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 テストの採点が終わり学校を出る時にはもう辺りは大分暗くなっていた。
教員用に設置された靴箱から履き慣れた革靴を取り出すと、校内用のスリッパから履き替える。
一歩外へ踏み出せば、午前までの晴天が嘘のようにざあざあと雨が降っていた。

───あー、面倒くせぇ。

傘立てにたまたまあった置き傘を掴むと、土方は雨のなか車に向かって歩き出す。歩く度ぱしゃぱしゃと跳ねる水にイライラしながら、なんとなく目をやった先。
もう全員帰ってしまったと思っていた生徒用の下駄箱前で、一人の女子生徒が心細そうに立ち往生している。

「ち、……雪村?」

思わず声に出して呼んだ名前。強い雨音の中でも届いたらしいその声に、俯いていた顔を上げた千鶴がほっとしたような表情を浮かべた。

「こんな時間に一人で何やってんだ?」
「委員会の仕事をしていたらこんな時間になってしまって…。帰ろうと思ったら雨が降ってきてしまったのでどうしようかと思っていたんです……」

 そう苦笑しながら千鶴が言う。
キョロキョロと辺りを見回せば千鶴以外誰もいないようだった。
いつもうっとおしい程側にいて離れない沖田や平助がいないというのはなんとも珍しいことだ。

「お前のことだから折り畳み傘とか持ってねぇのか?」
「えーと…。この間、平助くんに貸したままで…その」


────ったくあの馬鹿。

土方は今この場にいない千鶴の幼なじみの顔を思い出して、深く溜め息をつく。

「あいつのうっかり癖は死んでも直っちゃいねぇな…」
「………死んでも……?」


土方がぼそっと呟いた言葉を聞いていたらしい千鶴が、その単語を反復し首を傾げた。

『どういう意味かわからない』
そんな彼女の表情を見る度に、胸の奥がちくりと痛む。

「ああ、いや。…なんでもねぇよ」

気にするな、と無理矢理話をそこで区切ると、土方は千鶴に「俺の車に乗せてやろうか」と提案した。
いつもなら遠慮して断るだろう千鶴も、今日ばかりはどうしようもないと思ったのか素直に「よろしくお願いします」と頭を下げる。

「じゃあ、ここで待ってろ。車回すから」
「はい、ありがとうございます!」
輝く笑顔を背にして、土方は一人駐車場まで歩く。




───土方には幼い頃から いわゆる 『前世の記憶』というものがあった。
戦場を駆け回り、血に汚れ、それでも愛する人と共に生きた優しい、悲しい記憶。
だからこの高校で教師をすることになって、かつての仲間たちと再会を果たした時は本当に驚いた。

最初に出逢ったのは原田だった。そして次に永倉。
斎藤、沖田、平助の順に次々と再会したけれど、誰一人として過去の記憶を持った人間はいなかった。
それを多少寂しくは思ったけれど、やはり彼らは何も変わっておらず、集まればあの時と同じようにワイワイと賑やかになるのだからあまり気にならなかった。
そんなある日、平助が幼馴染みを紹介したいと言って連れてきたのが雪村千鶴だった。
可憐で真の強い新撰組の"花"であり、前世では土方の妻だった少女。

しかしやはりと言うべきか。
千鶴も何一つ覚えてはいなかった。土方が落胆したのは言うまでもない。


けれど、これはこれで良かったのかもしれないとも思う。
過去では散々自分に付き合わせたのだ。辛い思いも惨めな思いも沢山させた。
沢山泣かせた。
だからもう、彼女は記憶に囚われず幸せになるべきなのだ。あんな辛い記憶を、今更、千鶴に思い出させたくはない。


土方は車に乗り込むと、千鶴の待つ玄関前まで車を走らせる。


「ほら、乗れ」
「はい!本当にありがとうございます。土方先生」

その微笑みに、古い記憶の中の彼女の笑みが重なった。

『ありがとうございます。歳三さん』

 目尻を下げて、ほんのりと頬を染めて。それはあの頃と何一つ変わってはいない表情。

けれどもう。歳三さん、なんて呼ばれることはないんだろうな。

 途端に胸中に広がる苦い思いに、僅かに土方の顔が歪む。千鶴に見えぬように咄嗟に視線を外し、一つ息をついた。
その吐息は予想以上に熱を孕んでいて、土方の何かを揺さぶろうとする。


「じゃあ、出るぞ。ちゃんとシートベルト締めろよ」
「はい。よろしくお願いします」

助手席に乗り込んだ千鶴はそう言うと、真面目にぺこりと頭を下げた。
しっとりと濡れた髪から香る、どうしようもなく甘い女の香りに意識を持っていかれそうになるのを、煙草をふかすことで何とか気を紛らわせる。

他愛もない話を楽しそうに話す千鶴に相づちを打ちながらも、土方のその瞳は頑なに正面だけを見続けていた。


 ざあざあと降り続く雨が視界を奪う。
それがまるで自分のいまの心を表しているようで、土方は苦笑をこぼす。

「……土方先生?」

目敏くそれを見留めた千鶴が、眉を寄せて首を傾げる。

「なんでもねぇよ」

普段通りに話した筈の言葉は、語尾が掠れどこまでも頼りなかった。