きっかけは小さな事だったはずだ。
普段なら謝れば済む事だった。
何が何時もと違ったのか。俺の態度が悪かったからか、彼の機嫌が悪かったからか。
だが、それも今は遠い。
怒りにまかせて、我を失った彼が握った拳を奮う。
俺は防御もしないで殴られていた。
身体が動かないのだ。瞳孔がひらきっぱなしで、考える事が出来ない。
痛みもなんだか鈍い。
ただ、口の中は血の味がした。
どれだけ殴られたか解らないが、顎に当たった何発目かで呆気なく意識を飛ばした。
アルコールの匂いとジンジンと痛む口の端の痛みで目を覚ました。
「兄ちゃん。」
目の前には彼がいた。アルコールで湿らせた脱脂綿で切れた部分を消毒していた。
「お前、凄い顔しているぞ。」
よっぽどなんだろう、そう言って彼は笑った。
「兄ちゃんがしたんだろ。」
そう言ってむくれると更に笑う。
彼はペットボトルの水を渡す。もう一方の手には洗面器。
「口濯いで。」
言われた通りに水を口に含む。そうっと口を濯ぐ。動かすだけで痛い。当分は固形物は食えないだろう。
差し出された洗面器に吐き出す。最初の一口目は血の濃さ位の水だった。
何度が繰り返すと赤色はうすくなった。
「気持ち悪い。」
吐き出したものから目をそむけると、彼は洗面器を片づけに行く。
「兄ちゃん、あのさ」
「殴りすぎたから、明日腫れるぞ。覚悟しておけ。」
そう言って部屋から出て行った。
謝りもしないし、謝らせてもくれない。
俺は置いてきぼりにされたような気持ちになった。
いつだって彼は一人で生きていけるような顔をして、実際一人でも大丈夫で、俺はどうしていいか解らなくなる。
彼の後ろをいつまでもついていきたい。どこでも、どんな時でも。
俺だけが彼を好きすぎる。
彼と俺とでは思いに温度差があるようだ。
痛み止めを飲むとすぐに効いた。睡魔が襲いかかる。
気分はすっきりしないまま、眠りについた。
口の中はいつまでも痛かった。
次の日、職場に行くと仲間たちが声をかけてくる。
「すごいよ、どうしたの。」
「誰にやられたの。」
「強盗?」
「討ち入りでもしたのか?」
曖昧に答えてやり過ごす。
俺のディスクの前は彼の席だ。
彼は先に職場に来ていた。もう仕事を始めている。俺が来たのがわかるとちらっと俺を見るとすぐに作業に戻った。
結局仲直りをしたのかしてないのか曖昧なままだ。
そして予想通り嫌味たらしく顔は昨日より2倍腫れていた。
俺は仲直りしたいのに何で腫れるかな。
「青梅くん、絆創膏剥がれそうだよ。新しく張ってあげる。」
京王くんが救急箱を出してきて、俺の口の端に貼った絆創膏に手を伸ばした。
「触るなっ。」
急に彼が立ち上がり京王くんを止める。
伸ばした手をあわてて京王くんが引っ込める。
「手当は俺がやる。」
彼は聞こえないくらいに小さな声でそういうと、救急箱を京王くんから奪い俺の腕を掴んで連れていく。
俺は引きずられるように部屋から出て行った。
トイレの洗面所に救急箱を置いて絆創膏をだす。剥がれかけていた絆創膏を乱暴に彼ははがす。
「痛いよ、兄ちゃん。」
「男は泣き言言うな。」
「だって……。」
兄ちゃんが怒りにまかせて殴ったんじゃないか。冷静ならここまでひどくならないだろ。
「俺の付けた傷なんだから、誰にも触らせるなよ。」
「へっ?」
「治るまで俺が手当てするからな。」
仲直りでよいのだろうか。これは彼からの仲直りしようという合図なのだろうか。
許されたのかな?でも、許されたわけじゃなくてもいい。傷が残っている限りは俺は彼と一緒にいられるのだから。
絆創膏を口の端に貼ってもらう時にあることに気付いた。
「兄ちゃんも怪我している?」
彼の小指にも絆創膏が貼られている。
「殴りなれていない奴が殴ったりするとここを痛めるんだ。つまりお前の歯が当たって切れた。」
「ごめん。」
「謝るな。お前が謝ったら、俺まで謝らなければいけなくなる。」
なんだよそれ。意味わかんねえ。
「今回は痛み分けだな。」
そういって、笑う。
「だったら、小指は俺が絆創膏貼りなおすからね。」
俺がそういうと彼は困ったように笑う。
俺がいちばん好きな顔で。
続け