五作目
『私の望まない結末』
「君はさ」
屋上の鍵を手に入れる、なんて小説や漫画の中の話だと信じていたが、今私の手の中にある冷たい金属は確かな存在感を放っていた。
「縛られてるとか思ったことある?」
「――特には」
「そりゃぁ重畳」
ダッフルコートのポケットに手を突っ込む先輩は、にぃと笑ってそう言った。重畳……良いとかそう言う意味だろうか。それとも別の意味なのか。私には掴めなかった。
先輩と私は部活の先輩と後輩の関係で、しかし部活がなければ成り立たなかったであろう組み合わせだ。先輩は生徒会長で、私はクラスで全く目立たない空気キャラ。一体どんな組み合わせだ。
「俺はさ、何かに縛られてる感じがするんだよ」
「会長って、肩書きですか?」
私がそう言うと、先輩は口端を持ち上げて皮肉っぽく笑った。どんな笑い方も似合う。
「まぁ、それに限った事じゃぁないかな」
屋外なだけあって、風が強い。私の短い、女らしくない髪が靡く。スカートとソックスの隙間、素足の部分に風が当たって、私は軽く身震いした。
「まぁ、学生なんてみんな縛られてると思うよ。俺は。……いや、学生に限った話じゃないか」
そう言いながら先輩はポケットから手を引き抜く。その手には、何か黒いものが握られていた。
グリップと弾装と銃口。所謂リボルバーと呼ばれる代物だった。
ゾクリと、戦慄が走る。一瞬、その腕が水平に持ち上がり、リボルバーが私を撃ち抜くヴィジョンが見えた気がした。
「――先輩、何を?」
「あ、あぁごめんごめん。これは玩具だよ」
言われてよく見れば、何となく軽そうな感じもするし、縁の作りも黄色いプラスティックで安っぽい。
「何です?それ」
「玩具だよ」
スィと腕を上に上げ、トリガーを引くと、パァァンと乾いた音が鳴り響いた。――そう言えば、私はこの音の残滓を聞いたことがある気がする。体育祭の途中だ。
競争のスタートに使うピストルは、パンと乾いた短い音で、鳴ってすぐ消える様な音。だが、一度だけ、その音が重なった瞬間があった……気がした。
その日私は校舎に潜り込み、屋上のドアの前で読書をしていた。時たま聞こえてくる銃声と歓声を、鬱陶しく感じながら。
その時、歓声が全て止まった気がした。
――位置に着いて。
アナウンスが響く。
よぉい……知らず、私は呟いていた。
『《パ、パンァァァン》』
フライングかと、私は思った。だが、歓声は鳴り止まない。次いでアナウンスが一着や二着の生徒の名を読み上げた。
気の所為だったのだろうか。
「まぁ、良いか」
私は結局読書に戻った。
「――先輩は、体育祭でもそれを撃ちましたか?」
一瞬、先輩は眼を見開いて――しかし、すぐにいつもの緩やかな笑みに戻る。
「耳が良いんだね」
「いえ、体育祭の時、私は扉の前にいたんですよ」
「――それは、迂闊だったな」
「先輩は……先輩は、此処で何をしていたんですか?」
先輩は眼を細めた。
いつもの笑みとは違う、冷たい表情。
「それは――」
先の様に腕が持ち上がっていく。銃口は私に向き、そして――通り過ぎた。
カチャ……銃口がこめかみに押し当てられた。まるで、推理物の犯人が、最後の最後で自害する為の様に。
「せ、せんぱっ!」
思わず私は一歩踏み出した。しかし、それに構わず先輩は引き金を引く。
乾いた銃声が鳴り響いた。
弾は出ない。ただ、けたたましく音が鳴るだけだ。……それでも、私は本当に先輩が死んでしまうんじゃないかと思った。
「俺はもう、何回も死んでる」
ダラリと下げた手から、銃が滑り落ちた。銃声なんかより、更に軽々しい音を立てて、銃がコンクリートにぶつかる。
「何度も死んで、でもやっぱり縛られてるんだ。――俺は、逃げたいんだよ」
にへ……と、先輩は力無く笑った。だが、この笑みは似合わないなと、私は思う。先輩にこんな笑みは似合わない。
「死ねませんよ。そんな玩具じゃ」
「そうだよな。逃げたい、逃げたいって良いながら、逃げるのから逃げてたんだよ。俺は」
解ってたよ。先輩はそう言った。
「君は……、俺を殺せるかい?」
銃が入っていたのとは逆のポケットから手を引き抜く。小さな、刃渡り5cm位の、チャチなナイフ。チャチだが、刃はきちんと入っている様だ。
「……5cmだ。この刃は5cm。心臓を突けば、死ぬんじゃないかな」
パチンと刃を仕舞い、先輩はナイフを滑らせた。私の爪先にナイフが当たる。
「もう一度聞きたい。君は、縛られてるって思った事はある?」
ゾクと、私の背に嫌な物が走った。屈んでナイフを拾う。小さくも、そこそこの重量を感じさせた。
「――何で、私なんです?」
「俺、小説とか好きでさ」
言葉を紡ぐ。だが、何となくペラッちぃ気がした。
「死ぬなら、好きな人に殺されたいんだよ」
「告白ですか」
「告白だね」
パチリと刃がロックされ、私はグリップを握り込む。
「私も好きでした」
でした。でした。でした。
ゆっくりと、歩み寄る。触れられる距離。
ナイフの先を胸に当て、少し力を込めた。コートの布を裂いて、静かにナイフが沈み込む。
「――ありがとう」
先輩はそう確かに言った。
「なーんちゃって」
私は無事に三年に進級した。その後、先輩の名が新聞の一画賑わす事もないので、先輩は先輩なりに生きているんだろう。
ガチャンと、屋上に繋がる扉が開いた。1年前と変わらぬ、軽いのか重いのか解らない半端な重量感を味わいつつ、私はコンクリートに足をつけた。
「……あるかな……」
端に置かれたバケツの中、裏返され、雨に濡れないようにされた内側。教師にも見つからず、未だそこには玩具と本物が隠されていた。
「杜撰だなぁ、管理」
ナイフをポケットに仕舞い、銃を手に取る。ナイフの切っ先に数mmだけ付着した赤が、あの日を思い起こす。
「……ごめんなさい」
皮膚を少し、薄皮よりは厚く貫いた所で、私はナイフを落とした。
カシャと金属質な音が鳴る。
片目からは、知らず涙が流れていた。
「好きな人を……殺せるわけないじゃないですか……」
ズル……と、先輩に寄りかかるように私は崩れ落ちた。先輩の顔は見えない。
「俺こそ、ごめん」
不意に支えが消える。前に倒れそうになって、急いで手をついた。
――バタン
鉄扉の閉まる音が、鳴り響いた。
「勝手な先輩だったなぁ」
銃をクルクル回しながら、私は振り返る。今思えば、先輩は私を好きなんかじゃなかったんだろう。先輩には、死ぬ度胸も、好きな人に殺される度胸も無かった――と思ってる。
「ま、良いか」
銃をこめかみに向ける。
「あー、受験めんでーー」
カシンとへたれた音が鳴った。