【何を如何に伝えるべきなのか?】

 何人もの人から聴いた話だが、オイラが伝えている気功は、かなり異質のようなのだ。

 独自性があるというか、本質的であるというか、オイラにも上手くは言えないが、本当に気功というものを理解し、気功そのものを伝えているようだと言われるのである。

 これはオイラが「気功とは何か、何をすることなのか」について論理的に、哲学的に探究し、他の全国的に名を上げている先生方の伝え方などを批判的に吸収してきたからかも知れない。

 気功は形ではない。
 呼吸や体感への没頭を基本に据えた内気の訓練である。
 しかし、その成果は形でしか表せない。
 オイラの尊敬する湯偉忠(タン・イチュウ=タン・ウェイツォン)師がオイラに伝えてくれた言葉のように、「気功はチレイ(綺麗)じゃないとダメ!」
ということなのだ。

 言っちゃー悪いが、大抵の先生は、気功の本質である「呼吸と体感への没頭」についての具体的で実践的な指導については、出来ないのかしないのかは判らないが、していない。
 気功の本質への理解が無いか、伝えるべき理論と技を持ち合わせていないかのいずれかである。

 だとするならば、オイラが伝えなければならない課題は、気功の本質的な課題である「呼吸と体感への没頭」を土台に据えた上での「緩感貫採練・かんかんかんさいれん」の理論と技、そしてそれを体現化(具現化)した気の舞的な作品(功法)と自由舞である。

 オイラが気功を習い始めて一年後に教室に入ってきた夫婦が、後からオイラに話してくれた言葉を思い出す。
 「私たちね、みなさんが大雁功を舞っている時の和気さんを観てね、あんな風に舞えるようになりたいわねって二人で話していたのよ。」

 実は、オイラも湯さんの舞を観て、彼のように舞いたいと感じ、そこをベースに気功を探究してきたのかも知れない。

 だからこそ、放鬆を大事にして、ゆるみの技である「ふぁんそんテクニック」を理論化することが出来るようになったのだ。

 このオイラが探究してきたものの総てを伝えていく必要があることは解っているのだが…、さて……??
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