「…という訳なんです、木暮さんどう思いますか?」
「あはははっ、そりゃノブ先生も災難だったねー」

木暮さん、というのは信長と同じ保育園で働いている保育士である。週に一、二度の割合でこの店に来て夕飯を食っていく彼は、信長の事を「ノブ先生」と呼んでいる。

「そう言や今日、ノブ先生すごい愚痴ってたなあ。ほんとの事言っただけなのに、神さんに頭はたかれたーって」

木暮さんはいかにもおかしそうに笑うと、掛けていた眼鏡を外してハンカチで拭い始めた。そんな彼の前に、ナポリタンの皿とアイスティーのグラスを置いた俺が軽く舌打ちしてみせる。

「あれは信長が悪いんですよ…」
「あとね、自分の先輩が自業自得とは言え、得体の知れない男にイカレてるのを見るのは忍びないとも言ってたっけな」
「あいつ、そんな事言ってたんですか?!あー、やっぱりもう一発殴っとくんだった…」

しかも、確か昨日は「素性の知れない男」という表現だったのが、一夜明けたら「得体の知れない男」呼ばわりに変わっているのが非常に気に食わない。つい押し黙ってしまった俺を見やり、眼鏡を掛け直した木暮さんがおもむろに口を開く。

「実は俺、牧のこと知ってるんだよね」
「えっ、そうなんですか?初耳ですけど…」
「直接の知り合いって訳じゃないからね。牧が通ってた高校に俺の友達が行ってて―――実は、ちょっとした噂があるんだ」

これは、ノブ先生にも話してないんだけど…と木暮さんは言葉を切り、ほんの少しためらうような素振りを見せた。良くない噂であろうというのは想像に難くなかったが、俺は木暮さんに向かって目配せする事で先を促した。何を聞いたとしても、牧さんが俺にとって特別な存在である事に変わりはないからだ。そんな俺の決意を汲み取ってくれたらしい木暮さんが、視線を宙に走らせながら語り始める。

「当時、牧は…もう15年ぐらい前になるかな、高校生の時の話ね。めちゃくちゃ強豪のバスケ部のエースで、一年の時から既に高校バスケット界では頭角を現していたんだ」
「バスケ…」

ふと思い出した事がある。牧さんが初めてこの店でコーヒーを淹れてくれた日に、牧さんが俺をまじまじと見つめながら「けっこう身長あるみたいだけど、何かスポーツやってた?」と尋ねてきたのだ。
牧さんの指摘通り、俺は割合と背が高くて189センチあるのだが、特にスポーツなどの経験はなかった。そう告げると、牧さんはひどく残念そうに「そっか…何かもったいねえなあ、そんだけタッパあるのに」と呟いたのだが、あれはそういう意味だったんだなと今となっては納得がいく。

「実は俺もバスケやってたんだけど、うちの高校のバスケ部は予選一回戦負けの弱小チームだったからね。牧は俺の事なんか知らないんじゃないかな」
「木暮さんもバスケやってたんですか?何か意外…」
「うん、みんなに言われるよ。でも俺でさえバスケやってたのに、神が何もしてなかったっていう方が俺にとっては意外だったけどね」

そこで木暮さんはフォークを取り上げ、オレンジ色のパスタをくるくると巻きつけ始めた。俺が学生時代にスポーツに縁がなかったのは、両親を早くに亡くしてそれどころではなかったからであるが、その辺の話については今は割愛する。

「…まあ俺の事はさておき、牧の高校は今も言った通り強豪校で強い選手がいっぱいいたんだけど、そんな中で一年生にしてレギュラーの座を勝ち取った上に、デビュー戦から次々と当時の記録を塗り替えていくスーパールーキーだったんだ。いやー、びっくりしたよね。同じ高校生とは思えないぐらいだった」
「……」

木暮さんは珍しく饒舌で、部外者の俺でさえ、当時の牧さんの凄さというものがひしひしと感じられるようだった。一度でいいからその、「スーパールーキーの牧さん」を拝みたかった気もする。

「でも、そんな牧の活躍を良く思わない先輩もいたみたいで…けっこうな嫌がらせも受けてたらしいんだよね。その中でも特に牧を目の敵にしてる先輩がいたとかで、さすがの牧もうんざりしてたって俺の友達から聞いたけど」
「あー…やっぱあるんですねそういうの、どこの世界にも」
「まあね、それでなくても牧は目立ってたから」

木暮さんが、まるで飴玉のようにフォークに絡みついたパスタを口に運んで咀嚼する。甘いケチャップの匂いが空腹中枢を刺激し、俺も自分の夕飯はナポリタンにしようかな、などと緊張感のない事に頭を巡らせた。が、その他愛もない思考は次の瞬間に凍りつく。

「それから何ヶ月か経った後、その先輩―――牧に対して一番当たりの強かった先輩が、学校の屋上で血まみれになって発見されたんだ」
「えっ…!」

頓狂な声を発してしまってから、慌てて店内を見回す。幸い木暮さん以外に客はなく、俺はそっと胸を撫で下ろした。そんな血生臭い展開が待ち受けているとは…まさか、牧さんの仕業だとでも言うのだろうか。俺の動揺をよそに、木暮さんは柔和な態度を崩さないまま首を横に振ってみせる。

「大丈夫だよ。腹やら胸やらナイフで刺されてはいたけど、一命は取り留めたから。あと牧は、ちょうどその時間帯―――昼飯時だったらしいけど、音楽室にいたんだって」
「音楽室?」
「ぶっちゃけると牧はその頃、音楽の先生と付き合ってたって話なんだよね。事件が起きた時間に、牧が音楽室から出てくるのを何人かが目撃していたみたい」
「じゃあ、アリバイは証明されたんですねっ?」

俺は勢い込んで木暮さんに詰め寄った。「顔、すっごい怖いんだけど」と木暮さんに噴き出され、込み上げる恥ずかしさと決まり悪さに目を伏せてしまう。

「一応、そういう事になるのかな。もちろん、ある程度の事情聴取はされたかも知れないけど」
「でも木暮さん、さっき『ちょっとした噂がある』って言ってましたよね?それはやっぱり、牧さんがその先輩って人を…」
「刺したんじゃないかって?んー、面と向かって言う奴はいないけどね。むしろ、牧に対する同情の方が多いぐらいだから…」
「その先輩は、自分が刺された状況について何て言ってたんですか?」

俺が素朴な疑問を投げかけると、それがねえ、と木暮さんは腕組みの姿勢で体を反らせ、天井を仰ぐ。

「刺された瞬間の事は全く覚えていなくて、気づいたら血まみれになって屋上で寝っ転がってたって」
「不可解ですね…」

ますます訳がわからない。その先輩は、牧さんを快く思っていなかった(むしろ憎しみさえ覚えていた?)のだから、真実であろうとなかろうと「牧さんに刺された」と証言してしまえばいいだけの話だ。それをしなかったのはなけなしの良心が働いたのか、はたまた別の理由による物なのか。

「結局、その先輩は事件直後にバスケ部を辞めて、牧に反発する勢力もすっかり消滅したって事なんだけど」
「そうですか…」
「マスターは大丈夫?」

不意に矛先を向けられ、声にならない声で応じる。木暮さんの意図は大方見当がついたものの、わざと気づかないふりで「何がですか?」と返した。やや重苦しくなった空気の中、木暮さんが予想通りの問い掛けを繰り出す。

「そんな、人を刺したかも知れない奴を好きになったりなんかして」
「木暮さんは疑ってるんですね、牧さんの事…」
「そりゃあ、可能性はゼロではないからね。でも俺は所詮、部外者だから何とも言えないけど」

その後に付け足された、「ごめんね」という一言がひっそりと胸を打つ。木暮さんが心配してくれているのは痛いほど伝わってきた。それでも俺は、牧さんに惹かれていく自分を止める事は出来なかった。理由はわからないし、理屈で説明できる感情でもない。木暮さんはそれきり口を閉ざし、湯気の収まったナポリタンを消費する事に神経を集中し始めた。あの話さえなければ、いつもと何ら変わりのない夕刻の風景、という感じではあった。





木暮さんが帰って行き、入れ違いに何人かの客が来店してからはパタリと客足が途絶えた。今日は信長も顔を出さないようだし、この辺でそろそろ店じまいかな…と顔を上げた俺が全身を硬直させる。扉が開き、昨夜と同じように姿を現したのが牧さんだった。普段なら自然と顔が緩む所なのに、さすがにあんな話を聞いてしまった後では、強張ったままの頬は1ミリたりとも動かない。

「悪い、もう閉店の時間か?」
「…いえ、まだ大丈夫ですよ。牧さんは梅昆布茶ですか?」
「そうだな…別に他の物でもいいんだけど、ここに来ると不思議とそれしか思い浮かばねえわ」

何でだろうな、とうっすらと微笑まれる。そんな禅問答的な事を仕掛けられても、俺などに牧さんの頭の中が読み取れるはずもなかった。疲れているから酸味の効いた物が欲しくなるのだろうか、などといった通り一遍の解答しか導き出せない。

「今日、この店に木暮来ただろ?」

牧さんに背を向けて梅昆布茶の準備を始めた俺は、危うく手のひらから湯呑みを取り落とす所であった。何で―――背筋をゾクリと震わせながら振り返った俺と、コートを脱いでスツールに腰掛けた牧さんの視線がかち合う。

「牧さん、木暮さんのこと知ってたんですか?」
「面識はねえけどな。高校ん時の友達の友達が木暮で、学校は違うけどお互いバスケやってたから」
「……」

木暮さん、思いっきり面割れてますけど―――危うく口からこぼれ落ちそうになったセリフを飲み込む。汗ばみ、上手く動かせない手を何とか駆使して梅昆布茶を淹れ、「どうぞ」と言って牧さんに差し出す。何だか俺も喉がカラカラだったので、ついでに自分のマグカップにも梅昆布茶を注ぎ入れた。

「木暮から聞いたか?俺の話」

梅昆布茶なんて久しぶりだな、と奇妙な感慨に浸りながら一口啜った所でむせそうになる。とても、「何の話ですか?」などとしらばっくれるような雰囲気ではなかった。空咳をしながら牧さんを窺うと、鋭い眼差しをしているとばかり思っていたその顔は意外に穏やかで、むしろ楽しげですらあった。

「あー…ええ、まあ何となく…」

何となくどころか「がっつり聞いてしまった」のだが、とても本当の事は言えない。ましてや、牧さんが木暮さんに疑惑をかけられているなんて事は―――しかし、案の定そんなのはとっくにお見通しのようで、「昔の話だけどな」と一笑に付される。

「お前はどう思う?」
「どう…って?」
「俺が本当に、当時の…先輩を刺したかどうかっていう話」

つくづく、返答に困るような質問を立て続けに浴びせられている。もしくは試されているのだろうか?牧さんがそのような所業を犯した人間だったとして、それでも牧さんと店をやりたいと望むのか。それ以上に、牧さんと一緒にいたいと願えるのか―――それならば、俺の腹の内はとうに決まっている。

「わかりません、俺は話を聞いただけだし、当事者でも何でもないから…でも一つだけ言えるのは、そんな些細な事では俺の気持ちは変わらないです」
「神」
「俺はただ、牧さんと一緒にいたいだけだから。過去に何があったかなんて俺には関係ないし、どうだっていい。俺はあなたの事が…」
「神、好きだ」

ガタン、と立ち上がった牧さんがスツールに片膝を載せ、その半身をのし掛からせる。カウンター越しに顔が近寄せられ、触れるだけのキスを施された。

「明日から仕事で、一週間ぐらいはここに来れない」
「えっ…」
「上手くいきゃ一週間以内で終わるか、それ以上かかっちまうかな…でも、それが本当に最後だから。終わったら必ずここに戻る」

それまで待っててな、と念を押され、黙って頷く以外になかった。俺が断れないのを見越した上での言葉であるのは明らかで、そこはずるいとしか言いようがない。あるいはこれが、大人の駆け引きという物なのか。

「ずるいです、牧さん。俺が断れないってわかってるくせに…」
「ごめん。けど、帰る場所があるって思わないと踏ん切りがつかねえから」
「珍しいですね、牧さんがそんなに迷ってるの」
「そうだな、今回はちょっと長旅になるから。心配なのは…」

大きな手のひらで、ぐしゃぐしゃと頭を掻き撫でられる。地肌に触れられる感覚が心地よくて、いつまでもそうされていたかった。

「俺がいない間、お前が朝、ちゃんと起きれるかどうかって事なんだけど」
「それは…すみません、マジで自信ないかも…」
「毎朝、電話でもしてやれればいいんだけど、電波の届かない場所に行っちまうからな」
「そんな辺鄙な所へ?」

いったい何をしに行くのか。喉元まで出掛かっている疑問だけは、どうしてもぶつける事が出来なかった。どうせ聞いても教えてくれないだろうし、今それを聞くべきではないような気もした。時期が来たら教えてくれるはず、というささやかな期待を抱くのは間違っているだろうか。

「朝起きられなくても、飯だけはちゃんと食えよ」

牧さんの唇が、その骨張った指で露わにされた額に押し当てられ、離れていく。ある種の浮遊感で足元を掬われそうになっている間にも牧さんの身支度は整えられ、我に返った時には所定の金額分の硬貨が湯呑みのそばに添えられていた。

「じゃ、また一週間後な。体調にはくれぐれも気をつけろよ。あと―――」
「何ですか?」

その場に立ち尽くす俺を、牧さんの薄茶色の瞳が射抜く。丸裸にされるような錯覚と妄想で、俺の理性はどうにかなってしまいそうだった。そんな窮地を知ってか知らずか、牧さんは淡々とした口調で次のように述べた。

「もしかしたら、俺のいない間に武藤って奴がこの店に来るかも知れない。悪いけど、適当にあしらっといて」
「武藤さん、ですか?」
「マジで適当でいいからな?気遣いとかは全く必要ねえから」
「はあ…」

深々とため息をついた牧さんが店を去り、辺りは再び静寂に取り囲まれた。牧さんが「武藤」と言った時の、どこか鬱陶しげな表情が引っかかったが思い過ごしかも知れない。そんな事より一週間という期間は長すぎる。牧さんが不在の間、俺は滞りなく店を開ける事が出来るのだろうか。

悩んでも仕方ないので、とりあえず閉店の準備をするためにカウンターの外へ出る。牧さんが座っていたスツールの下に、何やら小さくて四角い紙が落ちているのが目に留まった。身を屈めて拾い上げると、それはカードのようであった。恐らくはトランプとか、そういった類の…何気なく裏返した俺は、視界に飛び込んできた物に絶句せざるを得なかった。

「何これ…」

そこに描かれていたのは、何とも不吉な絵柄だった。甲冑を身に纏った髑髏が、白い馬に跨がって黒い旗を掲げている―――本来ならこの手の「非現実な世界」にはまるで興味がなく、知識も持ち合わせていない。だが、その絵がもたらす冷酷なまでの禍々しさは、とても常人が堪えうる代物ではないように思われた。





「眠っているのなら(3)」に続く→(coming soon!)