私の作る食事を、黙々と口に運んだ彼。
美味しいとも、ありがとうとも言わない彼は、けれども私の作った料理を一度も残すことはなかった。
両親にも出来が悪いと匙を投げられた私は、家事もスムーズに出来ずいつだってとても時間がかかってしまったけれど、彼は一度も急かす事無く、さり気ない仕草で手を差し出して私を手伝ってくれていた。
楽しい会話があるわけではなかったけれど、共に食事をした後、リビングで過ごす時間は、私にとってはかけがえの無いものだった。
彼のことが、どうしようもないほど好きだった。
けれど、自分のペースでいいのだと、急がずゆっくり進めばいいのだと、私に手を差し出してくれた彼はもうどこにも居ない。
私はもう、一人ぼっちで、やり過ごさなくてはいけない。
震える身体は、触れれば火傷するのではないかと思えるほど熱いのに、心の奥は凍り付いた様に冷たいままだ。
ぐらりぐらりと揺れる身体。
その身体が地面に倒れる寸前、一際大きく揺れた時。
私の鼻先に香る、−−−−− 私の、死ぬほど焦がれる、彼の香り。
熱い、寒い、痛い、
頭がおかしくなった私の耳に聞こえる、此方へ走り寄るような忙しない足音。
「────っ」、
鈍くなった私の耳に届く、声。
聞き間違えるはずのない、その声の持ち主は、
────、
私の、
偽りの人である貴方、その人で。
最後に一目だけでも。
そう思って硬く閉じていた瞼を押し開いた私の視界に飛び込んで来たのは、此方に向かって手を伸ばしながら、必死の形相で駆け寄ってくる彼の姿だった。
彼の後ろで、彼女が目を見開いている。
だめだよ。
彼女に、あんな顔をさせちゃ、だめだよ。
貴方の手が抱きしめるはずなのは、私じゃない。
貴方の手が抱きしめるのは、私じゃなくて、彼女だよ。
どうしてそんな顔をして、私を見るの?
どうして、そんなに泣いているの?
そんな顔、貴方には似合わないよ。
ねえ。
どうして、
どうして。
どうして、貴方は、−−−−−− 私の、唯一じゃないの?
これ以上幸せな思い出が増えれば増えるほど、失う日がこれ以上無い程辛くなると分かっているのに、彼から与えられるそれらを欠片も取りこぼさない様にと、貪欲に手を伸ばす私はいったいどれほど愚かなのだろうか。
あと少し、もう少しだけ、と別れの日を先延ばしにすればするほど、瞼の奥に彼に寄り添い微笑みかける彼女の姿が浮かび上がる。
ありがとう、と私の作った食事に手を伸ばし、
何か手伝うことはないか、と私の身体を気遣い、
おやすみ、と、腕の中に囲い込んだ私に囁く彼。
そんな彼に、
どういたしまして、素っ気なく返す事しか出来ない私は、
大丈夫、その問いかけにいつだって、俯いて答える事しか出来ない。
おやすみなさい。
声よ、どうか震えないで。
彼にこれ以上の負担をかけさせたくはない。
だから私の喉よ、どうかこれ以上情けない声を、彼に聞かせないでくれないか。
これが彼と過ごす最後の夜だと、毎夜怯えて眠る私に降る、残酷なまでに優しい彼の声。
誰にも愛されなかった私の手を、唯一ひいてくれた彼。
そんな彼は私に幸せな日々をくれた。
だから私も、彼にお返しをしなくては。
彼に自由を−−−−−− そして私が貰った分以上の幸福な日々を過ごす権利を、彼にかえしてあげなくては。
「ありがとう」
玄関を潜ろうとする彼の背を追いかける様に、私は声を発する。
唐突な私の言葉に彼はほんの少しだけ訝しげな表情を浮かべて私を見る。
「いってらっしゃい。」
右手を上げて、彼を送り出す。
彼の姿が扉の向こうに消えて行く。
彼の頭の天辺から足の先まで全てを記憶に焼き付けたくて、私は目を凝らして彼を見つめる。
これが最後の"いってらっしゃい"だ。
(今まで)
ありがとう。−−− 私の最初で最後の、───。
「お前は俺を愛しているか?」
薄く笑んだまま、まるで明日の天気を尋ねるような声音で、私にそう問いかける彼。
「それを、私に聞くの?」
もうすぐ私を捨てる貴方が、それを私に聞いて、一体何の意味があるというのだ。
愛していると答えたい。
初めて会ったときから、貴方だけを愛していると。
けれどそれを彼に伝えることは、できない。
彼をこれ以上私のもとへ縛り付けるわけにはいかない。
彼に、愛していると、そう答えることが出来たら、どれだけ幸せだっただろうか。
答える事の出来ない、その想いが私の喉元にせり上がり、今にも零れてしまいそうになる。
「貴方は残酷な人だね」
いっそ嫌いになれたら、どんなに良かっただろうか。
彼に向かって零した言葉は、喉元を通り越して瞼までせりあがってきた熱い想いとともに、ぼろりと零れる。
彼は私の目から溢れる雫に指を伸ばして掬い取ると、目を伏せてその雫の乗った指を口元へ運んだ。
「そうだな」
(全ての人が幸せになれる未来など、どこにもないと知っていたのに)
一体どれほど疲れていたのか。
私の身じろぎにもまるで目を覚ます気配がないのだから、本気で眠っているのだろう。
こうして力の抜けた時だけ、幼さを覗かせる顔。
無防備なその顔を見上げて、私は小さく息をついた。
こうして自分の前で身を休めてくれた事を嬉しく思いつつも、何だか複雑にも思う――そんな自分は、たぶん君に惹かれ始めている。
そう。本当に、最悪なことに。
私の気持ちがどう揺れ動こうが、事実は変わらない。
この人を好きになった先に残るのは、きっと前よりも辛い、行き場のない気持ちだけだ。そんなことは、私にだってよくわかっているのに。
嫌な人だと、本気で思う。
けれど、もどかしいくらい不器用で、いちいち腹立たしくて――それでいて意外と優しかったりもするものだから、どうしていいのかわからなくなるのだ。
そっと指に触れた白い肌。
しっとりとした冷たいその頬に触れるだけで、わずかに脈打つ心臓が恨めしい。
恋なんてものは、いつもそうだ。気が付いた時にはもう落ちていて、そこから這い出る術が見つからない。そして、もがけばもがくほど深みにはまって抜け出せなくなる。
せめて、これ以上深みにはまらないように。まだ、無かったこととして目をつむれる程度で終われるように、こんな気持ちには蓋をしてしまえたらいいのに。
そんな事を思いながら、長い溜息をひとつ吐き出して。私はあどけない表情で眠る君のその顔を、飽くことなくただ眺め続けた。