万斉さんと吉原で春を売る女の子のお話。
ツッキーのお話と、こちらと、微妙にリンクしています。
どちらから先に読んでも、最後にはハッピーエンドになるようなイメージです、一応。
本当は長編並みに設定が色々あるのですが、今後鬼兵隊がどんな風に出てくるかも分からないし、万斉さんはミステリアスなままでいて欲しい気がしなくもないので短編で。
でもそそられます、万ちゃん。
白粉の匂い、陰湿な甘、挑発的な癒し。どれもが非現実的で、現実を生きる男達の欲望を満たしていた。それが、多額の金と女の人格を無視するというもはや大きいのかも小さいのかも分からない犠牲の上に成り立っていることなど、誰もが綺麗さっぱり忘れてしまっていた。裸で、真紅の布団の上に両の手足をすらりと投げ出して、女はぼんやりと自分の上に圧し掛かっている男を見上げた。
「ぬしさま、万斉さま。」
女が口を開くと、万斉は眉間に寄る皺を伸ばそうともしないで顔を歪めた。普段のサングラスを取った姿は、いつも暗闇の中にあるのではっきりと見たことはない。いつもいつも、闇の中。ただ、この男に関して何も知らないわけでは無かった。仕切られた電子的な画面の向こう側で、笑顔を振り撒く歌姫のプロデューサー、だと。それがどんな意味を成す仕事なのかは、分からなかった。幼い頃からこの街に囚われの身。世の中の特殊な職業を知るには、自由に情報を得られる年月を得てはいなかった。
「余計なお喋りは無用で御座る。」
「いいえ万斉さま、ひとつだけでよいのです。わっちゃのはなし、おききになってくださいまし。」
「お前は私の欲を満たすためにここにいるので御座る。それ以外何の役も果たさない。」
「ならあたしに求めるのもやめて。」
女は、きっぱりと言った。廓言葉も忘れて、とろりと甘く溶けるように口にした。
「…何の事で御座ろう。」
聡明な男は、聡明な女を嫌う。男はゆるりと顔を上げて、淫靡な手の動きをぴたりと止めた。遠い宇宙の果ての国にいるようなリアリティの無さに嫌気が差して、女は唇を歪めた。刺すほどに鋭い視線を投げ付けると、万斉は微かに身じろいだ。
「万斉さま、わっちはもうあのころのわっちではありんせんのです。ここでみをうるただのゆうじょでありんす。あなたのちいんであったころのわっちではありんせんのです。」
万斉はじっと黙ったまま女を見据えていた。女には、それが何か言葉を探して彷徨う見知った頃の少年のようにも見えた。
「名を捨て、私は全てを捨ててしまいんした。ここへ来る前のことは、ぜんぶ。だからどうかぬしさまも、」
「出来ん!」
万斉は首を大きく振って、大きな声を出した。常冷静で沈着な彼の、こんなに大きな声を聴いたのは初めてのことだった。
「出来ん。そんなことが出来たら、とっく昔に…」
「それいじょうをくちになさるおつもりでございんしたら、わっちにもかんがえがありんす。」
「そのふざけた話し方をやめろ!」
「できんせんことでありんす。わっちはこのまちのめろうでありんす。この廓ことばも、すくないきょうじのひとつでありんす。」
女がわざと廓言葉を多様すると、男は今度こそ機嫌を損ねたようであった。誇り高く結い上げられた髪をわっしと一掴みにし、無意味なほど重ねられた布団に伏していた女をぐいと引き起こした。その拍子にぱらりと鬘が落ちて、万斉はまた少し不機嫌になった。
「こんなところは出るで御座る。拙者が連れ出そう。」
「できんせんのです。そんなことができたら、」
「今の拙者には、出来申さぬことはそう多くない。吉原にすら陽が上ったように。」
女は顔を上げ、万斉の顔を見た。本当だろうか。もう何度、この甘い誘惑に飲み込まれ、そして吐き出されたのか。女は顔を伏せた。同時に、考えることもやめた。思考を止めてしまえば、もう悩むことなど何も無い。そうやって放棄することだけが、彼女に許された唯一の逃げ道なのだから。
「金ならある。ここの人間に義理も通せる。拙者と行こう。」
その言葉を聞いた途端、女は万斉を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ぬしさまと一緒に行ったところで、少女の頃のように気兼ねなくお天道様におはようを言うことはもう叶いんせんのです。」
女がたどたどしく口にすると、男は女の腕を強く掴んでいた手の力を、少し、緩めた。それに失笑を誘われて、女はまた唇をゆるりと歪めた。
「ここではないせかいにみをおくしあわせも、もうわすれんした。あまりにとおいことで。」
「何人もの男に躰を弄ばれてもか。」
「あい。」
「拙者と行くよりもか。」
「あい。」
「拙者が嫌いか。」
「いいえ。」
「では好きか。」
「…あい。」
「なら!」
言う事を聞かない女に腹が立ったのか、万斉は髪を掴んだまま大きく前後に振った。髪の毛を支える皮膚が痛い痛いと悲鳴を上げるのが聞こえた気がした。しかし痛みはすぐに麻痺して、じんわりと熱いだけになった。万斉が少しでも手を緩めれば痛みはすぐに戻ってくることは分かっていた。それは人生においても同じことを、女は知っていた。
「むりでありんす。わっちは、ここをでてまではんざいしゃになりたくはありんせん。わっちがぬしさまのやっていることをしらないとでもおもいんしたか?わっちはむかしからずっとこどもなわけではありんせん!せまいせかいのなかでも、さいごのよしあしくらいはわかるのでありんす。」
「ぬしには関わらせない。約束する!」
「やくそくやくそくやくそく、やくそく、やくそく、やくそくやくそくやくそくやくそく、やくそくやくそくやくそく、やくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそくやくそく、やくそくやくそく。いつはたされるともわからぬものをまつは、廓のなかもそともおなじでありんすなぁ。うきよは、けっきょくどこへいってもおなじなのでありんしょう。ねぇぬしさま。」
「…。」
「あたし、ねぇ万ちゃん、この狭い世界で分かっちゃったの。万ちゃんは遅すぎて、あたしは待てなかった。それだけのことなんだよ。」
女は万斉に背を向けて、流れる涙を必死に隠した。彼の言った通り、この馬鹿げた話し方を今すぐやめて、彼の腕に飛び込んで、思考も何もかも委ねてしまったら。それはどんなに甘美で素晴らしいことだろうか。何度夢見たことだろうか。
「いってください、ぬしさま。そしてもう二度とおいでくださいますな。わっちはぬしさまの世界を受け入れられない、ぬしさまはあなたの世界を捨てられない、どちらが悪いということでもありんせん。なにもかもを捨ててしまうには、」
「…遅すぎたと?」
「年を取りすぎんした。」
「いつなら良かったんだ!」
「わっちにそれを言わせるのでありんすか、ぬしさま?最初にやくそくをやぶったのはぬしさまなのに?いまさら償えるとおもっていんすか。」
女が言うと、万斉は何かで頬を殴られたような顔をして、押し黙ってしまった。その姿を見て、女は髪を鷲掴んでいた万斉の手を振り払い、その場に立ち上がった。
「幼き頃のわっちは、ぬしさまがいつか真っ当な仕事に就いたら迎えに来て下さるという言葉ひとつを胸に抱いて生きてきたのでありんす。結局ぬしさまはそっちの世界を捨てられなかった。わっちは何年も何年も何年も待つうちに、もうすっかり…、」
万斉も立ち上がると、言葉の続きを塞き止めるかのように女をぎゅうっと抱きしめた。
しかし女はただもう笑うだけで、やがて万斉が静かに部屋を後にする時までずっと、涙のひとつもこぼさずに笑っていた。
【涕涙一垂】
BGM【尖った手口】椎名林檎
それでもお前を奪うつもりだと言ったら、お前はどんな顔をするだろうか。