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反省の続き

近い過去で2013年や2014年のも読み直しましたが、舌鋒鋭いという感じはとてもしました。
上手い話や、知っている話を披露したくてたまらないのは分かるし思ったことが分かりやすく書いてあって、読んでいて私は楽しいのですが、これが反面一部の人には嫌悪感を抱かせる原因にもなっている気がしました。

混乱ぶりもうかがえました。
特に友人関係に関してです。
数か月後に絶縁することになった友人を褒めたり、その友人がいるmixiに戻りたいし戻れるかもといった発言をしたりしていることが正直驚きでした。
無意識に相手に迎合している節があります。
ある人(この人ともまた絶交することになった)の勧めたものを褒める記述もそうです。
当時何も考えずにやっていたことではありますが人として軸がぶれている。笑

恐らく好きでやったと思われる「デアボリカ」と、好きで見たと思われる「Gガン」の感想については日和ったところやぶれや他人を意識したところが少なかったように思います。
批判にもかかわらず、私は私自身に文章力はあると思います。
恐らく論旨が分かりやすく、それなりに正しく、反論を許さない。
かつ気に入らないと思えば遠慮なく切り込んでいくところは怖さを感じさせる。
私に対する反応が反論等ではなく、抽象的批判や罵倒、嫌悪という形で現れるのも仕方がないなと思いました。

過去記事を見返して

SNSの日記にここのことが書いてあり、気になったので久しぶりに過去記事を見直しました。

記録によると、2009年10月頃「つまらない小説を褒めるのは社交辞令と思ったほうが良い」とここでコメントか拍手を貰ったようです。
私の小説はつまらないということを指摘しているコメントです。
忘れたと思っていましたが、カウンセラーと話していた際、似た表現を自分が使ったことからすると、無意識下に彼(か彼女)の台詞は残っていたのではないかと思います。
そこで当時の私が何をここに書いていたかを確かめるべく入りました。

感想:酷いなぁ。笑

知識や認識等が未熟なのはともかく、無意識的にか意識的にか他者を攻撃している文章の多いことよ。
これでは(少なくともこの時期の文章だけ取り出せば)サイトのコメント欄であったように誹謗中傷と言われても仕方ない。
私は一貫して敵(当時や以前自分にとってひどいことをした/言った人、ひどいと感じられた言説)と戦っているつもりなのですが、それは所詮仮想敵との戦い、エアプであり、率直に書いたことで新たな敵を増やしている状態になっておりました。
それを、具体的に言うとクラナドについての記事で、柔らかな言葉で指摘している人もいました。
当時の私には通じていなかったようですが。

閉鎖直前にコメント欄でもらった意見「過去ログ読んだがほとんどキチガイ」についても、残念ですが少なくとも2009年の時期の記事には、私自身から見てもそう見える記事が沢山ありました。
言葉はきついが、至極全うな感想であった可能性もあります。

さて今回の発端となった「つまらない小説」についてですが、それと前後した時期私は小説を書けなかったらしいし(それを嘆いている記述がGREEにありました)、こうして見に来ても同時期(2009年の9月)には書きかけのBLが載っているだけで、取り立ててそれがどうこうという記憶もないので、小説の内容に対する批判というよりは、モラトリアム人間の私を揶揄しようとしたのかなという気がしました。
真意は分かりません。
小説を更新しないこと自体が、能力がない=つまらない小説、なのかもしれませんし、もしくは過去に書いた作品とそれに対する反応に悦に入っている私をどこかで目にしていて見苦しかったのかもしれません。
分かりません。
しかし言われた言葉は呪いのように残るんだなと思いました。

今の私は鬱で休職中であり、創作活動も小説を書くのみです。
鬱になったのと同時期、こちらで、批判的コメントや拍手による罵倒や批判のコメントが度重なり(直接のきっかけは拍手によるコメント)、それに上手く対応しきれないため、こちらのブログにパスワードをかけ更新も意識的にやめました。
当時は被害者意識が強かったですが、もしかするとそれらを招いたのは自分自身でもあったのではないかと思います(サイトでも同様の指摘がありましたが…その指摘は下の記事に転載してあります)。
メル友だった人にも似たようなことを言われました、そういえば。
このエントリに対しても批判が来たらちょっと笑えないですが…。

それだけ多くの人に私は嫌われすぎた、恨まれるようなことをしてきたということです。
サイトに書き込まれた匿名の一意見に関しても、心当たりがありすぎてどの部分をどれだけ真に受けたら良いか判断できない。
それに関してはGREEのほうの日記に詳しく書きました。
思ったことを思ったままに書き晒してきた業は深いです。
自分では批判を受けたり内省したりして「気を付けているつもり」だったこととのギャップや、絶対善や正義は存在しないと分かっているふりをしながら根本的に自分は正義厨だったことなどに自分は今更驚いています。
覚悟が足りませんでした。

本当は閉鎖のきっかけとなった拍手についても今内容を落ち着いて考えるべきなのでしょうが、アクセス解析を辿る時間を考えますとまた次回に回したほうが良いと考えています。

私が何をどのように書けば良いかはこれから自分で模索していこうと思っています。
その途中で批判や罵倒が来ても致し方ないくらいの諦めや強さが必要なのかなと思いました。

拍手については2011年頃まで遡りましたが、あからさまな批判や罵倒は2013年8月の二件(別サイトも入れるなら2013年11月の一件、8月の二件)と、そのずっと以前の政治的な話に関するものだけでした。
それに加えて2014年2月の「眼鏡オタク」ですね。
そんくらい。
沢山あったという認識自体が被害妄想的だったのかもしれません。
ただ当時の自分は頑張っていたつもりだったので、「突然」予期もしないひどい言葉を投げかけられたという衝撃が大きかったのでしょうね。
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