「ホノルルクッキー」の箱を差し出すと、武藤さんは「おっ」と短い声を発し、さらに「そう言やお前ら、ハワイ行ってたんだっけ?」と続けた。

「そうです、5泊7日で…先週の土曜日に帰ってきました」
「また、ちょうど盆休みの一番高い時になあ…ま、それは仕方ねえか。牧もリーグ戦あるし、お前もそうそう会社休めねえだろうしな。…で?」
「はい?」

クッキーの箱を受け取った武藤さんがまじまじと俺を見据え、若干言いにくそうに―――という事もなく言い放つ。

「そのハワイ旅行っつーのは、いわゆるあれか?新婚旅行…」
「あー…えーっと、まあそんな所です…」

いくら気心の知れた先輩と言えども、武藤さんに「新婚旅行」というフレーズを出させてしまったのは恐縮以外の何物でもない。咄嗟に「すみません」と謝ると、武藤さんはやや面食らったように自分の後頭部を指先で掻き回した。

「いや、別に…しかし、お前らが新婚旅行に行ったっつっても全く違和感を感じねえのは何でだろうな?」
「そうですか?まあ、ありがとうございますとは言っときますけど、とりあえず」
「牧は?」
「今日は練習日です。そろそろ帰ってくる頃かな…武藤さん、どうせうちで飯食っていくでしょ?」

―――週末に武藤さんが、下高井戸の我が家までやってきて晩飯を食っていくのはさして珍しい事ではない。武藤さんが住んでいる三軒茶屋から下高井戸まで、世田谷線一本で来れる事に気づいたのは引っ越しが済んだ後の話だった。それを指摘した瞬間、牧さんがコンマ1秒の速さで小さく舌打ちしたのを覚えている。

「神はハワイ初めて?」
「俺はまあ、そうですね。海外もそんな行ってないですけど…もちろん牧さんは何回も行ってて、この間も叔父さんが所有しているコンドミニアムの一室を宿にさせてもらったんです」
「かーっ、マジか!コンドミニアム所有って!どんだけ大富豪だよ!」

庶民の悲鳴、とも言うべき武藤さんの叫びが部屋中に響き渡る。その点については俺も武藤さんと同意見だ。何でもその叔父さんというのは子供がなく、奥さんも数年前に病気で亡くなってしまったため、今はハワイと日本を行ったり来たりするという悠々自適な暮らしをしているそうだ。「俺が死んだら、コンドミニアムの所有権は紳一に譲るから」というのが叔父さんの口癖らしいが、牧さんは笑って「あれは少なくとも、向こう30年は死にそうにねえわ」と取り合わないのが常だった。

「で、初ハワイはどうだったんだ?その、新婚旅行のハワイは」

ひとしきり、感嘆の息を漏らした武藤さんに尋ねられる。武藤さんの手元にぼんやりと視線を落としていた俺は、一呼吸置いた後におもむろに口を開いた。

「ライオン…」
「は?」
「ライオンが…」

ああ、さすがにこれじゃ通じないか―――ようやくそこで、会話の不自然さに気づいた俺が慌てて手を振ってみせる。

「いや、あのー、ホノルル動物園って所に行ったんですよ。ワイキキビーチから歩ける距離なんで、まあ散歩がてらっていうか。そこでライオンを見たんですよね。動物園なんて、十年ぐらい前にズーラシア行って以来だったんですけど」
「ああ、なるほどな。で、そのライオンがどうかしたのか?」
「どうかしたって言うか…」

―――ここで、話は一週間ほど前に遡る。8月中旬のお盆休みの時期を、俺と牧さんはハワイで過ごした。有り体に言えば「新婚旅行」で、トップシーズンの一番高い時だがそれは仕方がない。しかも、ホテルだといろいろと気を遣うだろうから…と、牧さんの叔父さんが所有しているコンドミニアムの一室に泊まらせてもらったのだった。いつだったか藤真さんに「すげえな神、玉の輿ってやつじゃねーの?」とからかわれた事があるが、全くその通りであると言わざるを得ない。

ハワイに来て三日目、そのコンドミニアムの一室で朝飯を食っていた時に「ホノルル動物園に行ってみるか」と持ちかけられた。何でも牧さんは、ハワイに来ると毎回そこを訪れるという。「何か癒されるんだよな、動物見てると」と、やけに穏やかな笑顔で牧さんが言うので俺も二つ返事で承知してしまった。

「牧さんは、好きな動物とかいるんですか?」

どうしても聞きたい事柄でもなかったが、物の弾みで質問してみる。案の定、牧さんは「動物?」と眉を引き上げたまま数秒ほど微動だにせず、その後「そうだなあ…」と絞り出すような声を漏らしながら下顎に指を這わせた。

「まあ、割と何でも好きだけど…あっ、最近キリン好きだわ」
「へー、キリンですか?どこら辺が?」
「うん、何かお前に似てるから」
「……」

果たしてこれは、純粋に喜んでいい物なのかどうか―――ナイフとフォークを構えたまま硬直してしまった俺を、牧さんが若干ばつの悪そうな表情で窺ってくる。

「あれっ、何か悪い事言っちゃったか?似てると思ったんだけどな…雰囲気とか、芯の強そうな目とかが」
「キリンに似てるって言われたのは人生初ですけど…まあ、ありがとうございます」

後日談として、周囲の人間に「俺ってキリンに似てますかね?」と尋ねたところ、ほぼ全員から「あー、そう言や似てるかもな」「言われてみりゃ確かに…」という回答を得られたので、牧さんの見解が決して的外れではない事を知ったのだった。もうすぐ30の大台に乗ろうとする今になっても、自分自身について気づかされる事はまだまだ尽きない。

「ま、とにかく飯食ったら行ってみるか」

そう言ってマグカップのコーヒーを啜る牧さんに頷き返し、皿の上に残っていた目玉焼きを一気に頬張る。勢いで、唇の端から半熟の黄身が滴り落ちそうになったのをどうにか堪えた。





ABCストアでミネラルウォーターを買い、ホノルル動物園に向かう。やはり俺たちが連れ立って歩くと相当目立つらしく、日本人だけでなく欧米人にも振り返られた。今に始まった事ではないし、そうしたあからさまな視線には慣れてしまっている。高身長の人間の宿命だな、という花形さんだか誰だったかのセリフを朧げながら思い出した。

ワイキキビーチ沿いに椰子の木が立ち並ぶ、如何にもハワイらしい通りを歩いているうちに動物園に到着する。ハワイに来て動物を見る、という行為が不思議な感じもするが家族連れには人気のスポットらしい。しかし日本の動物園にありがちな騒々しさはなく、牧さんが「癒されるために行く」のも納得できるという物だった。

とりあえず順路に従って進み、フラミンゴやチンパンジー、インドゾウといった動物たちを眺める。「その辺に、普通に孔雀とか歩いてるから」と牧さんが言った通り、極彩色の孔雀が何の前触れもなく現れるのもハワイの動物園ならではか。気まぐれに、羽根を広げるなどの「サービス」を行う事もあるらしいが、この時は俺たちの前を悠然と横切るばかりだった。その、「変に媚びない所」も牧さんが気に入っている点の一つかも知れないが、さすがに考えすぎだろうか。

「ほら、ここがアフリカサバンナ」

もうだいぶ歩いたかな、という自覚が芽生え始めた頃に牧さんが前方を指差す。いきなり開けた視界にキリンやシマウマ、チーターといった動物たちが捕らえられた。そう言や俺、キリンに似てるんだっけ…急にその事が頭に蘇り、ある種のシンパシーを持ってキリンに注目する。キリンは俺の熱い視線などお構いなしに、少し高い所にある樹木の葉を貪り食っているばかりだった。

「ちょっと離れたエリアにライオンもいるから」

しばらくキリンに見入っていた所で促され、迷いなく伸ばされた牧さんの指先に目を凝らす。強すぎる日差しを避けるように、木陰で寝そべっているのがライオンの家族だった。俺がキリンに似ていると言うなら、百獣の王であるライオンは牧さんという事になるのではないか。俺はふと、瞼を塞いで気持ちよさげに眠りに落ちている雄ライオンにオフの日の牧さんを重ね合わせた。何だか似ている…そんな独り言が口をついて出た気もするし、どうにか言葉に表さずに済んだ気もするのだが。

「何が似てるって?」

―――どうやら、俺が無意識下で行ったのは前者であったようだ。他ならぬライオンの前で言っているのだから、誰が何に似ているのかは一目瞭然だろう。俺は答えず、隣の百獣の王をチラリと見やった後は再びライオンを凝視する行為に没頭した。牧さんも無言のまま、二人して抜けるような青空の下で立ち尽くすだけの時間が流れる。そんな贅沢極まりないひとときに、タガが外れた俺のとりとめのない独語も続いている。

「ああ、牧さんがライオンに似てるっていうより、ライオンが牧さんに似てるのかなあ…まあどっちでもいいか、どっちにしても俺は襲われるんだから…」
「…言ってる意味わかんねえけど、最後の一言だけは多分間違ってねえわ」

ゾクリと震えるような、性的な眼差しで全身を貫かれる。額から垂れた汗は足元に落ち、褐色の砂に紛れてしまった。俺は自分が牧さんの手によって押し倒され、容赦なくのしかかられる場面を脳裏に描く。もちろんそれが、コンドミニアムに戻った途端に実行されたのは説明するまでもない事だった。





「―――どうせ、ライオンが牧に似てるとかって事だろ?だいたいがさあ…」

如何にも仕方なさげな、武藤さんの言葉で我に返る。「あっ、さすが武藤さん…よくわかりましたね」とさりげなく賞賛すると、「お前らと十年以上付き合ってたらアホでもわかるわ」と投げやりな口調で吐き捨てられた。

「あっ、牧さん帰ってきた」

ドアロックが外される音を聞きつけ、探るような武藤さんの視線をかわして立ち上がる。リビングの扉を開けて廊下を進み、「ただいま」と言いながらトップサイダーのデッキシューズを脱いでいる牧さんを出迎えた。

「お帰りなさい、武藤さん来てますよ」
「頼まれたやつ、駅前のマツキヨで買ってきた」
「あーすみません、ありがとうございます」

頼んでおいたトイレットペーパーと、綿棒の詰め替えが入ったビニール袋を受け取る。そのまま武藤さんが待っているリビングへ引き返すと、ソファーにもたれて足を組んでいる武藤さんの目が露骨に大きく見開かれているのが見えた。

「悪いな武藤、ちょっと遅くなった」
「…牧が特売のトイレットペーパー買って帰ってくるっつーのも、よくよく見たらすげー絵ヅラだな」
「それ、信長にも同じ事言われました」

以前、信長が遊びに来ていた時に牧さんが18ロール入りのトイレットペーパーと共に帰宅した事があり、同じように驚かれた気がする。確かに、かつて神奈川の帝王と謳われた男のイメージを安易に壊してはいけなかったかも知れない。当の牧さんはまるで頓着しない様子で、「そうか?別に普通じゃねえ?」と言って武藤さんを見下ろした。

「それより、お一人様一つまでって書いてあったのがすげー残念だったんだけど。明日も特売やってたらまた買いに行くから」
「あ、じゃあ俺も行きます。そしたら二つ買えますよね?」
「おい、もっと有意義な休日の過ごし方はねーのかよ」

武藤さんが呆れ気味に正論を吐くのへ、俺たちの口から一斉に「これ以上、有意義な休日の過ごし方があるか」といった趣旨の異議が飛ぶ。軽く両肩を竦めた武藤さんに、俺が例の質問を投げかけてみる。

「あのー武藤さん、つかぬ事を伺いますけど…俺ってキリンに似てますかね?」
「へっ?キリン?また随分唐突な…でもまあ、今まで誰もそれを提議しなかったのが不思議なぐらいだな」
「だろ?やっぱ武藤もそう思うよな?」

急に勝ち誇った笑みを浮かべた牧さんに、武藤さんが「何だよ、お前が言い出しっぺかよ?くそっ、俺とした事がうっかり牧に乗っかっちまった…」と心底悔しそうにぼやく。この二人は本当に相変わらずだなあ、と目を細めた所で武藤さんの意外な反応が示された。

「別に牧の言う事なんかくそどうでもいいんだけど、神がキリンに似てるっつーのは一理ある気がするわ」
「そうですか…じゃあ、ライオンとキリンの結婚についてはどう思いますか?」

さすがの武藤さんも、俺の戯れ言にこれ以上付き合ってくれる気はないようだった。「知らねーよっ、つーかますますどーでもいーわ」の一言でばっさり切り捨て、それを聞いた俺と牧さんは反射的に顔を見合わせて笑ってしまった。