スウェルター(2)

「…という訳で、転勤じゃなくて出向なんです、正確には」

電車に乗る前に、牧さんに買ってもらったペットボトルの緑茶はとっくに空だった。それを指の腹で潰してペコペコと音を鳴らしながら、俺は一次会で武藤さんにしたのと全く同じ説明を繰り返した。

「お前、本当に酔ってるだろ」
「…酔ってますよ?何でですか?」
「その話、もう5回はループしてる」

しょーがねーな、と呆れたようにため息を吐いた牧さんが、吊り革に掴まる手に力をこめる。褐色の肌に、血管の浮き出た手の甲がすぐ目の前にあった。次は高円寺、高円寺と告げる車掌のアナウンスが俺たちの不毛な会話を遮る。

「高円寺だよな、お前んち」
「あっ、はい…」
「何で武藤や清田に言ってて、俺には言わねえんだ」

少しだけ低い位置から睨みつけられる。俺が牧さんに勝っているのは数センチ差の身長ぐらいしかなく、それでさえも「体格差」や「圧倒的存在感」の前にあっては何の意味もない代物だった。

「それは…」

喉の奥に、真綿を押し込められたかのように言葉が出せない。まさに、生き地獄としか言いようのない時間が過ぎていた。高校時代、部活で怒鳴られていた時の方がよほどましであり、いっそひと思いに殺してくれとはこういう事を指すのだろう。

「昔、部活の時に怒鳴られてた方がよっぽどましだったって顔してんぞ」
「…!そこまでわかってんのに何でっ…」
「さあな。お前がなかなか本心を明かしてくれないからかな」

徐々にスピードを落としていた電車が、ゆっくりと高円寺駅に到着する。再度のアナウンスと共にドアが開き、電車を降りる乗客たちに続いて俺と牧さんもホームに降り立った。

「本心、ですか…」

牧さんの意図が読めない。言ってしまってもいいのだろうか。俺が牧さんを好きで―――好きだから、たとえ一年間の期限付きでも東京を離れるとは言い難かったという事を。
いや、むしろ黙っていなくなりたかったのかも知れない。俺が何も告げずに姿を消せば、牧さんも少しは動揺してくれたのだろうか。

「あのー、…彼女さんは元気ですか」

俺は本心を探られないために、この世で最も聞きたくない質問を口にした。牧さんの彼女が元気であろうとなかろうと俺には全く興味のない話だったが、今はそう尋ねるより仕方がない。

「何だよいきなり…んー、別に普通だよ」

さすがに不意打ちだったのか、全く隙のなかった牧さんの表情が少しだけ緩んだ。ぶっきらぼうながらも、まあ悪い気はしないといった感じの口調が若干俺の癇に障った。

牧さんと出会って10年、牧さんを困らせるような真似はしなかったと自負する俺だが―――たった一度、最大限に困らせてもいいのではないかという悪戯心が宿った。もはや、神の啓示と言い換えてもいいぐらいの衝動だった。

そんな事より、と眉間に皺を寄せた牧さんが二度ほど咳払いをした後に口を開く。

「それで、その広島への出向はいつからなんだ」
「あー…えーっと、明日です」
「明日ぁ?!」

予測していた以上の大声に、驚いたのは俺だけではなかった。すぐ前を歩いていたカップルもビクリと肩を震わせ、口々に「えっ、何?何?」と言いながら遠慮なしに振り返ってくる。

「あっ、すみません…」
「そうですよ、そんなに驚く事ないじゃないですか」
「おまっ…!これが驚かずにいられるかっ、何考えてんだ、ったく」

今度は周囲をはばかって、声のトーンをだいぶ落とした牧さんが俺を咎める。それに対して、まあ牧さんが驚くのも無理はないですけどね―――と笑おうとしたが、上手く笑えない気がして慌てて口元を引き締めた。

気まずい空気のまま改札を抜け、この時間でも賑やかな商店街も通り過ぎると人通りはだいぶまばらになっていった。

「お前さあ」

先に沈黙を破ったのはやはり牧さんだった。眉間には苦々しく縦皺が刻まれたままだったが、先ほどよりは冷静さを取り戻しているように見えた。

「何ですか?」
「俺に何か隠してる事があるんじゃないのか」
「…そう見えますか?」
「この際だから言っとけよ、どうせ明日から広島なんだろ」

遠慮する事ねえぞ、と牧さんはニヤリと笑った。完全に、俺が隠し事をしていると確信している顔だった。
まさか俺としても、自分が墓場まで持っていくつもりだった気持ちを告白させられるとは思ってもいなかったが、ある意味これ以上の機会はないかも知れない。俺も牧さんも酔っているし、何と言っても明日からしばらくは顔を合わせずに済むのだ。

「そうですね…」

あの角を左に曲がれば自宅アパートだ。もう言ってしまえよ、と俺の中の別人格が耳元で囁く。そうだ、たとえ地雷を踏む事になったとしても、脇目も振らずアパートへ駆け込めばいいだけの話だ。

「じゃあ、どうせ酔ってるし言っちゃおーかな」
「おう、何でも言えよ。怒んねえから」
「好きです」
「えっ」

ああ、やっぱり地雷を踏んでしまったんだな―――そう理解するのにさほど時間はかからなかった。俺が告げた「好きです」が、単なる好意の範疇を超えている事は言うまでもなく、牧さんの驚きや戸惑い、その後に訪れるであろう拒絶を見届ける覚悟は俺にはない。

「すみません、その…やっぱり迷惑ですよね、失礼します」

10年間温めてきた思いが玉砕するのは一瞬なんだな、そう自嘲しながらその場を走り去ろうとした俺の腕を牧さんの力強い手が掴んだ。

「ちょっと待て神、俺も好きだ」
「―――えっ?!」
「今、気づいた。ずっと前から神が好きだった」
「何でっ…」

驚いた、などという言葉では到底表現しきれるものではない。これは俺が望んでいた展開ではない。俺としてはあくまで、長年育ててしまった悪循環に蹴りをつけなければならないのだ。

「な…に言ってんですか、そんな事あるはずないでしょう」
「そこまで否定する事ねえだろ」
「だって、そんなっ…ない、ないですよ、絶対ない!」
「だから、そんな全力で否定すんなって」

いいから落ち着けよ、と言いざま伸びてきた手でもう一方の腕も押さえ込まれる。思いを受け入れてもらえた事への歓喜などはなく、ただ純粋な恐怖だけが俺の体を支配した。

「嫌だ、そんな…だってあり得ないじゃん絶対、バッカじゃねーの?!」
「ちょっ、お前…何つー事言うんだ、仮にも先輩に向かって…!」

通常ではとても許されないレベルの暴言だったが、それに構っている余裕はなかった。牧さんの指の力がほんの少し和らいだのをいい事に、俺は牧さんの手を振り払って今度こそその場を逃げ出したのだった。





「無傷」どころか、瀕死に近いほどの「重傷」を負ってから一年―――今、俺はあの時と同じようなシチュエーションで牧さんと対峙している。
少しだけ違うのは牧さんが、恐らくは満身の力をこめて俺の二の腕を捕らえているという点だった。

「牧さん…」
「何だ?」
「腕、めちゃくちゃ痛いんですけど」
「当たり前だ。あん時、お前に逃げられた事をこの一年ずっと後悔してたんだぞ、俺は」

少しぐらい我慢しろ、という手の力とは裏腹の優しい声が辺りの闇に溶けていく。ああ、やっぱり好きだと俺は思った。この一年、牧さんの事を忘れたつもりになっていた俺がバカだったとしか言いようがない。

「牧さん、あの…か、彼女はっ?」

やはり聞きたくない質問だったが、これ以上傷つかないためにも一応はっきりさせておかなければなるまい。牧さんは途端にばつの悪そうな表情を滲ませると、大きく呼吸を繰り出した後に忌々しげに言い捨てた。

「別れた」
「えっ?!」
「割と長く付き合ってたから、あっちは完全に結婚を意識してたんだ。お前は知らないだろうが、けっこうな修羅場だった」
「た…大変だったんですね…」

牧さんが言うぐらいだから、きっと相当な修羅場だったのだろう。俺が彼女だったら絶対に別れたくないと思うし、牧さんと結婚するためにあらゆる策を講じるはずだ。

「おかげで俺は去年のOB会の忘年会で、武藤や清田たちにさんざん酒の肴にされたんだ。っとにろくでもねえな、あいつらは」
「あー、俺、忘年会行かなかったから知らなかったなあ。そんな面白い事があったんなら行けば良かったですね」
「お前なあ…まあいいけどさ、もう済んだ話だから」

神、と再びその両目がゆっくりと俺に向けられる。あっ、と声を上げる間もなく腕を引っ張られ、バランスを崩した拍子にその胸に抱き止められた。

「悪かったな。あんまりお前がそばにいすぎて、長いこと自分の気持ちに気づけなかった」
「牧さん…」
「好きだ」

牧さんの首筋から、乾いた汗の臭いや薄まったコロンの香りといったものが漂ってきて嗅覚を刺激する。まさに、許された者にしか与えられない特権だった。その匂いをもっと近くで味わいたくて、俺は牧さんの肩口に顔をうつ伏せた。

「…神」
「何ですか?」
「そんなに鼻鳴らして嗅がれると、さすがに恥ずかしいんだけど」
「少しぐらい我慢して下さい」

何しろ俺は、今から10年分の遅れを取り戻さなければならないのだ。恥ずかしいとか人に見られるかも知れないとか、そんな些末な感情にかかずらっている暇はない。

「牧さん、俺…俺の中に、こんな獣臭い欲望があったなんて知らなかったです」
「いいんじゃねーか?今までのお前にはそれが足りなかったんだろうから。それよりもさ…」

そろそろお前んち入れてもらいてえんだけど、という熱を帯びた囁きが耳元を掠める。その直後に続く、「さすがにここで職質は受けたくねえ」という色気のない一言にさえも俺は酔いしれた。

「今のは反則、反則ですよ…」

やっとそれだけを呟いて牧さんから離れる。自室へ向かう階段を上がり、見慣れた扉の反対側に滑り込んだ瞬間に押し倒され、骨の髄まで食らい尽くされる事は容易に想像がついた。しかし、それを拒むという選択肢は初めから存在しない事もわかり切っていた。

スウェルター(1)

一筋の風すらない、ひどく蒸し暑い夜だった。そこからして既に、「あの日の夜」の再来だったかも知れない。
会社から帰ってきた俺は、自宅アパートの前にしゃがみ込む、見覚えのありすぎる男の影に息を飲んだ。

「牧さっ…!」
「遅かったな。いつもこんなに帰り遅いのか」

よっこらせ、と立ち上がってズボンの尻をはたく。暗がりの中でも―――いや、暗がりの中だからこそ強調される、薄茶色の瞳が俺を見据えている。迷いを一切感じられない男の眼差しだ。
目力の強さは相変わらずだな、と俺は、込み上げてくる笑いを辛うじて喉の奥で堪えた。

「ったく、電話もメールも無視しやがって。って言うか、ご丁寧に着信拒否しやがって」
「……」
「高校時代じゃなくて良かったな。あの頃だったら確実にぶん殴ってる」
「どうして…」

対する俺はと言えば、からからに乾いた唇からやけに間の抜けた問いかけしか出てこないのだった。それもそうだろう、俺はこの男―――牧さんからの連絡をこの一年間、ことごとく無視していたのだから。

「清田に聞いた。先月こっちに戻ってきたんだってな。あいつが珍しく口を割らねえから、酔い潰して白状させるのにちょっと手間取ったけど」
「信長!あーもう、ほんっと頼りになんない…」

俺は盛大なため息と共に天を仰いだ。その時の惨状が目に浮かぶようだった。

「…で?お前、俺に何か言う事はないのか」

一瞬、居酒屋でさんざん飲まされた挙げ句、何本もの日本酒やらワインやらの空き瓶と共にテーブルに撃沈する信長の姿が脳裏に浮かんだが、すぐに現実に引き戻された。牧さんが怒っている、それも「心底」だ。その怒りから逃れる方法を、俺は一つしか思いつけなかった。

「ありません、俺、明日の朝早いんで」
「おい、神!」

牧さんの横をすり抜け、アパートの階段を駆け上がろうとする俺の腕を牧さんの手が掴む。やはりあの日の夜の再現だ。一年前もこんな風に、湿気を多分に含んだ重い空気が俺の体にまとわりついていた。





一年前の夏―――かつて、「常勝」と言われる県下一のバスケット部に所属していた俺は、新宿で催されたOB会の暑気払いに参加していた。

OB会と言っても、海南大附属高校バスケット部は大所帯を誇る伝統ある部なので、その年代によっておおまかに分けられていた。その日集まっていたのは、だいたい10年ぐらい前に現役部員だったメンバーで、何だかんだで60人ぐらいか。例の如くではあるのだが、最初はなごやかにスタートした会も、時間が経つにつれて徐々に下世話な場へと化していく。

「牧、おせーな。あいつ何やってんだよ」

何杯目かのビールを煽りながら、向かいに座っている武藤さんがぼやく。本人はあくまで「ぼやいた」程度だったのだろうが、酒が入っているせいもあってか、その声は意外に大きく周囲に響いた。確かに会が始まって30分以上が経過しているが、牧さんの姿は未だなかった。
まだ来てないのかな、と座敷を見渡す俺の耳に「何か、遅れるって連絡ありましたあ」という誰かの返答が届く。

「んだよ牧ー、マジ使えねえ。ちょっと連絡してみっか。おせーよ牧、今どこにいるんだ、と…」

ポケットから携帯を取り出した武藤さんがLINEの画面を開き、ぽちぽちと文字を打っている。送信してから数秒、すぐに返事があったようだ。「返事来たっ」と呟きつつ、武藤さんは小皿の上で放置されていた唐揚げをその口に放り込んだ。

「なになに…はー?まだ四谷ー?中央線が人身事故で遅れてるって、なにおー、んなもん歩いてこいっ!」

武藤さんの指が画面上で即座に動いて、無理難題を押しつけるような返信を返している。俺は思わず笑ってしまった拍子に、口に含んだレモンサワーを噴いた。何笑ってんだよ、と画面から顔を上げた武藤さんが俺の頭を小突いてくる。

「だって…相変わらずなんですもん武藤さん」
「何がだよ、相変わらずってよー。後輩のくせに上から目線で見やがって…おっ、なになに…無茶言うな、もうすぐ新宿着くだってよ。まー、あと10分ぐらいかな」

了解、と武藤さんが短い返事を打ち、携帯をポケットにしまいこんだ。武藤さんのグラスの中身が半分以上減っているのを見計らい、「次は何飲みますか?」とドリンクメニューを開いてみせる。

「んー、次もビールで。プレミアムモルツ」
「まだビールですか?好きですね」
「俺、けっこうずーっとビールでいい派なのよ。って言うかビールが好き」

お前も次頼めよ、と武藤さんに差し出したメニュー表を逆に突き返されたが、俺はそれに目を落とす事なく「じゃあレモンサワーで」と言った。牧さんが到着する前に、本格的に飲みに走る訳にはいかない。

「またレモンサワー?神らしくねーじゃん、もっとガツンと行けよ」
「俺らしくないって何なんですか、そう言う自分はここに来てからずっとビールのくせに」
「だからー、俺はずっとビールでいい派なんだって…ところで神、あの話は本当なのか」

辛いなこの唐揚げ、と文句を垂れながらも武藤さんは二つ目のそれをガツガツ頬張っている。どっちなんだ、と笑おうとした俺の口が半開きの形で凍りついた。

「…あの話って?」
「何か、お前が広島に転勤になるって話」
「ああ…」

本当ですよ、と俺は、追加オーダーを聞きに来た後輩にメニュー表の文字を指し示しながら武藤さんに向き直った。武藤さんの表情が、何となしに怪訝そうなそれへと変わる。

「でも、一年間の限定つきです。うちの会社が広島に支店を立ち上げるんで、それの応援に行ってくれって事になって、軌道に乗るまで。だから、正確には転勤じゃなくて出向ですね」
「何だ、そういう事か。それなら安心だな、牧も」
「何で牧さんの名前が出てくるんですか」

俺は微かに片頬を引きつらせた。俺が転勤じゃなくて出向だと、どうして牧さんが安心する事になるのか。それに、俺の牧さんに対する10年前からの感情―――先輩への、単なる尊敬というだけでは説明できない類のものである事は、あくまでも俺の一方的かつ身勝手な思いであり、牧さんには関係のない話だ。

だいたい、武藤さんだってその事実は知らないはずだ。俺はこの10年間、そうした思いを誰にも漏らさずに押し殺してきたのだ。

「や、そんな深い意味はないんだけど。ほら、お前は牧担当じゃん。お前がいなくなったら、俺が牧の面倒見なきゃなんなくなるからさ。それだけは勘弁…おっ、牧着いた?」

武藤さんが首を伸ばし、入口付近に目を走らせる。つられて俺も振り返ると、確かに入口付近に陣取っていた後輩連中がにわかに盛り上がっているのが見えた。「遅いっすよ牧さん!」「わりーな、遅れて」などというやり取りも聞こえている。

「おー、牧!お前こっち!」

お前、神の隣な!と武藤さんが、座布団の上で膝立ちになって手招きする。それに気づいた牧さんが武藤さんをチラリと見、さらに俺へと視線を移した。いつの頃からか俺は、こうした席では「牧さんのお世話係」という事で定着していた。ありがたいような、ありがたくないような話だ。

「あー、牧さん!やっと来た!」

別の先輩グループに捕まっていた信長の、ひときわ大きい声が張り上げられる。後でそっち行きます!という声に「おー」と返しながら、人混みを掻き分けてきた牧さんが俺と武藤さんの席にたどり着いた。

「悪いな遅れて」

どかり、と俺の隣に牧さんが腰を下ろすと、狭い空間を通じて牧さんの体温が伝わってくる。それだけでいつになく俺の体に緊張が走ったのは、先ほど武藤さんに妙な事を言われたからに他ならない。

「いえ、別に…牧さんは生でいいですか?」
「ああ、今、小菅に聞かれたんで頼んどいた…神?何か怒ってるか?」
「えっ?」

不意に顔を覗き込まれ、俺はあわてて自分のもやもやとした思考を打ち消した。気を緩めてはいけない。この完璧な人の前で、いかなる綻びも見せてはならない。

「別に怒ってないですけど…何でですか?」
「いや、何て言うか…さっきから能面みてえな顔してるから」
「あら神君、失礼ですよ牧先輩に向かってー」

いつもはしょうもない事しか言わない武藤さんだが、この時ばかりは救われた気分だった。ともかく俺はそこで、張り詰めていた息をゆるゆると吐き出す事が出来た。

「何言ってんですか武藤さん、武藤さんだってさっき、牧さんのこと『マジ使えねえ』って…」
「あ?」

そこでようやく、牧さんの視線が俺から離れてくれた。あら、だって本当の事じゃなーいと、何故かおネエ言葉の武藤さんが気持ち悪くその身をくねらせる。

「生中、プレミアムモルツ、レモンサワーのお客様お待たせしましたあ」

そこへ現れた店員が俺たちの前にジョッキやグラスを並べ始め、一連の話題はそこで途切れた。誰からともなく「んじゃ、牧さんも来た事だし改めて乾杯!」という声が上がり、その場は再び「体育会系の飲み会」らしい、濃密で鬱陶しい熱気に包み込まれた。

「あれっ、お前レモンサワー?」

半分に切られたレモンを搾り器にあてがっている俺を、牧さんが不思議な物でも見るかのように眺めてくる。どいつもこいつも…と、俺はあからさまにため息をついてみせた。俺がレモンサワーを頼んで何が悪いと言うのか。

「さっき、武藤さんにも同じ事言われたんですけど」
「いや、何か珍しいなと思って…もしかして俺が来るのを待ってたとか?」
「なっ…違いますっ」

動揺しすぎて、レモンを搾る手が滑る。顔中の血管という血管が一気に開いたような感覚に、俺の思考回路はまたしても使い物にならなくなっていく。だから、あんたに見つめられたら三秒で俺は落ちるというのに。

そうか、と牧さんは優しげに頷き、あろう事か俺の前髪をくしゃくしゃと撫でた。今のはまずい、確実にまずいと俺の本能が訴える。俺の額の熱が、必要以上に牧さんの指に伝わりはしなかったか。

「牧さん、神さん!あと武藤さんも!お疲れっす!」

先ほどの宣言通り、グラスを片手に俺たちの席にやって来た信長が牧さんの向かいに座った。やれやれ助かった、と俺が人知れず肩の力を抜けば、信長が畳の上で胡座をかくなり、「あれっ、神さんレモンサワーっすか?」と俺の手元を凝視する。

「信長…お前まで?」
「だろー?だからさっき言ったじゃん、神ちゃん。お前らしくねえ、ガツンと行けよって…それより清田、あと武藤さんも!って言わなかったか今」
「まーまー、細かい事はいいじゃないっすか。それより神さん、あっち行ってもOB会は絶対参加っすからね!」
「何の話だ?」

片方の眉を引き上げた牧さんが、テーブルにジョッキを下ろす乱暴な音が耳を打つ。俺は再び、自分の立場が危うくなった事を知った。俺の転勤、いや出向の話を牧さんには伝えていなかったのだ。

「そうそう、さっきもその話してたんだよな。神が広島に転勤になるかと思ったら、一年間の出向だったっつーオチ。ま、何にせよ良かったな牧!」
「良かったも何も…全っ然話見えてねえんだけど、武藤」

本当なのか、という低く静かな問いかけと共に、牧さんの半身が俺の方へと向き直る。先ほど俺の髪を撫でた時の、穏やかな日だまりのような表情はとうに消え去っていた。

「えーっと、あの…ほ、本当です…」
「聞いてねえぞ、そんな話」
「えーっ、牧さん知らなかったんですか?!」

信長、よりによって何でこのタイミングでとどめを刺すかな―――恨みがましい視線を投げつけてみるも、100パーセント悪気のない信長が察知してくれる訳もなかった。
もちろん牧さんの顔色など、怖くて確かめる事は出来ない。酒に走るしかない、そう判断した俺はやや炭酸の抜けたグラスの中身を一気に飲み干した。とてもじゃないが素面のままでは、この局面を切り抜ける勇気が持てなかった。





俺らしくないハイペースで飲み続けた結果、案の定、俺はしたたかに酔っ払う羽目になった。自分が招いた種というか、むしろ自分から望んだ事なのでそれは仕方がない。
何故か牧さんが、あれきり俺の出向の話に触れなかった事が気にかかったが、それが既に牧さんの策であり、まんまと術中にはまっていた事をその時の俺は気づく由もなかった。

「帰るぞ、神」

一次会が中締めとなり、それぞれが帰り支度を始めた喧騒に紛れて牧さんが言った。ガタン、と勢いよくテーブルに手をつき、立ち上がって俺を見下ろしてくる。

「えっ、二次会は…?」
「そんなに酔ってんじゃ参加できねえだろ。家まで送ってってやる」
「いや、だって…ま、牧さんは?」
「さっきの話」

のろのろと言葉を紡ぐ俺を、少し苛立ったような牧さんの声が制する。やっぱり怒ってるよな、と酔いで上気した頭で俺は考えた。文字通り、ただ「考えた」というだけであった。

「あとできっちり説明してもらうからな」

立てるか?と差し伸べられた手に気づかないふりをして、何とか自力で立ち上がる。揺らぐ視界の中、我ながら覚束ない足取りでゆっくりと畳を踏み締める。果たして俺はこの後、「無傷」で家まで帰らせてもらえるのだろうか。




→「スウェルター(2)」に続く

prev next
プロフィール
嬉野シエスタさんのプロフィール
性 別 女性
誕生日 5月10日
地 域 神奈川県
血液型 AB型