*まとめ*



 高杉が何も動けず、声すら出せずにいたのはほんの数秒間だけだった。
 新八が視界から消えたすぐ後、ドッドッとけたたましく鳴り響く心臓を鼓舞するように右手で己の胸を叩き、高杉はふらりと立ち上がる。


 「新八……!」

 足を踏み出すたび、斬りつけられた左腕がズキズキと痛む。そこに巻かれた布は新八のものだ。まだ手当てされて間もないのに、既に白い布地は見る影もなく血の赤に染まっている。だけど、この手当ては確かに新八が施した。新八が高杉の為を思い、高杉の怪我を憂慮して、己の鉢金まで捨てて必死に介抱してくれた。

 ほんのさっきまで、高杉のすぐそばで。


「──っ!!」

 もはや左腕の痛みなど、高杉の意識からは完全に遠のいた。急く心のままに崖の斜面に走り寄り、その辺に生えた木の幹に右手をかけて崖下を覗き込む。轟々と流れる水音が聞こえるので確実に川はあるだろうが、崖が急な為、これ以上ここから身体を乗り出すのは危険である。従って川の流れは感じても、川底までは到底ここでは確認できない。

 新八の身体はあのまま川に落ちたのか、それとも斜面に自生している木々の茂みにでも引っ掛かったか。もし万が一だが、あの崩落の勢いで水面にそのまま落ちていたら。そして川には無数に存在しているだろう巨岩に、身体を強く叩きつけられでもしていたら……命の保証はどこにもない。


「……んな、そんな事、」

 そう思い掛けて、高杉はぞっとした。心から、心の底から“そのイメージ”を恐れた。新八が死ぬということ。もう二度と自分に微笑んでくれぬということ。

 自分が抱いた柔らかなあの身体が、物言わぬ肉になり、ただの屍となって冷たく変わり果てるその想像に。




 「──高杉っ!」

 けれど、無意識にもそのまま深く川底を覗き込もうとし、更に大きく身を乗り出そうとしていた高杉の身体を咄嗟に引っ張り戻す腕がある。ハッとして後ろを振り返れば、頬に血飛沫を飛び散らせたままの銀時の姿があった。

「てめえ何してんだよ!死にてえのか!?こんなぐっちゃぐちゃの崖の上なんざいつ崩れるか知れねーし、危ねえっつの!」
「銀時……」

 自分の敵は全て片付け、そのまま走ってきたのか、銀時の呼吸はハアハアと乱れている。だけどそれ以上に荒く呼吸を乱し、ギリっと唇を噛みしめる高杉の姿に、そして高杉の左腕に巻かれた布とそれを染め上げる血の赤に、銀時もまた何かの危機を察したらしかった。

「あ?てか高杉お前、斬られてんの?すげえ怪我じゃねーか。どうしたんだよ、てめえが斬られるとか何事…………つーか待てよ、新八は?」

 そして本能レベルでの嗅覚によるものか、銀時は新八がこの場に居ないことにすぐ気が付いた。未だ何も言えずにいる高杉の右腕をぐわしと掴み、揺さぶる勢いで尋ねてくる。

「なあ!?新八どこだよ、どこ行った!?てめえと一緒に居るんじゃねーのかよ!」

 高杉が押し黙っている事もあり、次第と銀時の顔にも焦燥が浮かんでくる。そんな鬼気迫る形相の銀時に押され、高杉はようやく噛み締めていた唇をこじ開けた。

「俺がこの腕を斬られてから、アイツが一人で敵と応戦した。ひとまず勝ったはいいが、その後……俺が崩落に巻き込まれそうになってたところを、アイツは俺を庇って……俺の代わりに、」
「はあっ!?そのままここから落ちたってのか!ふざけんなよ、てめえが付いてて何で新八がそんな事になんだよ!」
「誰が好き好んでこんな状況選ぶか!何でアイツが、むしろ俺ァ……テメェこそふざけんな!」
「はあぁ!?ちょ、今何て言い掛けたお前!つーかいつだよ!?新八がこっから落ちて、どれくらい時間経ってる!?」

 訥々と語る高杉の胸ぐらに、銀時の両手が突如として伸びる。怒りのあまりもの凄いような力で掴み締められたその手を到底振り解けず、だけど高杉もまた銀時の言葉に怒鳴り返すことしかできない。

「三分も経過してねェよ、ついさっきに決まってんだろうが!いいから手ェ離せ!退け銀時!!さっさとアイツのとこ行かねえと……!」

 しかし高杉が言葉を紡ぐより数段早く、既に高杉を離した銀時は素早く踵を返す。もう一秒でもこうしていられないとばかり、ドドドと凄い勢いでそのまま走り去っていく。

「新八ィィィィィィィィイ!!」
「おいクソ銀時!俺も行く!」

 銀時の叫びが前から流れてくるのを頼りに、高杉も必死になって銀時の後を追いかけ走る。ズキズキと痛む左腕を無理やり振り切って、今は一刻も早く川縁まで行かなければならない。
 左腕からの出血はもう止まっただろうが、だが高杉はこれまでに血を流し過ぎている。足を踏み出すたび、貧血気味の頭がくらりとするような感覚に陥る。しかしもう四の五の言ってもいられなかった。

「新八ィィィィィィィィ!!!!」
「分かったからもう黙れテメェ!」

 山間にこだまする銀時の声に、高杉の声が即座に被る。それがどんな雨の音にも勝る轟音だったことは言うまでもない。





 急ぎ足を動かした二人が、山裾を流れる川縁に馳せ参じたのはそれから数分後の事だ。


 「──新八、居たら返事しろ!喋れねーなら水音立てろ!」

 川縁に辿り着くなり、もう銀時は躊躇いもせずにじゃぶじゃぶと川に分け入っていく。高杉も急ぎ続こうとするが、

「てめえは入ってくんな!斬られてんだろうが、川なんて浸かってたらまた血ィ出るぞ!死んでもいいなら別だけどよ、つーか死ね!」

くるっと振り返った銀時に怒鳴られた。けれど高杉だとて、銀時の恫喝じみた心配で大人しくなるような男では決してない。

「うるせェ放っとけ!!」

 銀時に構わず、もはや一刻の猶予もないとばかりに轟々と流れる川にざんぶと分け入る。
 川面は酷い有様だった。降り続く雨のせいで水は茶色に濁り、その辺に浮かんだ石や、流されてきた草木がざあざあと間断なく流されていく。しかもその合間を縫うようにして、背や腹を見せた天人や幕軍の屍体も多く浮いている。

 そして、いまだ止まない雨。雨。雨──……


「クソっ!」

 怒りに任せて川面をバシャッとぶっ叩く。視界が灰色にけぶっているせいで、そして目の前に屍体が溢れ過ぎているせいで、思考が正常に纏まらない。キョロキョロと辺りを見渡してみても、新八の姿は見えない。
 もしかすると、山肌の斜面に生えた木にでも引っ掛かっているのではないか。川に落ちなかった身体は、近くの木々の葉が目隠しとなって見えないのかもしれない。
 そう思った高杉が、草の生い茂る川縁に目をやった瞬間だった。

 見慣れた黒髪と、見慣れた戦装束が水面の茶色の合間からふと顔を出したのは。