白い紙。それを手に取り、四つ折りを解いて中に綴られた文字に目を通す彼。
中には、初めまして、から始まる、私から彼女に託した一つの願い事が書き連ねてある。
きっともう二度と彼に振る舞う事は無いだろう、私の得意料理であるオムライス。
私はあまり料理が得意な方ではない。けれど大学の校内で、彼がオムライスが好きだと聞いてから、死にものぐるいで練習しただけあって、オムライスの腕前だけは中々のものだと自負していた。
彼は私の作った料理に感想をくれたことはなかったけれど、オムライスを口に運んだときだけは、その口角がほんの僅かに上向きになる。それをこっそりと見つめて、感想代わりにしていた私。
目を伏せて、ふわふわの卵をスプーンに乗せ口元へ運ぶ彼。節くれ立った彼の指が、そっと黄色い山を崩してゆく。惜しむ様に時間をかけて食べる彼の姿を見つめるのが好きだった。
私が彼女に託した願い事−−− それは、彼の好物であるオムライスを、また彼に振る舞ってあげてほしいというものだった。
手紙に書いたのは、
自分はあまり料理が得意ではないから、彼を満足させるオムライスはきっと作ってあげられなかった。
けれど貴方は料理が得意だと聞くから、きっと彼の望むものを作ることができると思う。
彼はオムライスが好きだから、貴方のその素敵な料理の腕前で、彼にそれを振る舞ってあげてほしい。
私は貴方に頼み事をできるような立場ではない。
だからこれは、頼み事ではなくて、願い事であるということ。
そしてこの手紙を介するので最後、私はもう二度と貴方たちの前に現れることはないという誓い。
手を煩わせることも、視界の端を彷徨く事もないという宣言。
最後に、
二人の時間をたくさん奪って、申し訳なかった、
という詫びと、
二人のこれからの幸せを、祈っています。
二人の(彼の)幸せを祈る言葉。
「俺の幸せ?」
手に取った紙を視界の隅でゆらゆらと揺らして、彼は私を真っ直ぐに射抜く。
彼の強い視線に、私の喉がゴクリと鳴る。
キュッ、と彼の足下の板が鳴く。一歩一歩確実にこちらへと近づいてくる彼に、私は息を呑む。
「−−− それが、アイツと一緒になることだ、と?」
え?
私は彼の発した言葉の意味が分からず、少し上にある彼の顔を仰ぎ見る。
「俺の幸せが、アイツと一緒になることだとしたら、−−−−− オマエの幸せは、一体どこにある?」
仰ぎ見た彼から、私の元へ言葉が降り注ぐ。
"彼には一生分の幸福な思い出を貰った。"
"そして初恋が実る幸せと、これからそれが散る切なさを貰う。"
"誰にも愛されなかった私の手を、唯一ひいてくれた彼。"
"そんな彼は私に幸せな日々をくれた。"
だから私も、彼にお返しをしなくては。
彼に自由を−−−−−− そして私が貰った分以上の幸福な日々を過ごす権利を、彼にかえしてあげなくては。
「私の、幸せ、」
彼に、かえしてあげなくては。
「わたしの、」
だって、私はもう一生分の幸福な想い出を、貰ったから。
だから、
彼に、返してあげなくては、
返さなくては、
( 当は たくない)
彼には幸せになって欲しい、
(本 は に たい)
彼には充分すぎるぐらいの幸せを与えてもらったから、
(いやだ、−−−−−本当は 、ずっと にいたい。ま だ、足りない、)
「−−− オマエの幸福に、俺はもう必要ないのか?」
彼のその言葉に、胸の奥底に押しとどめた想いが競り上がって、涙と一緒に溢れ出す。
「私はもう幸福にはならなくてもいい。
貴方から充分すぎるぐらい幸せをもらったから、だから、私はもう幸せにはならなくてもいい」
でも、
「−−−−− だから、私の幸福に貴方はもう、ひつよう、ない」
私の目からは次から次へと大粒の涙が零れ落ちる。
それを真っ直ぐに見つめて、手を伸ばし涙の粒を掬い取る貴方。
「それがオマエの本当に言いたいことか?」
本当はもっと他にも言いたい事はたくさんあった。
ありがとうだとか、さようならだとか。
その他にももっと伝えたい−−− 伝えるべきことは、たくさんあった。
なのに、涙に押し出されて出て来たのは、
私の心の中の一番奥底−−− 昏い部屋に閉じ込めていた、彼への本当の願い。
ごめん、
ごめんなさい。
貴方の幸せを、願いたい。
私が今までたくさん奪った分の幸せを、
これから先に貴方がたくさん得られるように、願いたい。
願いたい、のに。
なのに−−−
口から零れるのは、心の奥底に押しとどめていた本当の願い。
「しあわせになんか、ならないで」
私がいないところで、どうか幸せになんか、ならないで。
あんなにも彼のことを思っているつもりだったのに、こんなにも彼の幸せを願っているつもりだったのに、なのに私の口から零れた言葉は、どうしようもないぐらい身勝手きわまりない頼み事だった。
綺麗ごとをどれだけたくさん並べても、結局の所私の本心は彼の事がどうしようもないぐらい好きで−−− だからこそ、彼が私の居ないところで幸せになることを、許す事ができないのだ。
彼が居なくなった世界で、私は二度と幸福感を感じることはできないだろう。
けれど彼はこれから唯一無二の人を手に入れ、幸福に溢れた未来を歩んでゆく。それを心の底から祝福できると、思っていた。思っていたはずなのに、口から零れた言葉は、それとは真逆の彼の幸せを呪う言葉だったのだからお笑いぐさもいいところだ。
私の零した言葉に、彼は唇の端を緩く吊り上げ、凪いだ瞳で私を見つめる。
「分かった」
彼は私の言葉に頷いて、私の顎に指をかける。
ぐっと彼の指に力がこもり、私の顎が引き上げられる。
目の前に近づく、彼の整った顔。
それが限界まで近づいて、私の視界を埋め尽くす。
唇に触れるかさついた何か。
それがゆっくり唇の上を辿り、熱を失い冷たくなっていた私のそこに熱を移す。