【Dangerous and Delicious】
『やあ宗一くん、元気?』
声を聞くだけで、胡散臭い笑顔の男が思い出されて宗一の眉間は盛大に顰められた。そろそろ帰るかと、白衣を脱いで帰り支度をしているところに磯貝から着信があったのだ。
「……なんだよ」
はあ、とひとつため息をついてから返事をする。
『いやあ、森永くん忙しくてあんまり帰ってこないってかなこちゃんから聞いてさあ、どうしてるかなって思って。親心?みたいな?』
ご丁寧に語尾にからかうような含み笑いをトッピングして、磯貝は優しいなあ、俺、と悦に入る。
「お前は親でも兄弟でもねえだろ!」
『冷たいなあ、僕たち親友だって言っただろ』
「誰と誰が親友だ!切るぞ!」
ロッカーの扉を威勢よく閉めて、結構なボリュームで叫ぶ。
くるりと研究室の方へ向き直ると、手伝いの学生が青ざめて固まっていた。「親でも兄弟でもない」だの「切る」だのという単語をドスの効いた低音で叫ばれては無理もないが、宗一には生憎とそれを慮る余裕がなかった。
「た、たつみせんぱいおつかれさまでした…」
若干震えながら挨拶されて、「おう、お疲れ。お先」と返して研究室を後にする。
『あれ、もしかしてまだ実験中?』
今さらながら磯貝が気を使って聞いてきた。
「いやこれから帰るとこだ」
『へえ、宗一くんにしちゃ早いほうじゃないか?』
「そうかもな。この間まで忙しかったが、ちょっと今落ち着いてるかもしれん」
ふーん、と電話の向こうで磯貝が相槌を打つ。
「って、そっちこそまだ会社なんじゃねえのか」
『今日は休日出勤の振り替えで休み。これから夕飯の買い物でもしようかと』
休みの日にわざわざ自分に電話なんかしてこなくてもいいのに、と宗一の頬が引きつる。
『宗一くんは食事どうするの』
「適当になんか食って帰る」
研究棟を出ると、世界は夕焼けの橙色に染まっている。以前は森永も一緒に歩いた道を、今は一人で歩いていく。
『森永くん、帰ってくるの遅いの?』
「あー最近は遅いな。俺より遅い時がある」
自宅アパートに近い、そこそこ安くてそこそこ美味しい店を脳内で検索しながら、宗一は磯貝と会話を続けた。
『学生と社会人じゃ生活時間も違うから、一緒に住んでてもあんまり話とかしないんじゃない?』
「まあな。土日俺も大学行ったりするし」
『二人で出かけたりしないの?』
「は?」
『デートしたりしないの、って』
「デートってなんだよ!するかそんなん!」
電話口に噛み付きそうな勢いで返事をする。磯貝と話しているとなぜか必ずこうしてからかわれるのだ。
『じゃあ森永くん今かなり飢えてそうだねえ。ごはんでも作ってあげたら?』
「な、なんで俺が作ってやらなきゃなんねーんだよっ」
『だって帰りが遅いんなら、それから作るなんて大変じゃないか。いつも外食なの?』
「い、いや…あいつが作ってったやつ食ったり…」
『ああ、作り置き。でもそれって結構森永くん大変なんじゃない?少しは手伝ってあげなよ。一緒に住んでるんだから』
「あいつが勝手にやってんだろっ。俺が口出しとかすると余計…」
『家事苦手そうだもんねえ、宗一くん』
哀れまれたように思って、宗一はつい「そんなことねえっ俺だってちょっとは…!」と返してしまった。
『じゃあせっかく早く帰れるんだから、スーパー行って買い物しなよ』
「か、買い物ったって何買えばいいんだよ…」
森永の手伝いをすると、あいつは嬉しそうな顔をするんだろうか。普段自主的に家事をすることがないため、何をすればいいのか分からない。
『んー、チャーハンとか焼きそばとかなら一皿で済むし、炒めればなんとかなるよ』
「炒めるだけか…」
それなら、なんとかできるかもしれない。
『キャベツと豚肉と玉葱と…ごはんってある?』
「知らん」
冷蔵庫の中身など全然把握していないため、思い浮かべる間もなく即答する。
『じゃあ焼きそばの方が無難かなあ。ソース付いてるしね』
磯貝も外に出たらしく、車の音が聞こえる。
「……キャベツと豚肉と玉葱と……あと何買えばいいんだ」
『人参とかもやし?あ、焼きそば忘れないようにね!』
「分かった」
しばらく歩いてスーパーに着くと、カゴを手に取って、少し考えた。携帯を手に持ったままカゴを持つと、両手が塞がる。
『宗一くん?どした?』
「いや…このままだと買い物しづらい。切る」
『あーはいはい。そうだね。後でまた電話するよ』
通話が切れた携帯をポケットに突っ込むと、途端に不安になる。頭の中の買い物メモに書かれた食材をぶつぶつと繰り返す。
「キャベツ…豚肉…玉葱…、人参、もやし、焼きそば」
大きなキャベツと玉葱大玉ネット一袋、人参三本入り一袋、もやし1袋。野菜売場を通り過ぎて肉売場へ。
「…豚肉…」
種類がありすぎて立ち尽くす。松田さんに買い物を頼まれる時は、ロースだなんだと細かく指示があるのを思い出す。
磯貝の顔が浮かんで、ポケットの中の携帯を探るが、いちいち訊くのも恥ずかしかった。
「…こんなん適当でいいだろ」
目に付いた大きなパックを手に取った。切らなくて済みそうな薄切り肉、500gの特売品。
「あとは焼きそば…」
ポケットに入れたままの手に触れていた携帯が鳴った。
「なんだよ」
『あっ宗一くん。生姜追加ね〜、生姜。チューブでいいから』
それだけ言って、磯貝からの電話は切れた。豚肉のことを訊けば良かったと思った。
ずっしりと重いビニール袋をぶら下げて、帰宅した。暗い玄関に明かりをつけると、少しだけほっとする。
「ただいま」
それに答えるように、携帯が鳴った。
「…はい」
『いやー寒い寒い!名古屋も寒い?』
「まあな」
キッチンにビニール袋を置いて、耳元の携帯を肩に挟んだ。袋から食材を取り出して並べる。
『あんまり寒いから今日は鍋にしたよ』
「鍋も美味そうだな」
『前に名古屋でご馳走になった鍋美味しかったよなー。いいなあ、宗一くんは』
「は?」
『いっつも愛情こもった手料理食べられてさー』
「ぁ…い…」
手が止まる。ガサガサしていた袋の音がぴたりと止む。
『あ、今赤くなってるんじゃない?可愛いよな、宗一くんは♪』
「かっかわいくなんかねー!」
『そういうとこが可愛いんだよねー』
「うっさい!切る!」
『いやいや切るのは食材だから』
「何から切ればいいんだよ!」
『キャベツかな』
包丁の置き場所もいまいちよく分からず、あちこち開けて確認する。
『一玉買ってきたの?全部は多いから…とりあえず四分の一にして』
「四分の一だな」
キャベツに包丁を突き刺し、なんとか切り分ける。固い芯のところもそのままだが磯貝には見えていないので説明はない。ザルに入れて水で洗えと言われても、ザルを探すのも時間がかかる。
転がる人参をどうにかねじ伏せ、もやしを洗ってザルに上げる。
『玉葱は三センチくらいに切ればいいから』
既に30分は経っている。まだ食材が切り終わらない。
「皮って何枚むけばいいんだ」
『えっそこから?』
四苦八苦しながら皮をむき、涙を流しながら玉葱も刻む。涙のせいで手元が見えにくく、指を切ってしまって慌てて絆創膏を巻く。
「はあ…出来上がる気がしねえ…」
玉葱が切れたらまた電話してね、と言われて一旦電話は切れている。
ため息をつきながらリビングのソファに座り、煙草に火をつけた。
「腹減ったな…」
生野菜の山ができたキッチンは既にかなりの惨状だった。いつも森永が料理しているときは、もっと綺麗な気がする。
煙草を1本吸って、意を決して立ち上がる。あとは炒めるだけだ。
「フライパン…これでいいのか」
フライパンを取り出すと、また電話が鳴った。
「うっさいなこれから炒めるんだよ!」
『心配してるんだよ。俺もう食べてるよー』
「チッ、とことんむかつく奴だな!」
『油引いて、生姜入れて少しあっためて』
「生姜ってどんくらい入れるんだ」
『うーんそっちの野菜の分量がいまいちわかんないからなあ。5センチくらい出せばいいんじゃない?』
「5センチ…」
慎重に搾り出す宗一の眉間に皺が寄る。
『生姜いっぱい入れると美味しいよ』
なんだか少ない気がして、多めに入れた。
『焦げないようにして、豚肉から炒めてー』
「よし」
じゅう、といい音が聞こえて、磯貝の口元がふっと緩んだ。こういう時は結構素直だ。
しばらくして、宗一が困ったような声を出した。
「…これいつまで炒めるんだ」
『肉の赤いとこが白くなったら大丈夫だよ。そしたら玉葱と人参入れて、キャベツ入れて、もやし入れて』
「順序があるんだな」
『まあ大体で大丈夫だよ。固めの野菜から火を通すんだ』
「全部入れたらフライパンから溢れたんだが」
『えっ』
しばしの無言のあと、磯貝は火が通った食材を皿に出して、少しずつ炒めるように指示した。
その後は塩と胡椒の量を迷っている内に野菜が焦げたり、フライパンに焼きそばがひっついたりして何度も作り直した。
それでも、なんとか皿の上にはソース焼きそばが出来上がった。所要時間、二時間超。
「できた…」
『よくやったな、宗一くん…』
磯貝は応援はしていたものの、まさかの耐久レースにまるでいつぞやのカラオケの仕返しでもされたような気になる。
「ふっ、俺が本気を出せばこんなものだ」
『お疲れさん、じゃあね。森永くんによろしく』
長い長い磯貝との電話がやっと終わり、携帯を閉じようとして、宗一はメール作成画面を立ち上げた。
残業を終え、そろそろ帰り支度を始めようとしていた森永は、携帯の着信音に気付いた。
「!先輩からだ!うわあ珍しい…何なに?」
早く帰って来い メシは食ってくるな
文面を読み終えると、森永はPCの電源を急いで落とし、ものすごい勢いでフロアから出て行った。
「先輩!先輩、ただいま!」
息を切らして部屋に飛び込んできた森永の目に映ったのは、リビングのテーブルに並べられた皿。
「…おかえり」
「あの、まさかと思って…っ」
荒い息を飲み込んでむせる。
「自分に都合のいい妄想はしちゃいけないと思ってっ、でも、これ、先輩が作ってくれたんですか…っ!」
「…おう」
ソファで本を読みながら待っていた宗一は、ぎゅっと抱きついてきた森永をなんとなく引き剥がせなくて、されるがままになっていた。
「食べていいですか」
「手洗ってうがいして着替えて来てからな」
「はい!」
仕事の疲れなど全部吹き飛んだような顔で笑った。
それを見た宗一も、むずむずするような嬉しさを感じる。
「いただきます!」
うわあ、うわあ、と言いながらしばらく眺めたり写真を撮ったりしていたが、宗一に「早く食え!」と叱られてやっと箸を手に取った。
一口、口に入れて何度か噛みしめた森永の目から、涙が零れ落ちる。
「ば、ばか!何泣いてんだよ!」
「だって、嬉しくて…!先輩が俺のために、俺のために…!」
「大げさなんだよお前はっ。大体焼きそばなんて炒めるだけだろ!」
「すっごい美味しいです」
「キャベツと玉葱と人参ともやしと豚肉が入ってんだぞ、あと生姜な!ちょっと隠し味ってやつか?豚肉先に炒めるんだ。その後野菜。ちょっと焦げてるけど、まあ食えるだろ。てか俺だって料理くらいできんだよ!」
森永がまくし立てる宗一をにこにこしながら見つめる。それに気付いて宗一は顔を赤くした。
調子に乗って喋りすぎていたと恥ずかしくなる。
「先輩は食べないの?ほんとに美味しいのに」
「…いただきます」
かなり塩胡椒のきいた味付けだったが、味見した時よりも美味しい気がした。
「ちょっと塩辛いけどまあ食えるな」
「そうですね、でも俺にはちょうどいいですよ。先輩、ありがとう。すごく嬉しいです」
「べ、別に大したことしてねえし。早く帰ってきたから作っただけだし!」
ふいとそっぽを向く宗一の赤い頬が愛しい。愛しくて、たまらなくなる。
「こんな、指に怪我までして…」
森永の手が優しく宗一の絆創膏だらけの指に触れる。
「ね、先輩。もうすぐクリスマスだから、今度は一緒に料理しましょう。俺が教えてあげるから」
「お、お前が作るんならそっちの方が美味いだろ」
「一緒に作ったらもっと美味しいと思うよ。先輩が俺のこと思う気持ちも入るでしょ」
「恥ずかしいこと言ってんじゃねえ」
宗一の顔は赤くなるばかりで、森永の方を見ることができない。
「だって、先輩が作ったってだけでこんなに美味しいんだもん。絶対愛がこもって…」
恥ずかしさに耐えかねて、宗一は立ち上がった。
「先輩、まだ残ってるよ」
「う…」
「早く食べて…それで、今日はずっと一緒にいてください」
嬉しそうに細められた目と、傷だらけの指を掴む優しい手に、宗一は捕らわれてしまうしかなかった。
翌朝、目覚ましのアラーム音の前に、携帯のバイブ音で目が覚めた宗一は、ベッドサイドの眼鏡をかけて携帯を開いた。
「メール…?」
宗一くん、おはよう!昨日はお疲れさん。
ちゃんと隠し味は入れたかな?宗一くんの 愛♪
ハートマークがピカピカ光る絵文字だらけのメールに、一気に目が覚め羞恥心が蘇る。
恥ずかしさに打ち震えていると、宗一の裸の体は森永の腕に抱え直された。
「せんぱい…震えてる。さむい?」
「てっ…てめえのせいじゃ!」
起きぬけに一発森永に食らわせて、宗一はひたすら羞恥に耐えるしかなかった。
end.
兄さんはどれだけ料理ができるのかなーっと思いながら、最後はらぶらぶしてもらいました(当社比)。
皆様、良いクリスマスをお過ごしくださいませ!