Title:AIについて
こんばんは、Mariです。
今日の写真は昨日病院から拝借してきたAERA。
「AI」というワードを見て手に取りました。今思ったけれど結構怖い見出しだな、この表紙。
ロボット演劇。
劇場版イヴの時間。
長谷敏司著「あなたのための物語」。これはAI云々というより立ち読みした時、原因不明の免疫疾患に苦しむ主人公の事が他人事には思えなくて買って読んだものだけれど…。そういえばアメリカでは本当にロボットに物語を書かせる試みが行われているという記事も見かけた。
あとは劇団ZTON「オルタソフィア―憂国の革命因子―」。
そしてたまたま見かけたAERAの特集。
この1年でちょくちょくロボットやAIといったものが題材、または登場するものに触れているなと。
あ、私ってAI―人工知能―に興味を持っているんかなって最近よく思います。
考えることは構造とか仕組みというより、AIと生きる社会だとか人間とロボットのコミュニケーションについてだとかそんなことなんですけれどね。
そんな訳であれこれ思ったことを書いていたのですが、収拾がつかないほど長文になったので追記に回します。
ちなみにあまり楽しい話はしていないと思います。
何卒ご容赦を。
私は人間関係が抉れたことのストレスで病気のトリガーを引いてしまいました。
そのせいなのか…人が怖くなった。
バイトを始めてホール研修をしている時、マスターに「お客さんのことが怖い?」と問われるまで気付かなかったことなのだけれど。
多分、今もまだ他人に対していくらか恐怖感を抱いているのだと思う。
人の感情に触れることに臆病になっているんでしょうね。
「Mariさんは私を概念で捉えているんですよ」
いつか、劇団の後輩に言われた言葉が思い起こされる。
「ああそうかもな」って本気で思った。
Aさんは私の思うAさんだし、Bさんだって色んな面があること知っていようが私の思う「Bさん」という枠から出ることは基本的にない。
でもその枠があるからこそ、私は相手に対する言葉や行動を選べていると思っている(その選択が常に正しいか?そんなわけはない)。
相手を概念で捉えないってどういうことなのだろう。
AさんのAさんらしからぬ言動に触れてもその都度受け入れること、なのだろうか…。
人・物事との関わりにおいて私は良く言えば「情熱」、悪く言えば「執着」という感情が欠けている人間だと思う。
なるべく無理はしたくないし、無理を相手に強いらないよう意識している所がある。
私の場合、多分それは「傷つくことからの防衛」ゆえ。
この間院に通う友人と話していて分かったことなんですけどね。
ちなみにその友人は「寂しい」とかそういう感情をあまり感じないと言っていた。
欠けている感情も人それぞれ違うものなんだなって思った。
しかしそれについて、どう思うかは自分次第。
まずはそんな自分を受け入れてあげることができれば、いいんじゃないかと思う。
少なくとも友人は、自分に欠けている感情を憂うことはしていなかった。
こんな事を書いてしまいましたが、人と関わることが嫌なわけじゃないです。私も友人も。
ただ人との関わりに怖さを覚えた私は、たまに想像してしまう。
自分は将来結婚しなくて(できなくて)、両親がいなくなってしまったら一人で生きている。
今の友人との交流は続いているだろうし、まったくの一人ではないと思う。幸せなことに。
だけれど家には一人。寂しくなることもあるかもしれない。
でも動物を「飼う」のは私個人の感覚としてあまりしたくない。
ならば、ロボットと生きてみる?
人間と生きるより、心の平静が保てるかもしれない。
と。
でも機械だから逆らわないなんて言いきれない。
それに高すぎる知能は逆に人間を拒むようになるんじゃないかと思うこともある。
あと性能にもよるけれど、維持費とかも考えると思ったより難しいかもしれないと急に現実的になる←
そもそも私はロボットを「命」と考えているのか「モノ」と考えているのか。
正直、わからない。いや、「命」と言うならば動物と変わらないし、でも「モノ」と言い切れない自分もいるし…うむ。
あとAERAを読んでふと思った「人間と機械の生存競争」。
無いとは言いきれないと思っている。
それは何も人工知能による世界征服だとかそんな壮大な話ではなくて。
遠くない未来、職場の椅子に座っているのは人間と機械、どっちが多くなるんだろうねっていうちょっとした疑念なのだけれど。
機械にできないような技能を持つ人間でいないと、仕事における存在価値は徐々に奪われていくかもしれないなって。
今より発展した人間と機械の共存社会。
どんなものになるのだろう。
そのせいなのか…人が怖くなった。
バイトを始めてホール研修をしている時、マスターに「お客さんのことが怖い?」と問われるまで気付かなかったことなのだけれど。
多分、今もまだ他人に対していくらか恐怖感を抱いているのだと思う。
人の感情に触れることに臆病になっているんでしょうね。
「Mariさんは私を概念で捉えているんですよ」
いつか、劇団の後輩に言われた言葉が思い起こされる。
「ああそうかもな」って本気で思った。
Aさんは私の思うAさんだし、Bさんだって色んな面があること知っていようが私の思う「Bさん」という枠から出ることは基本的にない。
でもその枠があるからこそ、私は相手に対する言葉や行動を選べていると思っている(その選択が常に正しいか?そんなわけはない)。
相手を概念で捉えないってどういうことなのだろう。
AさんのAさんらしからぬ言動に触れてもその都度受け入れること、なのだろうか…。
人・物事との関わりにおいて私は良く言えば「情熱」、悪く言えば「執着」という感情が欠けている人間だと思う。
なるべく無理はしたくないし、無理を相手に強いらないよう意識している所がある。
私の場合、多分それは「傷つくことからの防衛」ゆえ。
この間院に通う友人と話していて分かったことなんですけどね。
ちなみにその友人は「寂しい」とかそういう感情をあまり感じないと言っていた。
欠けている感情も人それぞれ違うものなんだなって思った。
しかしそれについて、どう思うかは自分次第。
まずはそんな自分を受け入れてあげることができれば、いいんじゃないかと思う。
少なくとも友人は、自分に欠けている感情を憂うことはしていなかった。
こんな事を書いてしまいましたが、人と関わることが嫌なわけじゃないです。私も友人も。
ただ人との関わりに怖さを覚えた私は、たまに想像してしまう。
自分は将来結婚しなくて(できなくて)、両親がいなくなってしまったら一人で生きている。
今の友人との交流は続いているだろうし、まったくの一人ではないと思う。幸せなことに。
だけれど家には一人。寂しくなることもあるかもしれない。
でも動物を「飼う」のは私個人の感覚としてあまりしたくない。
ならば、ロボットと生きてみる?
人間と生きるより、心の平静が保てるかもしれない。
と。
でも機械だから逆らわないなんて言いきれない。
それに高すぎる知能は逆に人間を拒むようになるんじゃないかと思うこともある。
あと性能にもよるけれど、維持費とかも考えると思ったより難しいかもしれないと急に現実的になる←
そもそも私はロボットを「命」と考えているのか「モノ」と考えているのか。
正直、わからない。いや、「命」と言うならば動物と変わらないし、でも「モノ」と言い切れない自分もいるし…うむ。
あとAERAを読んでふと思った「人間と機械の生存競争」。
無いとは言いきれないと思っている。
それは何も人工知能による世界征服だとかそんな壮大な話ではなくて。
遠くない未来、職場の椅子に座っているのは人間と機械、どっちが多くなるんだろうねっていうちょっとした疑念なのだけれど。
機械にできないような技能を持つ人間でいないと、仕事における存在価値は徐々に奪われていくかもしれないなって。
今より発展した人間と機械の共存社会。
どんなものになるのだろう。
2015-8-9 00:03
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