「そして、それが他人に気安く聞かせて良い性質のものでないことも」
まったくもってその通りと言うべき正論。もう大分こちらに引け目が―そして相手にアドバンテージが―あるのは確実だ。
「答えてもらわなくてはな。知っていて何故愚を犯したかを」
知らなかったとは言わせない、ということだ。
「どうしてそこに居た?」
事実、偶然ではない。故意だ。しかし、言えるわけがない。彼と青年たちとの関係が気になったので耳をそばだてていました、などと。
きつい目を更に鋭くして彼は睨んだが、美雪は目を伏せて何も言わない。沈黙に耐えかねて質問を変える。
「実際のところ、どこまで知ったのだ」
その質問には、美雪は顔を上げて強く答えた。
「私、何も…何も聞いていません」
嘘ではない。扉を挟んでいたので話し声は殆ど聞こえていなかった。仮に聞こえていたとしても、彼らが使っているドイツ語やロシア語交じりの月面標準語をまだ完全には理解できないのだから、内容が分かるはずもない。それでも、聞かずにはいられなかった。
「何も?本当に『何も』、か?」
「はい…」
「我々が役所にはかって通した案のこともか?」
はい、と答えただけなのに、意外にすんなり受け入れられるようだ。彼女は安心した。
「え、あ、案…は、結局、通らなかったのではなかったのですか…?」
思わず素直にそう答えてしまい、彼の微笑みを見て、
「って…あっ」
はっと気付く。
何も聞いていなかったのなら、分かるはずのない話だ。微笑みは苦笑に変わる。
「君はやはり…カールが言う通り、帝国に仇為すものなのか?…月面民族主義の素晴らしさも、理想の尊さも、これまでずっと事あるごとに教え伝えてきたつもりだったのだが」
右手を左の頬に当て、肘を左手で支えながら、彼は言った。悲しそうに。
「もしも、そうならば…私は、君を殺さなくてはならないかもしれない」
不満を隠せず、カールは憎まれ口を叩いた。
「慎重になってしまったのは、奥方という人がいらっしゃるせいですか?支持者が増えないのも、帝国を代表する軍人である大尉殿が、事もあろうに異国の人と結ばれた、信用がならんということではないのですか」
今までは価値もない戯言と思ってやり過ごしてきたが、流石に聞き捨てならない。しかし、眉を上げた彼の前で、さらにぺらぺらと話は続く。
「そもそもあの人は、軍の誰か日本の人からの紹介で入ってきた人ではないですか。最近は帝国の影響下にあるとはいえ、元々は支配の及ばない敵対国。…スパイか何かなのでは。スパイというのは、最も身近な人の中に潜ませるものだと言います。例えば…家族とかね」
それは、帝国軍内部ではまことしやかに囁かれている、隠れた裏の常識ともいえることだ。けれども今は、挑発的で無性に癇に障った。
「一度疑ってみたほうがよろしいかと思いますよ」
遂に彼は、低い声で怒りを露わにした。
「…貴様……!」
卓を平手で叩くと同時に、部屋の外でもガタッという大きな音がした。何事か、と扉を開けると、そこには美雪が立っていた。
「…いつから聞いていた?」
彼の剣幕に怯えたように目を丸くした後、彼女は顔を伏せがちにして、ふるふると首を振った。肩まで伸ばした黒髪が左右に揺れる。
ふわふわとして、撫でてみたいほどに可愛い頭だと思った。最初に会った時に。漸く手元で好きなだけ撫でられるようになったと思ったのに…
「ほらやはり。だから言ったでしょう。…大尉がこんな簡単に人を信用し、情に流される人になってしまうとは」
嘆かわしい、という風に青年は両手を広げてふうと息をついた。
彼は腕組みをして立っている。美雪は、その前に座らされている。
青年が去った後、代わりに彼と美雪が部屋に二人きりで向かい合っていた。
机は隅に寄せられ、ぽつんと美雪の座る椅子があるだけだ。まるで審問のようだと思えてしまい、足先をもじもじとさせる。
「まず…何から訊こうか……」
彼の低い声に背筋がぞくぞくした。そんな場面ではないのに。
美雪はうつむきながら、上目遣いに彼を見た。難しい表情をしている。体格が良いので、こういう時は特に恐ろしく感じる。
「分かってもらえる、と思っていた。私たちが、部外秘に相当する重要な内容を話し合っているということは」
もって回った言い方がひどく痛い。彼が他者を責める時は大抵こうだ。
ただ、黙っているしかない。嵐をやりすごすには。
その時、彼らは重要な作戦を企てていた。いや、作戦というよりは、謀議という言葉がしっくり来るかもしれない。でもそれを正規の作戦と言うことで、すんでのところで正当性を保とうという気持ちがあった。
美雪は酒の壜を机に置くと、静かに扉を閉めた。それを取って、彼は自分でグラスに注いだ。
ノックの音で中断された話を、しばらく経った頃合いを見計らって再開する。
「委員長は説得できたか?」
「いや…それが……。最初は受けてくれたものの、結局は上に通してもらえず、案は白紙に…」
小さな卓を挟んで向かい合って座りながら、やや正面を避けていた。
「うむ……」
「しかし、早くしないと内政、とりわけ…財政は落ち込むばかりで、よほど協力を得るのは難しくなりますよ」
お互いに進捗状況を報告し合うが、見えるのは先行きの困難さばかり。いや、困難を理由にこの作戦をなかなか実行に移したくない―そんな無意識が誰もの中にあったのかもしれない。これは決して上位下達の出来上がった作戦ではないのだから、後ろめたくないといえば嘘になる。
「機は、今、ではないでしょうか?」
と、軽く煽る青年に、彼は顔をしかめて応じた。
「しかし…、二人、いや、三人か…では、足りぬ」
青年は、ふぅ、とため息をついた。
「……まずは支持者を集めよ、ということですね」
この部屋には裸電球しかなく、その黄色がかった灯りは、彼は嫌いではないが、ぼんやりとして心許なくもあった。
「正論だとは思うのですよ。しかし、いつもそう仰いますが、ただ待っているだけではいつになるか。願が達成される前に、おじいさんになってしまいます。まずは動かないと―」
調子に乗り始めた話は、途中で終わった。彼が冷たく睨んだからだ。
いつもそうだ。大尉は、あまり多く喋るほうではない。演説は得意なのだが、もしかしたら口下手なのかと思わせるほどに普段は口が重い。と言うと、自分が喋りすぎなのだと言われそうだが。どんな深謀遠慮が展開されているのか知らないけれども、それが全て頭の中では埒が明かない。他人にとっては。
「その為に役所方面に助力を頼んでいるのだろう。―自分の役目から先に果たせ」
自分に出来ることなんて何もないのかもしれない。全て他の人で事足りてしまうから。むしろいるだけ邪魔なのかもしれない。取り分け孤高を愛する彼にとっては。
多分恐らく、「当てがわれた」自分に対する優しさなのだ。側に置いているのは。そうでなければ理解が出来ない。
だって青年も言っていたではないか。
「軍関係者で、外国の方と結婚している人は、珍しいですよね」
と。思いすごしかもしれないが、好奇と、若干悪意が混ざっていたような気がする。
「みゆきさんは、正式な軍人でもないですし、お父上が月に縁のある方だというわけでもないでしょう」
更に駄目出しされたが、彼は黙っていた。何故悪意を向けられるのか分からないが、要は、釣り合わない、ということなのだろう。彼と自分は。
暗く長い廊下は、なかなか、目が慣れない。
小さい頃、古い平屋に住んでいて、その廊下も暗かった。通るたびに、話に聞いたお化けがわだかまっている気がして、両脇を見ないようにしていたものだ。
あの時と比べたら怖いものは減ったか。いや、減りはしないのかもしれない。まだ形の無かったお化けが、別の形で恐怖として現れ、脅かすから。
酒が足りなくなったというので、壜を一本、取ってきたところだ。
仕方がないことだが、彼らは当然、美雪を抜きで、夜通し話し合うのだ。夜通し。美雪ははっとした。そういえば、彼はこう言っていたっけ。
「女性は苦手だ。男のほうが話が分かる」
まさか。考えたくは無い、が…もしかして……。
彼には二十五年の人生を通して、一人の女性も居なかったらしい。美雪を除いて。彼ほどに端整な顔立ちで、しかも有能で、幾らでも女性の気を引きそうな人に。だから、不思議なのだ。
しかし、今、美雪の頭にある一つの可能性なら、それを非常にうまく説明できる。そのように考えれば、納得が行くのだ。
―いや!納得なんていかない!
一人で否定しようとも、悶々と渦巻く想念はそれを許してくれない。
金髪と碧の眼、とても美しかった。彼のプラチナブロンドと、よく似合うと思う。あの青年だけではない。この間来ていた黒髪の青年は、淡々とした静かな艶めかしさがあったし、いつか紹介された日系混血児の少年も、可愛くて、彼と並ぶとまるで弟みたいだった。
いずれも年下の、彼に対して忠実で、尊敬と憧憬に溢れた眼差しを送る、若い男性だ。見た目だって悪くは無いし、戦績も挙げている。彼の相手にとって不足は無い。洋の彼方でもそういった耽美な趣味を持つ人もいると聞くから、あり得ない話ではない―彼女の想像はどんどん飛躍した。
―私はきっとカムフラージュなんだ。だってあの子たちのほうが私より彼に相応しい…かもしれない……もん。
不安に満ちた手で、奥の間の戸を叩いた。
終わると、二人は、一階の一番奥にあるやや広めの洋間に入って行った。この部屋は、若干棟から飛び出したような作りになっていて、彼は誰かと内密に話をするときは、この部屋を使う。
美雪はあまり良く見たことが無いが、掃除をするのに立ち寄った時は、質素な木製の長机と椅子が幾つか、そして小さな引出しのついた戸棚が置いてあるだけだったような気がする。随分と殺風景だと感じたものだ。
食事の間は、二人はワインを片手に、
「連合のパイロットも、あの局面での活躍は素晴らしかった」
「敵ながら、あっぱれ、ですよね」
とか、
「作戦が失敗したのは結局のところ少佐の采配ミスだろうな」
「自分もそう思います。早い内に大尉殿に判断を委ねれば良かったものを」
とか、
「それにしても大佐が亡くなったのは惜しい」
「そうですね…。元帥閣下と並んであの方は帝国に必要な人だったのに」
とか、こういった話をずっとしていた。武勇伝と言うのだろうか。
「クリューガー准尉のことは本当に残念でした…」
と青年が言った時は、彼の顔が悲しそうに曇った。
まるきり分からない話ではないが、かといって気軽に加われる話でもない。理解が追い付かないところを訊いたりすると、その度、話の腰が折れる。聴き役に徹しているつもりだったが、あまりに感想を言えないのもどうだったか。おまけに美雪は酒が飲めない。
正直、フラストレーションでしかない。同時に、グラスが空になれば酒を注いでやるような気配りもしなければならない。他の女性―例えばさっきの話に出てきていた美人通信兵―なら、きっと当たり前のようにやっていることなのだろう。名前はカールというらしい、青年が彼女を褒めていた。
「美しいだけでなく、気が利くしはきはき話す。職業婦人の鑑です」
と。
或いは、彼の妹か。青年が通信兵にも増してべた褒めしていた。
「見目麗しくて優秀で、言うことなしです」
これも器量が良く、高校生に当たる年齢だが、臨時的に軍の仕事をしていたらしい。しかも、そつなくこなしていたとか。スケジュール管理も、機械の扱いも上手いらしい。他との交渉も丁寧にしてくれるそうだ。彼の妹なら頷ける。きっと秘書として頼りになるようなタイプだろう。―自分とは違って。
「最近は男友達との仲が良すぎて困る」
と、彼は苦笑いしていた。