――――初めまして。

その言葉に、人々が抱く思いとはどの様なものだろう。
挨拶。そう、挨拶。その程度だろう。初めて逢う人間に使う、そんな意識しかないだろう。
「………初め、まし、て?」
眼が見開かれ、息が詰まる。視界が吹き飛んでいくような、景色が一新するような、世界が壊れたような、創り直されたような感覚が、全身に走る。
違う。今使うのはこんな言葉じゃない。初めてではない。既知の間柄に初めましてなんて使わない。だが、じゃぁ何て言うんだ。おはよう? こんにちは? こんばんわ? 久しぶり? どれも違う気がした。ただ、久しぶりが一番近くはある。確かに久しい。だが、ゲームじゃあるまいし、数週間逢わなかったからって面識がリセットされる訳じゃない。初めましては違う事は変わらない。
じゃぁなんだ。
僕は何て言えば良い。初めましてと言った口がやたら乾く。
「初めまして。私は―――」
「木祖ヶ峰 一条。知ってるよ」
「当たり! でも、何で?」
「なん、で………だろうな」
本当に解らない。そう言う表情だった。僕だって解らないさ。何で君が解らないのか、僕にはさっぱり解らない。
「えっと、貴方は、縢緋 一色君で合ってる?」
何かメモの様な物を見ながら、彼女は僕に問うた。僕は黙って首を縦に振って答えた。
「そっか、良かった。なんだか、眼が醒めたらよく解らないけど、一色君の所に行かなきゃって――――知らない人なのにね」
「木祖ヶ峰、さん?」
「一条で良いよ」
「一条さん」
「なに? 何か解った?」
「いや、一条。君、先週確かに死んだよな?」
「――――――――――――――うん」



死んだ人間が生き返る例は僕の知る限り特に無いはずだ。あるにはあるんだろうが。絞首刑の結果、仮死状態から生き返ったと言う話は聞いたことがあるけれど、僕は一条が白と灰の粉末に変わっていく様を見届けている。両親には反対されたが、そこまで見なければ意味が無かったのだ。しかし、どうだろう。別に僕は幻覚と対話しているわけでも、ましてや粉末に話しかけられている訳でもない。実際、彼女は他人にも知覚されているし、対話も出来た。流石に彼女の死を知る人間に見せるわけにはいかないので、コンビニで物を買わせたのだが、そのことから物に触れることも解った。
触れてみても、冷たいと言うことはなく、暖かい。
これでは、これでは――――
「生きてるのと、変わらないね」
「あぁ」
そうだ。
誰にでも見えて、触る事が出来て、普通に体温がある。これは死人じゃない。人間だ。だが、それは絶対に違う。木祖ヶ峰 一条は死んだ。それは覆しようのない事実だ。地域の新聞にも、ニュースにも、数秒だがなった。世界は木祖ヶ峰 一条を死者とした。そのはずなのに。
「どうして、居るんだろうなぁ」
「解らないよ。眼が醒めたら………ううん。『眼が醒めたように』居たんだから」
「起きたら生きてた。そりゃ、起きれたら生きてるけど」
「ねぇ」
何だよ。僕は、少しの困惑と、苛立ちを込めてそう言った。だが、彼女は退かなかった。昔はすぐに謝っていた筈なのに。そう言うところが、彼女が彼女らしくない部分なのかもしれない。
「もしかして」
もしかして―――それを聞くため、それを僕に言うためだけに、彼女は居るのだろうか。ぞっとしない思考が頭に溢れ出す。止めてくれ。止めてくれよ。そんなことの為に。たかが、それだけの為に。死んだ人間が生き返るだと? ふざけている。狂ってる。
「もしかして―――」
そんな僕の思考を余所に、彼女は言葉を紡ぐ。
「―――私が死んだのって、一色君の所為?」
「―――その筈だったんだけどな」



死ぬために必要な事は意外と多い。簡単に死ねる人間だが、自分から死のうとすると障害も多々ある。
所謂飛び降りは、5階程度では普通に生き残れる。勿論死ぬこともあるが、足から落ちれば下半身が動かなくなるとか、その程度だ。清水の舞台から飛び降りても、生存率七割と聞く。銃だって、ドラマよろしくこめかみにぶち込むのは良いとは言い難い。最重要な脳を守る頭蓋骨を、嘗めてはいけないのだ。
「だから、私は、『私達』は十階から飛び降りたんだよね。倒れるみたいに、頭から」
頭から落ちれば、基本的に即死出来る。極論、一階からだって、打ち所が悪ければあっさり死ぬ。だから、彼女は一瞬で死んだんだ。
「風が凄く鳴って、一瞬のような、永遠みたいな時間の後に、全てが消えた」
「あぁ。眼を開いてるつもりでも、何も見えなかった。体から、何か大事な物が抜けていくみたいだった」
「私は何も感じなかったよ」
「―――――へぇ」
それが、生と死の境目か。死を認識も出来ない―――いや、だから、生きてるのか。死を自覚出来なかった彼女が。
「真っ暗じゃない。真っ白じゃない。真っ赤じゃない。全ての色と、完全な無。ううん。『私は居なかった』」
「死んだら、無。とか聞くけど」
「無なのかもしれない。有なのかもしれない。『解らない』。私はそこにいなかったし、気付いたときには『死んでいなかった』」
僕や彼女の存在は死ぬまで、と言う意味か。死んだ後、次眼が醒めるまで、そう。つまりは眠るのか。
夢も見れない眠りなんて、あまり良いとは思えなかった。
「頭から落ちて、なのになんで一色君は生きてるの? それとも、私と同じ?」
「違うよ。僕は生きてる」
そう、僕は言った。噛みしめるように言った。
「ねぇ一色君」
意地悪な、外面の良い子みたいな、甘い声を彼女は放った。彼女が死んだだろう事は、こんな生前との差位でしか解らない。いや、それだって、僕が知らなかっただけかもしれないのに。―――だからだろう。僕には彼女が何と言うか解っている。それは、世界を壊す一言だし、僕の世界が創り直される一言だ。
「私が死んだって証明して」



世の中、超能力やら幽霊やら宇宙人やらは、いる証明も微妙だが、いない証明も確固たるものではない。だから、いるとも言えるし、いないとも言われる。煮詰まった議論は、逆に中間論者を増やし、無関心な者を生み出す。詰まり、居ても居なくても問題ない。しかし、これは思考の放棄に他ならず、ようは解らないから解るまで見ない振りをしているのだ。
それは解っている。だが、解っている上で敢えて言わせて貰うなら―――
「生きていようが、死んでいようが、目の前にいる。それは変わらない」
「どちらでも同じ、か。一色君は適当だね」
「でもそうじゃないか。見れて、話せて、触れて、『死んでいる』と言う必要がない。かと言って、一条は死人なんだから」
僕はぶっきらぼうに言った。実際、嫌気が差していた。常識を揺さぶられ、頭をかき混ぜられた様な気分が、良い気分であるはずない。閉じた瞼の裏に、煌々と照る赤い火が映った気がした。
「それもそうだね。でも、信じられないなぁ。私、死んでるのか」
「あぁ、僕が狂ってなければ、一条は確かに死んでたよ」
滑ついた液体をまぶした肉に包まれる感覚が、皮膚に走る。一瞬口元を押さえるが、その手も気持ち悪く感じて、僕は歯を食いしばって吐き気を堪えた。人体クッションなんて、味わうものじゃない。
「一色君は、どうして生きてたの?」
「助けられたんだよ。一条に」
いや、本当に奇跡的だった。十階、約2,30メートルの高さを頭から落ちて、僕は何故生きているのか不思議でならない。多分、彼女が胸に僕の頭を抱え込むようにしたから、先に彼女が直撃し、その肉に衝撃を和らげられたんだろうとは考えられるが、かなり非現実的だ。コンクリでなく芝だったから? 頭からでなく肩が先に落ちたから? 愛の力? 馬鹿馬鹿しい。愛の力があるなら彼女と死なせて欲しかった位だ。――――彼女と――――もう、一度。
「多分、私が一色君の所に来たのはその為なんだよ」
「僕は一条と死に、一条は『死に直す』。そうだ。それで、何も煩わしいものはなくなる」
「丁度良かったでしょ?」
風が吹いて、僕の彼女の髪を揺らす。屋上ともなれば、それだけでも十分に恐怖を煽られるだろう。だが、一度死に損ねた身だ。別に怖くはない。
「あぁ、一人ではちょっとね」
自然と、僕は彼女の体を引き寄せていた。死んでようが生きていようが、そうだ、関係ない。微笑む。彼女も笑みを返した。体がグラリと傾く。



彼女なら何か解るかもしれない。でも、いきなり話しかけるのは失礼だろう。とは言え、聞かない訳にはいかない。仕方ない。

――――初めまして。