【禅的に伝える?】
「気功は禅の一種です」
とオイラは考えている。
というより、気功だけでなく、ヨガも太極拳もあらゆる芸能、芸術も、全ては禅の一種なのだ。
禅とは何か。
心を今していることのみに向け、心と体を統一させ、静かで穏やかな心と体を獲得していくことだとオイラは理解している。
只管打坐と言って、禅の修行をする僧たちは、只ひたすらに坐ることに打ち込み、禅としての目的を達成させようとする。
それはオイラたちも同じことで、只ひたすらに、今していることのみに打ち込んでいくのである。
さて、この禅としての気功を伝える場合、二つの伝え方があるように思っている。
一つは、禅がそうであったと言われているように、お碗になみなみ入った水を一滴もこぼすことなく、即ち、何も加えず、何も引くことなく、丸ごとそのまま伝えていくという方法だ。
もう一つは、その本質的なものだけを伝え、そこに様々な工夫を凝らして付け加えていくのは、伝えられたその人の自由に任せるという伝え方だ。
オイラ自身、気功の本質についても、ふぁんそんや体の使い方についても誰かに教えられた訳ではない。
だから、オイラは気功の丸ごとが何であるかを知らないし、従って、気功の丸ごとを伝えることは出来ない。
オイラが学び、身につけてきた理論や技を伝えることしか出来ないのだ。
あとは、そこに何を付け加えていくのか、いけば良いのか、それはオイラが口出しすることではない。
オイラが伝えられるのは、オイラが探究し積み上げてきた気功の理論と技だけなのだ。
しかし、これさえ伝えられていない。
さて、どうしたものか。
最後に、般若心経の最後のマントラ(真言)を記して、オイラと未だ見ぬオイラの後継者たちへの応援メッセージとしておこう。
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ガティー、ガティー(達成した達成した)
パーラガティー(最高のレベルまで達成した)
パーラサンガティー(落ちることのない最高のレベルまで到達した)
ボディ、スヴァーハー(その実践的な到達や直観的な気づきが成就されんことを!)