昨夜、ドラマ『ラストフレンズ』を見て、長澤まさみちゃん演じるミチルに、自分に近いものを感じたのですが。


人と人の間の、

さみしい×さみしいは、

ドラッグみたいなもんなんだなあ、と思った。


さみしさが響きあう関係って、どうしてダメになっちゃうんだろう。


さみしさからくる飢えは、あらかじめ満腹中枢が破壊されているので、永遠に満たされない。


新美南吉の『かたつむり』は、ある日自分の殻の中に、悲しみがいっぱい詰まっていることに気がついて、絶望するかたつむりの話だったけど、
悲しみに絶望している人より、さみしさに絶望している人の方が、今の日本にはたくさんいるんじゃないだろうか。


さみしさが等量だったから、わたしは彼を好きになった、と、DV彼氏から逃げてきた長澤まさみは話すけれど、


『さみしいのはみんな同じだよ』


と、瑛太に言われてしまう。


『たとえ、そんな風に見えないとしても、その人の孤独の分量なんて、外側からはわからないよ』


瑛太の台詞は、すごく胸に沁みた。

経験値がないと、言葉はそこに込めた意味を発動してくれない。


体験がないと、言葉は思った通りに届いてはくれない。


経験値をちゃんと積んで、また人を愛したいなあって思う。


さみしさからじゃなくて、
ただ求めているっていう単純な欲求から。