(3)ラキシカ×(8)フェルナ
『赤』
――どうしよう。
放課後、夕日の差し込む廊下でフェルナール・ニーミは立ち尽くしていた。
明日は聖歌学院の学期試験。
今まで怠けていた分を取り戻そうとクラスメイトが机にかじりつく中、忘れ物に気がついて戻ってきたのである。
明日の1限目はオルクラクス史の試験だ。
暗記物が苦手なフェルナにとって、授業中のノートは何よりも代えがたいものになる。
教室に戻ってノートを回収し、自室に戻る。
たったこれだけのことだというのに、フェルナは躊躇していた。
原因は、教室の影。
教室に入ろうとした瞬間先客に驚いて、反射的に隠れてしまったのである。
結果として、ドアから中を覗き見する恰好になってしまった。
さりげなく入っていくべきか大人しく去るべきか。
ドアにぴたりと体を寄せたまま、フェルナは思考を巡らせた。
このまま去るのが一番無難。だが明日のテストのためにノートが欲しい。だが教室には先客がいる。
「うーん…」
これで何度目になるのか、フェルナは再び教室を覗いた。
華奢な体の線をした少年。
後ろを向いているので顔は分からないが、肩まで伸ばした黒髪をかき上げる手は、驚くほど白かった。
学院の制服ではなく、上下とも黒装束に身を包んでいる。
その姿はまるで、夕日で赤く染まる教室に浮き出た染みのようだった。
「あの子、誰…?」
クラスメイトではないことは確かだ。
あんな子は見たことがない。
「君こそ、誰?」
フェルナの心臓が飛び上がった。
「ご、ごめんなさい!!」
頭が真っ白になって、気がついたときには走り出していた。
だが、足がもつれて上手く走れない。
「ねぇ」
「きゃっ」
急に足下に何かが当たり、フェルナは倒れた。廊下の冷たさと膝のしびれるような痛みに混乱する。
起き上がろうとすると、目の前に誰かが立っているのが見えた。
――さっきの子。
鼓動が早くなる。
覗き見して急に逃げ出したから怒ったのだろうか。だから私を追いかけてきたのだろうか。
「ご、ごめんなさ」
「ねぇ、今ヒマ?」
「え?」
予想外の質問に拍子抜けして、思わずフェルナは顔を上げた。
そして、赤色にぶつかった。
「え…赤…」
「あー、これ?」
目の前の少年は面倒くさそうに頬を掻いた。
白い肌、漆黒の髪、少し尖った耳。そして、赤い――
「血!!」
「え?」
「あなた血出てる!」
少年の左腕から血が滲んでいる。どうやら、腕にはめた金属製の輪が傷をつけているようだった。
「あー、これはムリヤリ拘束歌から逃げてきたから」
「医務室! 医務室行かなきゃ!」
フェルナは勢いよく起き上がると、少年の右腕をつかんだ。
「ちょっと待てなんでそうなる!」
「だってケガしてるじゃない!」
「だからってなんでそんなとこ行かなきゃならないのさ!」
「嫌なの?」
「嫌だ!」
「なんで?」
少年が答えに詰まる。
その目はわずかに泳いでいた。
「な・ん・で?」
じりじりと間を詰めるフェルナに気圧されたのか、少年の口から何かが漏れた。
「…たくない」
「え?」
「…見つかりたくない」
フェルナが不思議そうな顔で少年を見ると、ぷいっとよそを向かれてしまった。
その横顔は駄々をこねる子供のようで、妙に笑いが込み上げてくる。
「…なにがおかしいの?」
おそらく顔に出ていたのだろう。不機嫌な様子の少年に指摘され、フェルナは慌てて両手を振った。
「なんでもないよ。あ、そうだ!」
何かを思いついたのか、フェルナの顔が明るくなった。
血の滲む少年の腕をそっと抱えると、何事かを呟き始めた。
「…何?」
「治癒歌。私へたっぴだから上手くいかないかもしれないけど…」
フェルナの歌声が廊下に響く。ゆっくりだが確実に、少年の腕から血が消えていく。
数分後には、血の跡も腕の傷もなくなった。
「やった成功!」
フェルナが扱えるのは治癒歌の中でも低ランクのものだが、なんとか上手くいったようだ。
少年は傷の塞がった腕をさすりながら、
「…キミ、ボクのこと誰かに言うつもり?」
「な、なんでそうなるの?」
「治した代わりに喋るんでしょ?」
「そんなことしないよ!」
「どうかな?」
少年がニヤリと笑うと、口の端から尖った八重歯が覗いた。
「ボク、ニンゲンってあんまり信用してないんだよね」
笑みと共に放たれた言葉は刺々しかった。
人間を信用しない。それは少年の孤独を意味していた。
いるかも分からない敵に全身の毛を逆立てて震える山嵐のように、少年はフェルナとの間に壁を作ろうとしている。
それは、なんて、
「寂しいな…」
「何?」
「ううん、なんでもない。ただ、寂しいなって思っただけ」
「…ふーん」
サミシイ。
どうしてニンゲンはこうも感情で物事を片付けようとするのか。いくら寂しいと言ったところで、現実は何も変わらないのに。
「…キミには分かんないよ」
一瞬、「彼」の姿が見えたようで、その幻を振り払うかのように少年は歩き出した。
「! 待って、どこ行くの?」「帰るんだよ。もといたところに」
人間の能力をはるかに越えた少年の聴力が、向かってくる足音を捉えていた。
「…分かるよ」
「?」
「あなた、大切な人を亡くしてる」
震える声が、静かに、だがはっきりと言いきった。
少年と目が会うとフェルナは微笑んだ。
それは、とても、
――サミシイ笑顔だ。
「……」
「…ね?」
何か言おうとして、何も出てこなくて、少年はフェルナの視線から逃れるように顔を背けた。
「…勝手だよ」
どうして分かるんだ。
どうして他人の感情を自分の感情と一緒にするんだ。
ボクの思いとキミの思いは違うのに。
――疲れた。
拘束歌から抜け出して捕まるまでの、ちょっとした暇つぶしのはずだったのに。
「見つけた!」
そうこうしているうちに、足音の主が廊下に現れた。
1人はフェルナのクラスの担任であるルルベス、1人は男性だ。
「また拘束歌から逃げ出して…これで何度目ですか! からかうのもいい加減にしてください!」
メガネの男性が渋い顔をして少年に近づいてくる。少年は観念したといった表情で肩をすくめてみせた。
「はいはい。まぁ、ボクが逃げ出せるくらいだから、キミの拘束歌の腕前も怪しいもんだけど」
「ケンカなら買いませんよ」
「ちぇっ」
男性は少年の腕をつかむと、フェルナに声をかけた。
「失礼しました。お怪我はないですか?」
「えっと…? はい、大丈夫です」
フェルナの返答に男性はほっと息をついたようにみえた。
少年を掴んだままルルベスと二言三言話すと、すぐに背を向けて去っていく。
その後ろ姿は、幾多の戦場をくぐり抜いた軍人のように、隙のないものだった。
少年を見送ったあと、フェルナはルルベスに急かされるようにして自室に戻ったが、勉強するつもりで取ってきたノートは机の上に置かれたまま夕日を浴びていた。
――あの子、誰だったんだろう…?
答えのない疑問が頭の中で繰り返される。
フェルナの手は自然とノートを開き、余白になにかを書き込んでいた。
黒髪、尖った耳、白い肌、そして…。
「目、紅かったな…」
紅の瞳。
どこかで見たことがあるような。
でも、それを思い出してはいけない気がした。
ノートの端に少年の似顔絵が描かれる。
黒く塗られた瞳は茜色を反射して、どこか寂しげだった。
――――――
フェルナの姿が見えなくなってから、ラキシカは男性の腕を振りほどこうとした。
「もういいでしょ、自分で歩く」
「そう言って逃げ出すつもりでは?」
「ここで拘束したって連れてくのメンドウでしょ?」
「それはごもっとも」
男性は納得顔で頷くと、ラキシカを捕まえていた手を離した。
2人は無言のまま歩き続ける。
夕日が山の端に顔を隠し始めたとき、ラキシカが思い出したように、
「…あいつ、ボクの目を見ても何も言わなかった」
「気がつかなかっただけではないのですか?」
「いや、気づいてたよ」
ボクの目を見て、一瞬呆けたような顔をして。
次にその瞳に映るのは憎しみか恐怖か、どちらかだろうとたかをくくっていたのだが。
まさか、笑うなんて。
嘲笑ではなかった。
寂しさを含んだ、そしてなにかを理解した顔だった。
――あなたも一緒だね。
すぐに血に気がついてその表情はなくなってしまったが、妙に心に残っていた。
戸惑いと苛立ち。この存在がニンゲンと一緒だなんて…。
「荒れてますね」
「…別に」
「いーや、荒れてます」
どこかからかうような口調に牙をむくと、男性はおやおや、と苦笑した。
「もうすぐ継承の儀でしょう。こんなところで問題が起きたら歌主様に咎められますよ」
「…ふん」
ラキシカは足早に日の落ちた廊下を進んだ。暗闇にあの寂しい笑顔が浮かびそうになり、かき消すかのように呟いた。
なんでもない。
もう終わったことだ。
...end
はい!
ラキシカとフェルナでした〜。
長かった…ふう。
そしてまたまた共通点があるようでないような2人(笑)
後半ちょろっと出てくるのはラキの相棒(?)です。あれ、腐れ縁?
とにもかくにも、ここまで読んでくださってありがとうございました(^_^)