読売新聞か朝日新聞の書評欄で、この本のことを紹介していた。
ローマ帝国には、公衆浴場があり、そこが市民の憩いの場であったけれど、その後、キリスト教の勢いが増してくると、入浴という習慣を嫌うようになる。
キリスト教徒にとって問題なのは、体の清潔さよりも、魂の清廉さであり、ついでにゆーと、垢まみれの体の方が求道的っぽくてグーってことらしい。
‥‥‥人間て、2000年前から、格好だけつければなんとかなると思ってたんだな‥‥‥‥‥。
そいでもって、垢が体の見えない孔(というものがあると思われていた)を塞いでくれれば、体に悪しきもの(多分、概ねペストや天然痘といった病気のことを指すのであろう)が侵入しない。
だから、中世あたりの人々は、顔を洗うくらいで、体を洗うなんてことは、ほとんどしなかったらしい。
ふーん、単に不潔ってだけじゃなくて、意味はちゃんとあるのねぇ、と、感心しながら読んでいたら、こんな一文が。
『彼らにとって体臭は、個人存在の証であった』
(`∀´;)
そ、そうか。風呂入らないと、臭うもんなぁ。
個人存在の証‥‥‥‥‥‥‥。
『ジャンがそこまで来ているぞ!!』
なんて、姿も見えないのにわかった、とか‥‥‥‥‥‥‥‥?
とりま、自分探しや、『あたしなんか、いてもいなくても』みたいな哲学的(?)無明に陥っている人には、これは大きな答えだと思うの。
孤独に泣くような夜は、
とりあえず臭っとけ。
そーいや、人間の五感で、記憶に最も根深く残るのは、嗅覚だってゆーもんな。
ひとりじゃないのよ、わかるでしょ。
て、歌が不意に頭に浮かびました。
うひ〜。
昨日、餃子を作ったんだけど、白菜の水気を絞りすぎてパサパサの餡になっちゃった。
今日は、餃子の餡を、ハンバーグ風に焼いてみたら、白菜の水気で途中から煮込みハンバーグに‥‥‥‥‥‥‥。
(ノTдT)ノ
人生ままならず。
本日、グランマの褥創(床ずれ)が悪化したので、病院へ。
以前は、デイサービスの途中で病院に行っても、診察が終わったらまたデイサービスの施設に戻れたのに、今はダメなんだそーです。
ガーン。
自力で車椅子のグランマを、家に連れ帰らねばならんのかーい!!
デイサービスに戻れたなら、送迎のバスで車椅子のまま、ラクラク移動できるのに。
わたしの車は、車椅子をそのまま乗せられるような改造をしてないので、車椅子から祖母を座席に抱き移すのも一苦労ざんす。
うーん、少しずつ、介護福祉サービスが、不便になってゆくなぁ。
多分、介護だけじゃなく、福祉や育児方面も、同じように不便になってるはずなんだろーけど。
前に、介護のことで調べたいことがあって、ネットを見ていたら、
『介護する人がまず幸せでなければ、介護される人の幸せはない』
とか掲げてあるHPがあった。
うへぇ、なんじゃそら。
介護は、後悔と背中合わせで、罪悪感からは逃げられないものだ、というようなことを、遥洋子さんが『介護と恋愛』に書いていて、わたしはその言葉に深く共感したし、希望の光を見たので、その変なスローガンを笑って通り過ぎることができたけど、介護に疲れて迷っている人には、更なるダメージを与える言葉だなぁー、と思った。
あーあ。