喫茶店を営む俺の朝は早い―――と言いたい所だが、実際にはそれほどでもない。俺の朝はたいてい、店の常連客である牧さんに起こされる事で始まるのが通例だった。

「何で客の俺が起こさなくちゃいけねえんだ、店主のお前を」

勝手知ったる何とやら、で二階部分のプライベートルームまで上がってきた牧さんに呆れられる。ちなみに牧さんには、既に合い鍵まで渡してしまっている。俺がのろのろとベッドの上で半身を起こすと、仕方ねえな、と呟いた牧さんがバスタオルを投げて寄越した。

「そのボサボサ頭と寝ぼけたツラを何とかしろ。コーヒー淹れといてやるから」

そう言って身を翻し、足早に階段を下りていく音が耳に心地よく届く。俺は、誰もいなくなった部屋で涙が溢れ出るほどの欠伸をかまし、居心地の良い布団の世界をゆっくりと抜け出した。





しっかり30分ほど風呂に浸かってから浴室を出ると、キッチンから漂うコーヒーの香りが鼻先を掠めた。喫茶店を始めて半年ほどが経つが、未だにコーヒーだけは自分が納得のいく味に仕上げられない。牧さんが淹れた方がよほど美味しいので、毎朝俺を起こしに来るついでにコーヒーを豆から挽いてもらっている次第だった。その代わり牧さんには、朝飯を無償で提供しているので持ちつ持たれつといった所か。

「神、お前さー…少しは練習してんのか?」

ドリップケトルを傾け、注意深く湯を注ぎ終えた牧さんが顔を上げる。生乾きの髪のまま、冷蔵庫から卵やベーコンを取り出した俺は曖昧に首を捻ってみせた。

「練習って?」
「だから、コーヒーを淹れる練習っつーの?上手く淹れられるようになったら、メニューに載せるって言ってなかったっけ」
「あー、それは…多分無理です、牧さんの味を超えられないから」
「おいおい」

しっかりしろよ、と背中を強めに叩かれる。俺はわざと大げさに痛がってみせながら、フィルターの中で湯を含んで膨れ上がっているコーヒーの粉末に目を走らせた。それは俺だって、普通に家で楽しむ程度のコーヒーなら問題なく淹れられるとは思う。しかし、金が貰えるレベルかどうかというのはまた別の話だ。

「だから、コーヒーに関しては牧さんに権利を譲りますから…卵、目玉焼きにしますか?それともスクランブルエッグ?」
「ああ、じゃあ目玉焼きで…権利って?」

怪訝そうに牧さんが尋ね返す。眉間には縦皺が刻まれ、さらに言葉を継ぎ足す事をためらわれるような空気を与えていた。しかし俺は構わずに先を続ける。

「だからね、もう牧さんが俺と一緒に店やればいいと思うんですよね。それで牧さんがコーヒー担当で、俺が紅茶とか軽食担当で」
「またその話か…」

牧さんが深々とため息をつくのも無理はなく、俺はこの話をほぼ毎日のように牧さんに持ちかけていた。だが、俺だってそう簡単には引き下がれない。俺にとって牧さんのコーヒーこそが理想形なのだから、そんな逸材をみすみす逃す訳にはいかないのだった。

そもそも牧さんとの出会いは半年前、俺が喫茶店を開店してから二日ほど経った日まで遡る。彼がドアを開けると、一陣の風も入り込んできて俺の前髪を軽く揺らした。店内の客が注目する中、男はつかつかとカウンターに歩み寄ってスツールにドカリと腰掛ける。そしてメニューも見ずに「グァテマラ」と告げたので、俺は途端に申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。

「すみません、うちコーヒー置いてないんです」
「あっ、そうなんだ?ここってお茶専門か何か?」
「ええ、不本意ながら…コーヒー以外でしたら大抵の物はありますので」
「ふーん…じゃあ梅昆布茶」

―――数分後、俺の視界には湯呑みから立ち上る湯気を吹いている男の姿があった。「何でコーヒー置いてないの?」と問われ、素直に「自分で納得できるようなコーヒーを淹れられないからです」と返した俺を、「なるほどね」と頷いた男がじっと見据えてくる。

「淹れてやろうか?」
「えっ」
「俺が淹れてやるよ、コーヒー。豆は?」
「あっ、一応用意してますけど…」

その後、何故か全ての客に男の淹れたコーヒーが振る舞われ、それは絶妙な香りと風味を持ち合わせた逸品であった。口々に沸き起こる賞賛の中、衝動的に俺が「すみません、明日も来てくれませんかっ?」と申し出たのは言うまでもない。そのまま、なし崩し的に男が店に通ってくれるようになり今に至る。

「俺は仕事があるって言ってるだろ」

俺が共同で店を経営する事を提案するたびに、その男―――牧さんにすげなく断られるのもお約束の流れだった。普段ならば、不毛な応酬が続いた後でその話題はうやむやになるのであるが、今日はもう少しだけ食い下がりたい気分だった。俺は目玉焼きとベーコンを盛りつけた皿をテーブルに置くと、意を決して牧さんに向き直った。

「仕事って…いいじゃないですか、こっちを牧さんの本業にしちゃえば」
「あ?」

牧さんの目に鋭い光が宿る。正直怖かったが、奥歯をぐっと噛み締める事でどうにか堪えた。そして俺は大胆にも牧さんの目を見つめ返し、前々から抱いていた疑問を口にしたのだった。

「だいたい牧さん、普段は何してる人なんですか?具体的に、どういう仕事をしてるのか今まで教えてくれた事ないし」

一気に捲し立て、大きく肩で息をつく。牧さんの生活は、朝9時過ぎに俺を起こしてコーヒーを淹れ、一緒に朝飯を食う所までは把握している。そこから先は、全く未知の領域であった。仕事はしているらしいが、どこで何をしているのかは知らないし、聞いてもはぐらかされるばかりだった。

「神…」

コポコポ、という水音で我に返る。牧さんはサーバーからカップに移したコーヒーをテーブルに載せると、その表情をわずかに和らげてみせた。それは、毎日接している俺でないと見分けられないぐらいの微妙な変化だった。

「今の仕事が、あともうちょっとで片が付く」
「えっ?」

しばしの沈黙の後、唐突に牧さんが切り出したので俺は戸惑いを隠せなかった。牧さんが、自分の仕事について話してくれたのはこれが初めてだったのだ。とは言え、仕事の内容についてはやはり明らかにされないままだった。

「そしたら全てが終わるから…その時は、お前とここで店やるわ」
「…本当ですか?」
「約束する。だから、もう少しだけ待ってくれないか」

それは普段の不遜さからはかけ離れた、どこまでも静かで殊勝な語り口だった。反論の余地もなく首を縦に振った俺を、牧さんが覗き込んで「いい子だ」と低く笑う。そこで俺もようやく緊張を解き、唇の端を綻ばせながらマグカップに手を伸ばした。少し温くなったコーヒーから伝わる酸味と苦味が、俺の口内でない交ぜになって喉の奧へと染み渡った。





「そんな、素性の知れない人と店やっちゃって大丈夫なんですかあ」

間延びした物言いながら、やけに核心を突いてきたのが信長という男だった。高校時代の後輩で今は保育士として働いている彼は、たいてい閉店間際になるとこの店に出没する。カウンターで行儀悪く頬杖をつき、無駄に正論を吐く姿が単純に俺を苛つかせた。

「素性の知れない人って…信長だって会った事あるじゃん、牧さんに」

信長の手元に、ミルクを多めに入れたココアを差し出してやりながら異を唱える。カップを鷲掴みにし、音を立てて中身を啜った信長が不満げに唇を尖らせた。

「そりゃ会った事はありますけど…でも、何か怪しいっすよね?」
「どうしてそう思うの?」
「だって、どういう人なのかいまいちわかんねえし…」
「美味しいコーヒーを淹れられる人に怪しい人はいないよ」

我ながら根拠のない持論だったが、そう口にせずにはいられなかった。何より、牧さんが疑われる事に俺自身が我慢ならなかったのだ。たとえ信長の言う事の方が、はるかに理にかなっているとしても。

「神さんさー、牧さんの事好きでしょ」

ぐいっとカップを呷り、唇の周りを淡い茶色に染めた信長が俺を見上げる。手にしていた皿が引力に従って滑り落ち、派手な音を鳴らしながら床の上で砕け散った。

「あー、図星でした?だってめちゃめちゃわかりやすいもん、神さん」
「むかつくっ…」

仕方なくその場にしゃがみ込み、四方八方に散らばった欠片を拾い始める。間髪入れず頭上から降ってきた、「手、ケガしないで下さいねー」という呑気な言葉が俺の心をますますささくれ立たせた。

「何か神さん、しょくぱんまん様に恋するドキンちゃんみたいですもんね」
「えー、何それ?」
「ああ、気にしないで下さい。職業病なんで…」

保育士の信長は日常的に見ている幼児番組のようだが、俺には一切わからない範疇の話だった。とりあえず、大きい欠片だけを一ヶ所に集めた所でやれやれとばかりに立ち上がる。ほうきとチリトリを取りに行きかけたタイミングで扉が開き、顔を覗かせたのが渦中の人物だった。

「おっ、何だ。お前も来てたのか」
「あ、しょくぱんまん様だ」

俺と信長を見比べて眉を引き上げる牧さんに、信長がよりによって一番通じそうもないセリフを繰り出す。当然ながら、牧さんの反応は薄いどころか「ない」に等しかった。

「は?」
「いや、何でもないっす…」
「牧さん、梅昆布茶飲んで行きませんか?」

微妙な空気を打破しようと、慌てて声を掛けた俺を牧さんが手を振って制する。「悪い、これから仕事なんだ」と牧さんは言い、「また明日の朝、起こしに来るから」と続けた。

「今からですか?こんな遅くから?」
「ああ、今日はな。その前にちょっと、お前の顔見に来ただけだから」
「牧さん…」
「おやすみ」

再び扉は閉められ、店内には先ほどと同じように俺と信長だけが残された。もちろん信長の存在などはまるで眼中になく、胸の内で「お前の顔見に来ただけだから」という牧さんのセリフを狂ったように反芻する。

「…神さん、目がハートマークになってますよ」
「うるさい」

咄嗟に腕を振り上げ、信長の脳天に容赦のない平手打ちを見舞う。テーブルに突っ伏して悶絶している哀れな男は放置したまま、俺は今日はもう動きそうもない扉の、真鍮の取っ手をただひたすら凝視し続けた。

「あっ、しょくぱんまん様じゃなくてカレーパンマンだったか…見た目で言ったら…」

俺に叩かれた箇所を撫でさすりながら、信長が性懲りもなくくだらない事を独りごちる。それに対してはさすがの俺も応じる気力はなく、冷ややかな一瞥を与えるだけにとどめておいた。





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