ったのかわからなくなっちゃう風邪をひいたことのない元気なおばあちゃん。
2人のわんばくな子供がいていつも苛立ってしまっているお母さん、お手伝いをよくする男の子、ブロッコリーが好きでいつも勝手にママのカゴに入れちゃう子。
いろんな人がいて、その中で私は思うのです。

この人は、笑えているだろうかと。

私の綺麗事だし、お節介だし、私のエゴなんだろうけど。
多くの人に、「生きていてよかった」と思える一瞬があることを願ってる。
私なんかが笑顔にしたいと思わずとも、それぞれが笑っていればそれでいいんだよ。価値観はそれぞれ違うのだから。

苦しみから逃げることはできないのかもしれない。
運命から抗うことはできないのかもしれない。
それでも、その中でも、そこから離れられる時間、場所がすこしでもできればいいと思う。
本来だったら、気軽に集まれる場所があればいい。集会所でも、若い人も来れるような、カフェ風の施設にしたり、そこに来れば人と会える、話ができる、悲しみを分かち合える、笑顔になれる。
そんな場所をいつか作れたらなあ。

なんだったら、私の働いてる、野菜の販売所だって、それはできる。
スーパーだって、病院だって、人が集まるところなら絶対にできる。
ただそれをしないだけで。
ものを「売る・買う」場所としてではなくて、まずは人と人で会うことができる場所として、来てくれる人にどう接するか。
確かにうちだってスーパーだってどこだって、まずは利益がなけりゃそこを運営していくことすら難しくなるから、私の言っていることは綺麗事になるんだけどね。


母にも、うーたんにも言われた。

「お前の言葉は綺麗事」だと。

そんなの、痛いほどわかってる。自分が理想を行っているのは。
それでも、綺麗に生きてはダメなのかな。
綺麗な世界を望んでは、ダメなのかな。

みんなが笑顔になれる世界は、作れないのかな。

小学生の頃、入院中にであった一人のおじさんがいた。
その人とは2ヶ月の間、たくさんの時間を共に過ごした。
後ろ姿がが私の父に似ていて、
あまり話をする方じゃなかったけど、いつも優しく話を聞いてくれた人。

私が退院する時には頭を撫でてくれて、
優しく笑って「元気で」と言ってくれた。


退院して1ヶ月後。
その人は亡くなった。
私とであった頃にはもう、末期のガンだった。
余命はもって1ヶ月。

それが3ヶ月もつづいたということ、
私が退院してからずっと、私と撮った写真を大切にしていたこと、
奥さんから聞いた。
泣きながら、「どん底だったあの人を笑顔にしてくれて、本当にありがとう」と言われた。


そのことが私の生きる理由になった。
「誰かを笑顔にできるなら」
その人に、生きる意味を与えてもらった。


そんな私は、間違ってるのかな。
そう思いたくはないよ。


そんなことを考える1日でした。
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