「寒いね…」

「……そうだな」

「もう一枚ぐらい、何か羽織るものを持って来ればよかったかな…毛布とか」

「……そうかもな」

「わかった、取りに行っ…」

「うわ、ちょっと待て離れるな……!!」

「わあ!?」

ベンチから立ち上がりかけたフレンの腕にユーリが縋り付き、白いダウンに指を食い込ませた。驚いて中途半端な姿勢のまま見下ろした先には、ユーリがやはり驚いた表情で固まっていた。


「…………どうしたの」

「う、あ、…あーその、とりあえず座れ」

「…?」

言われるまま、フレンは再びベンチに腰を下ろした。離れて行くユーリの腕に少しばかりの名残惜しさを感じて、その動きをじっと見つめる。厚手のジャケットのポケットに無造作に両手を突っ込み、ユーリは自らの足元に視線を落とした。
やはり寒いのか、一度小さく震えて膝を身体に引き寄せる様子にフレンがユーリの顔を覗き込む。気遣わし気な眼差しに気付いてちらりとフレンを見たユーリだが、またすぐに俯いてしまった。
長い髪が遅れて流れ落ち、表情を見ることが出来ない。そうでなくとも僅かな月明かりが照らすだけの今、黙り込まれてしまうと何もわからなくてほんの少しだけ、不安になる。

吐き出される白い息だけが僅かに見えて、すぐに消えた。


「ユーリ…?」

フレンが更に顔を寄せると、ユーリがのろのろとフレンを見上げた。


「…寒いんだよ」

「うん?だからちょっと待ってて…」

「…このままでいい…」

自分の腕にかかる重さが増して、触れている部分からゆっくりと熱が伝わるような、そんな気がする。離れるな、と言われた意味を理解してフレンが微笑むと、ユーリはふて腐れたように目を逸らしてしまった。


素直じゃない。
でも、それが堪らなく愛しくて仕方ない。
ユーリのこんな表情が見られるなら、本来の目的さえどうでもいいと思えた。

ユーリの左ポケットに自分の右手を滑り込ませて指を絡ませてみる。
吐き出される溜め息が白く霞んで消えていったが、振りほどかれはしなかった。
フレンもユーリに寄り掛かり、夜空を仰いで呟いていた。


「……寒いね」

「そうだな」

「でも、こうしていると暖かいね」

「…そうだな」

「もっとくっついてくれてもいいよ?」


調子に乗るな、と言ったユーリの表情はよく見えなかったが、声は穏やかだった。



流星群が見られるらしい、とフレンが知ったのは少し前の事だった。

はしゃいでいるクラスメイトに何事かと聞いてみると、どうやら今回は観測をするのに数年に一度の好条件らしい。
家族や友人、中には恋人と。
誰と一緒にこの天体ショーを観るかという話題でそれなりに賑わう昼休み、フレンはユーリを誘った。他に声を掛ける相手などいないが、ユーリは寒いのが苦手だ。だから半分以上ダメ元だったのに、意外にもユーリからはあっさりとOKの返事を貰ったものだから驚いた。
何か文句があるか、と頬を膨らますユーリに『そんな事はない』と慌てて否定し、待ち合わせの約束をして迎えた今夜。
フレンの住むアパートから少し離れた公園のベンチに並んで座り、時折空を見上げるユーリはやはり寒そうだったが、フレンが想像していたほど不満そうな様子は見られなかった。

最初はそれがどうしてなのか不思議で仕方なかったが、もう、どうでもいい。
流星を観るという目的すらぼやけてしまったかのようだった。


「ユーリ…」

学校では纏めている髪の毛も今はそのまま下ろしている。同じ色のマフラーに無造作に包まれた髪を、フレンは繋いでいない左手でそっと掬い上げて鼻先を擦り寄せた。自然、ユーリの身体を覆うような体勢になり、顔を上げたユーリと視線が重なる。

僅かに眉を寄せたユーリの、その額にキスをした。


「ん……」


仕方なさそうに、しかしそれでも大人しく瞳を閉じたユーリの頬に、長い髪を絡めたままの指を添えてそっとなぞりながらフレンは更に距離を詰めた。

二度、三度。

二人にしか聴こえない小さな音を立てて繰り返されるキスに、ユーリの身体がふるり、と揺れた。


「寒い……?」

「…………」


ユーリは答えない。
寒さで震えたのではない事は、間近で触れているフレンにこそよくわかっている。敢えて聞いて、その反応が見たいだけだった。
ユーリもわかっているから何も言わず、フレンを見上げる瞳にはどこか拗ねたような、それでいて甘えるような、そんな感情が揺れているように見えた。

こんなユーリを知るのは自分だけだとフレンは思っている。ユーリ本人でさえ気付いていないのかもしれない。だから、嬉しくてしょうがなくて、つい口元が綻ぶのを抑えられない。

それを見てますますむっとしたユーリが何か言おうと開きかけた唇にフレンが自らの唇を重ねようとした、その時だった。


「あ…!」


小さく、だがはっきりと声を上げたユーリが見ているのは既にフレンではなかった。

「…どうしたの」

不機嫌を隠そうともせずにフレンが尋ねても、ユーリはそれを気にする素振りもない。上がりかけた『熱』を持て余しているのは、どうやらフレンだけのようだ。
先程までの様子はどこへやら、ユーリはやや興奮気味に言った。


「見えた!結構デカかったぜ!」

「何が……あ、もしかして」

「おまえ…もしかして、じゃねえだろ。そもそもこれを観るためにオレのこと誘ったんじゃねえの」

「そうだけど…でも今は」

「お、また…今度はちょっと小さかったな……フレン、とりあえずどけ。見えねえだろ」

「………………」


フレンが渋々ユーリから身体を離し、再び肩を並べて座り直した。
横目で見たユーリは驚く程に真剣な眼差しで夜空を見上げ、流星を逃すまいとしているようだった。

ついさっきまで、あの瞳は自分だけを映していた筈なのに―――

くだらない。
馬鹿馬鹿しい。
誘ったのは自分なのに。

「…は…」

胸の内を占めた考えがあまりに情けなくて、つい吐き出した息が思ったよりも広く辺りを白く包む。頬を撫で上げる微かな温もりが通り過ぎると、余計に真冬の空気が冷たく感じられて仕方ない。

(流れ星に嫉妬なんて…どうしようもないな、僕は…)

ユーリと一緒に星を観る事が出来ればそれで良かったんじゃないのか、と思っても、一度ざわついた心はなかなか収まってくれそうになかった。

フレンは軽く頭を振り、俯いていた顔を上げるとユーリと同じように空を仰いだ。少しの間、黙ってそうしていたが一つも星は流れない。
雲のない『晴天』で、下弦の月が仄かに照らす夜ではあるが辺りはそれほど明るくはない。周囲の民家の灯りもほとんどないし、街灯も邪魔にはならない程度だ。防犯上どうかと思わなくはないが、今は考えない事にした。

つまり、ただの住宅街からの観測にしてはそこそこの好条件なのだ。事前に方角も確認した。間違いない。ユーリは実際に流星を見たのだから。


「…思ったより、流れないものだね」

「んー…そうだな…。今回のはなんか、ちょっと物足りない感じだな」

「今回?」

ユーリを誘ったのは今日が初めてだったし、今までにユーリからどこかへ星を観に行ったという話を聞いた記憶もない。何の事かと首を傾げるフレンに、ユーリは星空を見上げたまま話し始めた。


「ガキの頃に観たのがさ、凄かったんだよ。十年ぐらい前だったか…。それ以来『流星群』って聞くと妙にわくわくするのは確かだな。別に、普段は星だの星座だの気にしてねえんだけど」

「十年前…小学生か。僕はちょっと、記憶にないな…」

「そっか。…まあそれで、その時のはほんとに凄くて、流れ星、ってあっさり言えるようなもんじゃなくてさ」


十年前のその夜、幼いユーリは今日と同じように夜空を見ていたらしい。
季節は正反対だったが、夜風が涼しくて暑さは気にならなかったと言う。


最初に現れた流星に驚いて目を見張った。想像していたのは銀色に尾を引いて消えてゆく『流れ星』だったが、それはまるで火の玉のように赤く、最期の瞬間に鮮烈な輝きをユーリの瞳に焼き付けて漆黒の中に吸い込まれて行った。


息を呑む間に、もう一つ。

更に一つ。


文字通り『燃え尽きて』ゆく星を、ただひたすら数えていた。
幼かった夏の夜の、忘れ難い思い出。


「…音まで聴こえた気がした。流れる度に、ひゅん、ひゅん…って。いつか、また見たいと思ってた」

「そうなんだ…だから今日は何だか乗り気だったんだね。寒いのに意外だと思ってたんだ。でも…」

フレンは未だ流星を見ていない。先程から空を見つめたままのユーリの様子にも変化はない。
やはり、市街地からではこの程度なのだろうか。


「…ごめん、ユーリ」

「は?何で謝るんだよ。て言うか、何に対して謝ってんだ」

「だって、君の記憶にあるような流星は見られそうにないから。なんだか申し訳ない気がして来た」

「何言ってんだ?おまえのせいでも何でもないだろうが、そんなの。規模が違うんだろ……あ!」

「え、見えたのか……!」

ユーリの視線を追ったフレンが見上げた先で、白く長い尾を引いて星が流れた。一瞬で消えたその場所からそう離れていないところにまた、一つ。

「お…、もしかしてやっとピークの時間か?」

「そう、みたいだ」


二つ、三つ。


数分に一つのペースではあるが確実に数を増した流星を見逃すまいと、ただひたすらに二人は夜空を見つめ続けていた。

互いに無言のまま、ゆっくりと、静かに時間が流れていく。そう、この瞬間を共有したかった。

赤く輝いて燃え尽きるようなものではない。
でも、ユーリの言う『音が聴こえた気がした』の意味はフレンにも理解出来る。
瞬きをする間に闇に吸い込まれてゆく軌跡はどこか儚く、いっそ切なさすら感じさせた。

「願い事をする余裕なんか、全然ないね…」

「願い事?相変わらずそういうの好きだな、おまえ」

「む…別にいいだろ。ユーリは何かないの、叶えて欲しいことは」

「んー、三回唱える余裕なさそうだけどなあ」

「え、あるのか!?」

「おまえ…聞いといてそれかよ」

「いや…普通に返されると思わなかったから」

少々呆気に取られたフレンがまじまじとユーリを見ると、意外にもユーリはしっかりとフレンを見つめ返した。こういう場合、決まり悪そうに視線を逸らすのが常なのに、と思わずにいられない。
更にユーリが身を乗り出すようにしてきて、フレンも左手をその背に回して引き寄せた。ひんやりと冷たい背中をそっと撫で、ポケットの中で右手を握り直すと、不意にユーリが小さく呟いた。


「…聞かねえの?」

何を、と尋ねることはしなかった。

「聞いたら、教えてくれるのかな」

「さあ?…やっぱ別にいいか、半分叶ってるようなもんだしなあ」

「…じゃあ、残りの半分を確認する為に口に出してみるっていうのはどうかな。叶うかもしれないよ」

「オレだけ言うのか?なんか不公平じゃねぇの、それ」

「そう?なら僕も一緒に言うよ」

「しょーがねえなあ…」


ぐっと伸び上がったユーリが、フレンの耳元に唇を寄せる。
ユーリの髪に鼻先を擽られながら、フレンはユーリの耳朶に軽く唇で触れた。

「おまっ…!フライングすんなよ!」

「はは、ごめん。つい…。それじゃ、せーの、で一緒に言おう」

「ったく……」


一呼吸置いて、同時に言った。

「「せーの!」」


それぞれに囁かれた言葉に、二人は思わず吹き出していた。
ある意味想像通りで意外性のない、だが何度でも聞きたい。
確かに、半分叶っているのかもしれない。でもこの先もずっとそうであるように、と思わずにいられない切実な『願い』だった。


「なんだかなあ…」

「僕はとても嬉しいよ。…ユーリは違うの?」

「…ま、悪い気はしないけど、さ」


そう言って笑ったユーリの瞳が間近に迫り、唇が重ねられた。一瞬驚いたものの、フレンもユーリの背中に回した腕と繋いだ掌に力を込めてその身体を抱き締める。
自らの胸にかかる重さと温もりが心地好かった。


「…お預けのままだったからな」

唇を離したユーリの言葉に苦笑して、もう一度フレンはユーリにキスをした。


『また、一緒に流星を探したい』


重なる想いを、夜空に託した。
▼追記