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いちご水



紙パックの飲み物を、よく買う。

いちごウォーターは初めて見たから、試飲。


…… う す い ←

ってのが感想だわ。

美味しいは美味しいんだが、薄すぎる!と、父親が言ってた。

飲み慣れると、普通に美味しいんだけどね。

たぶん私は水を飲み慣れてるからだと思う。

主にいろはすのミカン、時々クリスタルカイザー。

基本持ち歩いてるのは水だし。


……美味しいのに。


継ぐ者とは



葬儀当日。

11時から葬儀を行うとのことで、私達は9時に家を出、9時半に斎場へ到着した。

待合室の別室に棺が置かれており、そこから会場へ繋がっている。

待合室には叔母、従兄姉を含めてあちらの親戚は14人ほど居り、おにぎりを食べていた。


別室には、泊まり込んだ祖母と伯父が疲弊した様子で、じっと棺を見つめて座っていた。

父と私は、棺の窓を開けて叔父に挨拶をする。

なんて、綺麗な寝顔なんだと、起きそうな気配があった。

起きることはないのだけれど、本当に良かったと思う。

病院に運び込まれた時は、酷く顔がはれていたらしかった。

息ができなかった為だろう、今は苦しみの表情は無い。


棺の近くに座り、祖母にならって静かに叔父を見つめた。

そうして叔父は会場に運び込まれ、私達はセルフのコーヒーをいただき、時間を過ごした。

長いような、短いような、そうしてまた会場で静かに待つのだ。


従兄がお辞儀をし、焼香を始め、また一人と焼香をしていく。

従兄、叔母、従姉、祖母、伯父、父、私。

今日も沢山の人が来ていた。

そこ流れるのはタイガースの曲という、滑稽なものであったが。

それも叔父は喜ぶんだろうなと思い直して、焼香が終わるのを待つ。


叔母は泣いていた、従姉も泣いていた。

祖母は下を向き、ずっとお辞儀をして、立っていた伯父達もお辞儀をしていた。

そして花を棺に入れることとなる。

沢山の人々が悲しみ、嘆き、叔母や従姉の肩を抱いた。

花を入れる際、行列ができていた。

わたしは早急に花を入れ、少し離れて見ていた。


昨日もそうだが、手が、震えるのだ。

死体を見ると、震えが止まらないのだ。

何が怖いのか、分からなかったがとにかく怖かったのだろう。

昨日それに気づき、手を握ってくれた父は、泣いていた。

泣いていたから、私は泣かなかった。

私には泣く資格などなく、泣き崩れている叔母を前にして、私が泣いていいわけがないのだと。


涙は何のためにあるのだろうか。

叔母は叔父にすがりつき、膝から泣き崩れ、声を上げて泣いていた、嘆き叫んでいた。

なんて醜態、私にはできない、やるべきではないと、心配をかけてどうするのだと、傍観していた。

泣いているのは血縁者と、仲の良かった友人知人だけ。

涙は、悲しみの量ではなく、何なのかと改めて思った。


各自車で斎場を出、まだ新しい火葬場へと向かう。

高い、10メートルはあろうかという天井を見、整えられた場所で改めて焼香をした。

そうして叔父は熱された場所へと入れられる。

それを見届け、そそくさと火葬場から出て、叔母たちを待っていたのだが。

とても離れられる状況ではなかった。

叔母は一人で立てず、おえつを漏らし、離れようとしなかった。

それを支えていたのは叔母の弟と、その嫁である。

私たち叔父の血縁者が出る幕など、なかった。


叔母を残し、一足先に式場へと戻り、お昼ご飯を食べる。

が、祖母は叔母が来るまでずっと待ち続けていた。

嫌でもわかるのだろう、夫を亡くす妻の気持ちが。

結局、叔母は睡眠不足の為、待合室で眠っているとのことで、食事を始めた。


そして火葬され、骨になった叔父との対面だ。

火力が強いのだろう、母の時よりも、跡形もなくなっていた。

骨壺に骨を納め、そのまま寺へと向かう。

初七日を葬儀の日に一緒にしてしまい、その日はそうして終わることになった。


祖母は、叔父の仏壇回収…もとい、経典を回収するために再度家へよると言っていたが、私達は一足先にお暇することになって。

帰り際、寺の前で「来てくれてありがとう」と、父に言う従兄は疲れ切っていて。

父は何事かを従兄に言っていた。

そうして帰るとき「皐月もありがとうな」と言われて送り出される。

従兄の隣には彼女さんが居る、きっと大丈夫だと信じて。

私は頭を下げて、その場を後にした。


泣かないと決めていたけれど、帰りの車では涙が出た。

それを見ても父は黙っていた。

その父に胸中を打ち明ける。

「こんなに落ち込むとか思ってなかったんやけど」

私の世界には父と母と、友人と、過去の友人達で、できていると思っていた。

でもそれは違っていて。

叔父も、きちんと私の世界の一部だったのだと。

親戚で、一番大好きな人だったのだと。


でも、叔父が私にとってどれだけ大切な人だったのだとしても。

叔母さんや従姉の前で、泣くわけにはいかないのだと。

言いながら、泣いていた。


最後に会ったのは今年の正月だ。叔父にお年玉をもらい、ミカンをもらい、他愛ない会話をした。

「皐月でかなったなあ」と決まり文句を言う叔父の声を覚えている。

「またなぁ」といつもの別れの挨拶をしたのが最後になるなんて。

母の日にも、祖母の家に来ていたらしいが、あいにく時間が合わず、私達が祖母の家に行ったときにはもう帰っていたのだと祖母から聞いた。


なんてタイミングの悪い。

けれど、 会わなくて良かったのかも知れない。

訃報を聞く3日前に会っていたなら、もっと私は悲しむことになっただろうから。

そんなことを父に話していた。


私達の日常にいつも叔父がいたわけではない。

だから、私達の生活は変わらないし、何事もなかったかのようにまた日々を過ごしていくのだろう。

けれど、叔母さんや従兄姉は、違う。

毎日顔を合わせていた人が、居なくなるのだ。

それは慣れるまで、毎日、毎日、帰って来ないのだと気づかされることで。

あの頃の私と同じにならなければいいと、思った。

学生ではないのだから、仕事が救いになればいいと思った。


しかーし、叔母さんにはむかついた。

叔母の父親は一人で墓に入っているらしく、一緒に叔父を納めたいのだと言う。

そんな馬鹿な話があってたまるか。

お墓はあるのだ。

祖父のお墓が有るのだ。

長男の息子である従弟が継がなければならないが、離婚している。

だから自動的に次男の息子である従兄が祖父の墓を継がなければならないのだ。

長女の娘の私では墓は継げないし、うちには父が建てた墓があり、苗字も違う。

それなのに、家から近くの寺にある墓に納めたいと言う叔母、なんて考えなしなのだろう。

だから父と従兄がその件について話し合うことになるのだ。


「おかんがああ言うんやから、墓を作ってやりたい」と、従兄も言う。

本当に甘い従兄だ、いづれ伯父が亡くなれば、母の墓と、祖父の墓を継ぐことになるのだろう。

きっと統合することになる。

他の市へは移されたくないという意思は、きっと叶わないのだろう。

祖父の墓が、うちの墓の隣の墓地にある私がなんとかできれば、良いのだが。

婿養子でもとってこの地に安住しない限り、無理な話だ。

課題は山ずみ。

私が生きている限り、ここのお墓は継がずとも守り続ければいいのだと。

そういうことで話は途切れた。

血縁でない親戚



慌ただしく仕度を整え、スーツを身にまとい。

うちの車で、祖母と伯父を乗せて叔父の家へ向かう。

府営住宅の5階、そこが叔父宅だった。


犬を散歩させていた従姉と会い、共にエレベーターで登り、長い長い廊下を歩く。

私には声を掛けることができなかった。

そのまま扉を開けて、部屋へと入っていく。

部屋には、たくさんの…叔母さんの親戚がいた。

軽く会釈し、父の挨拶を待つ。


横たわる体に、錯覚を起こす。

重なるのだ、母と。

叔父は、どの血縁者よりも母によく似ていたから。

その叔父の頬に触れる父に、苛立った。

そう気安く死体に触れるものではないと、血の繋がらないあなたは何をしているのだと、醜い思考が渦巻く。

私はぼうっとそれを眺めていた。


「みたってな」

従兄が言う。

私は頷き、側に寄って眺めた。

触りたかった、けれど、同時にすごく怖かったのだ。

母は、病院の母はまだ温かかったけれど、もう叔父は冷たいのだ。

そして姪の私なんかがおこがましいと、ただ見ているばかりだった。

今更、涙が出てきて止まらなかった。

ああもう、叔父が私に笑いかけることは無いのだと。


リビングの椅子に腰かけ、あとは黙って叔父の体を見ていた。

どうなる訳でもないのだが、ただ、少し離れた場所からずっと見ていた。

祖母も、静かに叔父を眺めていた。

明らかに泣きながら付き添っていた母の時とは違う、祖母の対応が不思議だった。

結局それは、叔母の親戚が10人くらい居てべらべらと喋り、叔母もべらべらと喋っていたからだ。

所詮、叔母方の親戚は他人だ、血は繋がっていない。

平常心を保とうとしているのだろうが、悲しみなど、薄いのだろうと。


だって従姉は叔父の側に居たし、後に叔母は泣いていたから。

従兄が喪主をつとめるので手配に忙しく、余裕を持てていなかった。

けれどその目は赤く腫れていたから。


叔母方の姪と甥も来ていたのだが、いかんせん乳幼児なものだから、騒がしいのなんの。

連れてくるなという話な訳で。

叔母の友達一家も来ていたけれど、その娘息子は、私と同じく静かにしていた。

泣いてはいなかったけれど、じっと叔父を見つめる姿に、大分世話になったのだということが理解できた。

そんな感じに時間は流れてゆき、ふと、声を掛けられる。

「皐月ちゃんやんな?」

叔母の友人のおばさんだった。

「今大学生?何学科?先生になるの?」

そんなどうでもいい質問に受け答えし、時間となる。


今日の手伝い、棺の運び出しの為に、父が呼ばれたのだ。

実際は叔母の親戚で事足りていたのだが、血縁者である私達には来てもらいたかったらしい。

まあ、父は血が繋がってはいないのだけれど。

こちら側の親戚は、祖母と伯父、父と私だけだ。

叔父の伯父は2人共入院中だし、いとこは、借金作って金貸してくれというような奴だ。

それに費用もかかるだろうからと、祖母は他の血縁者を呼ばなかった。

実のところ、私たちも呼ぶ予定はなかったそうなのだが。

母は亡くなっているしね、にしても毎年交流があるのだし、姪なのだから連絡してくれたらしかった。


仮にも3等身なのだから、呼んでくれないと困る。

というより、個人的にいつもいつも話しかけてくれた人だから葬儀は出たかった。


式場に行き、通夜までただ時間を過ごす。

そこで叔父の死の詳細を聞いた。

少し外している間に、父は従兄から死の詳細を聞いていたようだった。

それを、それを伯父祖母だけでなく、親戚がいる中で軽々しく話すのだ。

言いふらすために従兄が話したのではないだろうと、諌めたかったが祖母の手前できなかった。


叔父は……

トラックの運転手をしていたらしい。

何トンもあるバターの塊を深夜3時から積み替え、運ぶというものだ。

通常なら、バターの塊に安全の為紐を掛けて積み替えるらしいのだが、叔父はそれをしなかった。

そのまま積み替えようとした矢先、バターの塊が目の前から叔父に向かって降り注ぎ、圧迫されることになる。

逃げれば良かったのだが、バターに傷がつくと勿論商品にならない。

その為に落下を避けようとして支え、下敷きになり窒息したのだと推測される。

しかし、積み替え開始時間が3時からなのに対して、叔父が見つかったのは11時であった。

とすれば、それまで生きていたかもしれないし、そうでないかもしれない。

今となってはどっちにしろ手遅れなのだが、前者の場合、叔父は酷く苦しんだことになる。


そうだとか問答をする父と親戚に腹が立った。

情報は有り難いのだが、過ぎてしまったことをどうこう言うのは違う気がする。

死は侵されてはならないのだ。

最後には結局「死」に収まるのなら、何を言おうが、後の祭りなのだ。


通夜が始まるまで、伯父と祖母は会場にいた。

待合室に叔母方の親戚がごった返していることもあり、ずっと。

生けられた花は、叔父が愛したタイガースのマークをかたどっている。

なんて、奇抜で不快な、通夜会場だろうか。

叔父の宗教は創価学会、譲歩しても日蓮正宗だ。

家にあった叔父の仏壇は祖母が回収し、処分することになり。

葬儀も日蓮正宗では行われなかった、日蓮宗だった。


なんて、わがままな叔母なのだろう。

いや翌日に分かることは翌日に記載しよう。

それより、遠い親戚のおばさんたちの話がやけに鼻についた。

「あんなに優しいこやったのに」
「うん、まだ若いのに」
「事故ってまた何で」
「私が代わりになればよかったものを」

優しいから何だというの。
死は平等であるはずだ。

50で若いなら母はどうなるの、子供のうちに亡くなっていく人は?
起きたものはしょうがなく、過去は変わらないのにいつまでうだうだ言っているの。

自分が代わりに〜なんて、従兄姉の前では絶対に言わないでほしい。
私が母の死の時に傷ついた言葉だから、あまりに周りが言うものだから、まだ幼かった私が父に対して口にしてしまった言葉だから。

神経が擦り切れそうだった、従兄は、従姉は、大丈夫だろうか。


そうして通夜が始まる前、近しい親族の座る・立ち挨拶をする場所へ、父も呼ばれた。

血縁でなくとも2等身だからだ、だから実質、親戚席では私が一番最初に焼香することとなった。

こんなに大勢いるのに血が繋がっていないと思うと、気分が悪くなった。

これではまるで、叔父が叔母の元へ養子に行ったようなものではないか。

焼香には、叔父の会社の社長と、取引相手の上役、同僚などがたくさん来ていた。

他にも叔母、従兄姉の友人知人、仕事関係者、ざっと60人以上は来ていた様に思う。


また、だ。

またさわがしい通夜だ。

そして通夜ぶるまいをいただき、私たちは帰宅することになった。

祖母と伯父は残ったが、叔母の親戚が10人以上残るのだ。

寝る場所も無く、帰ることとなった。

そうして1日が終わる。


思い出すのは母の通夜の日。

叔父さん一家は泊まり込みで母をみてくれた。

主に祖母が、だが。

側に居てくれたのだ。

死体に語りかけてもどうしようもないが、その時は泊まってくれても何とも思わなかったが。

今なら心強かったのかなと思う。

私は疲れて待合室で3時から眠っていたのを覚えている、ああ、嫌な記憶だ。

同じようには静かな夜を過ごせないであろう叔母の親戚を思って。

それでいいのかと思ったが、何も潮らしくする必要もないかと思い直した。


いつもは話す車内だが、夜道を走る車の音が嫌に耳についた、帰路だった。

落ち着かない壱日



お通夜の日程とか、まだ聞いていなかったのでそわそわした1日を送る。


実はしばらく学校へも行っていなかったのだが。

そろそろ出席日数が危ないから行かなきゃな、と思っていた矢先に起こったことなので。

勿論こんな気持ちのまま学校へ行ける訳もなく。

言い訳だと分かっていても、やはり何の元気も出ず行けなかったのだ。


先日…でもないが、4月にクリーニングに出したスーツを取り出し。

ここ半年で2度葬儀へ参列したものの、黒い中着を持っていなかった為購入した黒の半そでを出す。

そして、履きなれた黒タイツを出し並べて。

思った、厄年かと。


年内…ではなく、過去半年に参列したのは2度だ。

今年に入ってからは今回で2度目だが、私の年齢の割には多いかも知れない。

私が年子だからかと思う、たぶんそうだ。


しかし、母の家系は不幸である。

一概に幸福な人なんて居やしないが、やはり何かしら不運なのだ。

100歳まで生きて私の孫を見ると言っていた祖父は、64歳でガンで亡くなり。

伯父(母の兄)は、子供ができてから妻と床を一緒にすることなく(鍵をかけられ部屋に入れない)、妻の母親の借金のせいで離婚。

元々、伯父が妻を好きになり結婚に至ったのだが、塗装店の社長だった祖父が、結婚の際に妻の母親の借金を肩代わりして返済をしたという。

いわば政略結婚的?契約結婚的?な結婚だったらしい。

それもどうかと思うのだが、何より借金返済後の話だ。

再び妻の母親は借金を重ね、妻は専業主婦なのに伯父の給料から母親へお金を送っていたらしい。

それが離婚の原因であった。

その頃には既に祖父は亡くなっていて、結構な生命保険がおりてきていたこともあり。

食いつぶされる心配をした祖母が、離婚する様にと言ったのだという。

まあ現実、離婚していなかったなら破産していたに違いはなく。

なんとも嘘くさい結婚談…いや離婚談だ。


しかしそれもよくあることだと達観すれば、本当の伯父の不幸は、唯一の親友の死だろう。

伯父の親友は自らの手で命を絶ち、既にこの世には居ない。

伯父の親友然り、妹、弟もまた帰っては来ないのだ。


友人関係で言うなら、私の母の仲の良い友人だ、2人いた。

中でも一番の親友は結核にかかり、もう一人は夫の家庭内暴力で精神を病んで病院へと入れられてしまった。

私に移ることを恐れ、結核の親友の元へはいかなくなってしまい。

入院させられてしまった友人の為には、薬の成分を調べたりお題目をあげたり、見舞いに行ったり。

私は認知していなかったが、夫の元へも出向いて離婚を促していたのだと思う。

友人の為に奔走する母が記憶に残っている。

その母は44歳で高血圧の為、心筋梗塞をおこし、帰らぬ人となった。


そして今回の叔父(母の弟)だ。

叔父は…料理人、家具屋、運転手など、職業を転々としていただけで、目立った不運はないように見えた。

しいていうなら、嫁さんの親戚に介護が必要な人がいたので、人のいい叔父が面倒をみていたことぐらいか。

そう思っていたのに。

病気でもなく、仕事中の事故で知らぬ間に、だ。

50歳、子供は24と26歳。


このドラマの様な人生を送った人の血が、私にも流れているのだ。

気にしすぎだとしても、よくあることだと笑えないのが現実だ。

考え出すときりがない。

父は祖父が家にお金を入れないせいで、小学校を2度転校し、中卒で相撲部屋に入れられた。

それから祖父が亡くなり、父は左官職人になり、祖母(母)を養うことになる。


もう何が『普通』なのか、分からない。

今日はそんなことを思っていた。


帰宅した父に通夜は今日かと聞くと、明日だと返され、詳細が分からないので祖母の家へ行くことになった。

祖母の落ち込み様から、電話での会話があまり成立しなかったのだろう。

祖母の家へ行くのは日曜日、母の日以来だ。

そこでだいたいの話を聞くことができた。


伯父に対して「びっくりしました」と、まず話を切り出した父を憎く思った。

びっくりしたのは伯父達であって、私達が繰り返して言うことではないと思ったからだ。

そんなことは意にも介さず、伯父は弱音や泣き言を一切言わないまま、情報だけを正確に伝えてくれた。

今は荷物を運ぶ仕事をしていて、上から何トンとある荷物に押しつぶされたのだと。

その時点で想像したのはクレーンで吊り下げられた荷物が落下する光景だが、後に違う詳細を聞くことになる。


やっぱり祖母は泣いていた。

私はといえば、涙ひとつでない、出せない。

「お母さんも亡くなって、○○(叔父)もや、なあ皐月」

そう私に力なく言う祖母の言葉が耳に残っている。


明日のお昼に叔父の家へ手伝いに行くことになり、帰宅に至った。


叔父はもう居ないのに、体なんて『叔父だったもの』でしかないのにと、行くのが億劫だった。

葬儀は生者の為に執り行われるのであって、死者には意味がないのだと。

毒づいて考えていたが、翌日にはそうもいっていられなくなる。


凶報



今はもう8月だが。

そろそろ忘れてしまいそうなので、順次書き残していくことにする。


知らせを受けたのは夜だった。


その日も私は、アッキーとまったり部屋で遊んでいた。

父がただならぬ様子で声を上げていたので、キッチンへ向かい、電話の様子を窺う。

電話内容は訃報らしかった。

祖母の兄が丁度入院中だったので、そうだろうと思い込み父の受け答えをで聞いていた。

「えっ、ほんまですか」

そのようなことを呟いたので、携帯の側に寄ったが内容が聞こえるはずもなく。

結局電話が終わるまで私は待っていた。


父「皐月、大変や」

私「○○のおっちゃん(祖母の兄)やろ?」

父「○○のにいちゃん(叔父)や」

私「…………そっちか、やっぱりな」

その時は意外と落ち着いていた。


叔父…母の弟は、心臓関係で一度倒れ、少しの間入院していたこともあり、可能性があったからだ。

父「ちゃうんや」

私「え?」

父「事故で亡くなったって」

私「は……?事故?…はあ?」

父「はさまれてって」

その時浮かんだのは、車の衝突事故だ。

後に違うことが分かるが、その時はそんなことなんて問題ではなかった。

私「いつ」

父「朝やって」

叔母が病院に駆け付けた時には、すでに意識がなかったこと。

病院の場所、祖母も病院へ向かったこと、叔母が取り乱して泣きじゃくっていたこと。

知らせはしたが今日は来なくていいとのこと。

電話で聞いた内容はそれだけだったらしい。


私「……誕生日の翌日に、か」

昨日の自分の誕生日は何気なく過ぎていき、変わらない日常を送っていたのに。

なんて皮肉、何で事故。

なんで、どうして母の…弟?

なんでどうしてばかりが頭に浮かび、それを払拭する様に論理的解釈を口に出してゆく。

年に数回しか会わないから、亡くなっても私たちの日常は変わらないこと。

悲しんでも無意味で、死人は還って来ないこと。

私たちに出来ることはないこと。

つらつらと文句のように短時間で父に言葉を並べて、再びアッキーの元へと戻る。

私には関係のないことだと割り切って。


いつもより少し落ち込んだ顔で、何故急にキッチンへ行ったのかアッキーにも知らせた。

そうしてそのまま1時間ほど一緒にまったり過ごし、別れた。

今思うと、アッキーがいたから外面的には冷静でいられたのだと思う。

いなかったら、私はきっと自分を落ち着かせる為に、あのまま結構な時間を解釈に当てていたことだろう。


いろいろ、

ああ母が亡くなった時間だとか、明日通夜はあるのかだとか、いとこ達は大丈夫だろうかとか、祖母はまたかなしむだろうなとかを考えていただけで。

私の今日という日は、変わりなく終わったのだ。

そう、行動的に全く変わりなく、それがまた私の胸を苦しめた。


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