「――……ク……イーク。イークったら」
誰かがずっと耳元で名前を呼んでいた。
深い深い暗闇の底で、イークはその声を聞く。……一体誰だ。しつこいな。
体感的に、横になってからまだそれほど時間は経っていなかった。今夜はリーノの町の西で野宿だ。いや、今夜
もと言うべきか。
ベルントらゲヴァルト一行と町を離れて早二日。昨夜は自分が見張り当番だったおかげで、さすがに今夜は気力より眠気が勝っていた。明日の午前中には目的のルシェッロ村へ到着する予定だし、休めるうちに休んでおきたい。だのに安眠を妨げるこの声の主は誰だ。いっそ無視して深い眠りに落ちてしまおうか――。
「ちょっと、イーク! 起きろって言ってるでしょ!」
「だっ……!?」
そんな邪なことを考えていたイークを、次の瞬間天罰が襲った。激しい揺れと共に天地がひっくり返り、宙空へ投げ出される。
ほどなく顔面から木の床に叩きつけられ、あまりの衝撃に目が回った。突然すぎて何が起きたのか理解できず、真っ赤に腫れた額を押さえながら身を起こすと、すかさず上から覗き込んできた人影がある。
「こら、ねぼすけ! 朝ごはんもうできてるよ! さっさと起きた起きた!」
寝起きの頭にキンキンと響く高い声。
こちらを覗き込んだ拍子に床へ垂れる赤い髪。
窓から射し込む朝日を映し、キラキラ輝いているのは空色の瞳。
そこでイークは思わず「は?」と声を上げた。
まさか、ここは。
「……カミラ?」
そんなはずはなかった。そんなはずはないのだが、今イークの目の前にいるその少女は紛れもなく、故郷にいるはずの幼馴染み、カミラだった。
親友の妹で、イークにとっても妹分みたいな存在の少女である。歳はイークの六つ下。つまり今は十四歳。
互いに両親を亡くした身というのもあって、故郷にいる間、朝晩の食事はいつも彼女が用意してくれていた。特に朝はこうしてイークを叩き起こしに来るのが彼女の日課だ。確かに数ヶ月前まではそれが当たり前の日常だった。でも。
「なんで……俺は、フィロメーナたちとルシェッロ村を目指してたはず――」
「はあ? ルシェッロ村って? ……さては寝ぼけてるでしょ? まったくもー、いつまで経っても世話が焼けるんだから。お兄ちゃんももう起きてるし、早く顔洗って目を覚ましてきてよね」
イークの戸惑いを無慈悲に一刀両断して、呆れ顔のカミラはすたすたと視界から出ていった。しかし未だこの情景が信じられず、目だけで彼女の動きを追えば、カミラは昨夜イークが脱ぎ捨てた衣類をせっせと集めている。
そんなカミラの隣には、主人を振り落として揺れている網状の吊床。恐らく惰眠を貪っていたイークを起こすため、カミラがひっくり返したのだろう。
更にあたりを見渡せば、そこには見飽きるほど見慣れた丸太積みの壁。現在イークが倒れ込んでいるのは、ごくごく一般的なルミジャフタ風木造家屋の中だった。
イークを裏切った吊床以外に目立つものと言えば、ちょっとした作業机と衣裳棚くらい。ここまで殺風景だと見間違いようがないから滑稽だ。
そこは間違いなく故郷ルミジャフタにあるイークの家だった。
開けっ放しの窓の向こうには、うんざりするほどの緑、緑、緑。気候学的に言うと亜熱帯気候とかいう気候に分類されるらしいルミジャフタ郷は、周囲を鬱蒼とした密林に囲まれている。
気温は一年中夏みたいに蒸し暑く、冬も雨こそ降れど雪は降らない。ギーッチョ、ギーッチョ、ギーッチョ、と聞こえる耳障りなアレは夏の足音を知らせる
鉄切虫の鳴き声だ。
つまり季節は初夏。さっきまでイークがいたはずのトラモント黄皇国も、ちょうどそのくらいの時期だった。
(……アレは本当に夢、だったのか)
それにしては手触りがやけに現実味を帯びていて、記憶も鮮明に残っている。イークは元々あまり夢を見ない。仮に見たとしても起きると同時に記憶がぼやけて、色も形も分からないあやふやな残滓が残るだけ、というパターンが多い。
だのにこの記憶の鮮やかさは何だ。だいたい夢にしては長すぎやしないか?
自分は夢の中で半月ほども旅をしていた。トラモント黄皇国のルシェッロ村とリーノの町を行ったり来たり。いや、北の黄皇国にそんな名前の村や町があるのかなんて、ここからは分からないけれど。
(けど……カラリワリもあるし、な)
と、イークはようよう体を起こして、左耳のあたりに垂れる青い羽根飾りへ手をやった。夢の中ではこの羽根飾りを、ルシェッロ村の村長へ質として預けていたはずだ。
だけど冷静になって考えれば、母の形見であるコレを自分が易々と他人の手に渡したりするだろうか。いや、しない。
ということはあれは夢だ。ルシェッロ村で村長たちからの嘆願を受けたのも、リーノの町でフィロメーナやベルントといった面々と出会ったのも、全部全部夢だったのだ――
「……」
「あーっ!? ちょっとこれ、ひどい! 破けてるじゃない!」
と、ときにカミラの悲鳴が聞こえて、イークはぼんやり視線をやった。朝から何を騒いでいるのかと思えば、彼女は隅の籠に投げ入れてあった上衣を広げ、ひどい膨れっ面をしている。
薄い青地に黄色の糸で刺繍がしてある一着だった。それを見てイークも「げ」と声を上げる。裾から派手に裂けた後身頃を見た途端、何がどうしてそうなったのか、その記憶がまざまざと脳裏に甦ってきたからだ。
「あ、あー、悪い、それ……この前、狩りの途中で枝に引っかけて……」
「……」
「い、いや、けど、時間を見つけて自分で縫うつもりだったんだよ。そこに入れてたのは、それを忘れないようにするためで……」
「……別にもう着ないなら捨ててもいいですけど?」
「だ、誰も着ないとは言ってないだろ」
「だけどこんなに破けちゃったら、縫っても目立つわよ。それでも着るの?」
「ああ、着る。普段着として着るのは無理でも、作業着にはなるだろ」
「ふーん……じゃ、今のうちに私が縫ったげる。イークはその間に顔洗って着替えてきて。早くしないと、お兄ちゃんが待ってるんだから」
カミラはちょっと口を尖らせながらそう言うと、破れた衣服を手にさっさと部屋を出ていった。勝手知ったる何とやら、カミラはこの家の裁縫道具がどこにしまってあるのか、調理道具はどこに何があるのか、洗濯物はどこに干せばいいのかなどなど、それらすべてを完璧に把握している。
イークが手巾を携えあとを追うと、案の定彼女は居間の椅子に腰かけて、早速縫い物を始めていた。卓に置かれた裁縫道具一式は、昔イークの母が大切に使っていたものだ。
そんなものを引っ張り出してまでカミラがあの服にこだわるのは、きっと自分の手で糸を紡ぎ、機を織って手作りした上衣だからだろう。ルミジャフタは外界との交流がほとんどないため、住人の衣服はみんな郷の女たちが賄っている。
綿花や
家畜の毛から糸を撚るところから始まり、染色も機織りもすべて郷の人間が手がけるのだった。女たちはそうしてできた布地を分け合い、家族のための衣服を作る。
しかしイークは長らく一人暮らしだから、時折近所のお節介な女房たちが勝手に服を作っては勝手に置いていくというのが定番となりつつあった。そうして溜まりに溜まった衣服の中には、カミラが縫ってくれたものも何着かある。
兄とイークの背格好が似ているおかげか、彼女の作る衣服は着てみるといつもしっくりときて、実は結構重宝していた。その結果着る機会が増えて汚したり破いたりしてしまうことが多いのだが、カミラはそれを「なんで私の服ばっかり?」と思っている節がある。
だったら一言「お前の服が一番着心地がいいからだよ」と言ってやればいい。毎度そう思うのに、なまじ付き合いが長いせいで素直にそう伝えられないのがこの関係の弊害だった。
いや、単純にお前が口下手なだけだろと言われたら、今のところイークに反論の余地はないのだけれど。
「――できたっ」
やがてイークが外の井戸で顔を洗い、寝汗をかいた体もサッと拭って家へ戻ると、カミラが完成した上衣を広げて会心の笑みを浮かべていた。あれだけ派手に破れていたのに仕事が早い。「どれ」と言って完成品を受け取れば、背面にできた裂け目は綺麗に縫合されていた。
生地の色よりやや濃いめの青い糸は、目立つと言えば目立つが思っていたほどではない。裁縫なんて一切合切カミラに頼りきりの自分が縫っていたらこうはいかなかっただろう。本人に見つかったのは想定外だったが、正直言って助かった。
「ああ、これなら充分着れるな。思ってたよりずっとマシだ」
「そりゃーカミラさんが直して差し上げたんですから当然よ。ただ縫い目が目立たないように工夫した分、着たときに後ろがちょっと突っ張るかもしれないから、着心地が悪かったらそのときは教えて」
「分かった。ちょっと待ってろ」
「まっ……!?」
ならば早速修繕後の着心地を確かめてみよう。そう思いその場で寝間着を脱ぎ捨てたら、隣でカミラが奇声を上げた。
何だと思って目をやれば、彼女は椅子に座ったまま思い切り顔を逸している。髪も赤いので分かりにくいが、よくよく見れば耳まで真っ赤だ。……下まで脱いだわけでもあるまいし、何を過剰反応しているんだこいつは。
「おい。何だよ、急にカマトトぶって」
「かっ、カマトトぶるって言うか、イークこそもうちょっと考えたら!? わ、私だって来年から成人なんですけど……!?」
「何を今更……そう言うお前だってたまに下着みたいな格好でうろついてるだろ」
「あ、あれは家の中だけだし! それに人の目があるときは着てないもん!」
「お前の中では俺は人≠ノ入ってないのか?」
「そもそもイークは私のこと女だと思ってないでしょ?」
「ああ。まったく思ってない」
「少しは否定しなさいよ!」
激しく地団駄を踏むカミラを余所に、イークは薄青い上衣へ袖を通した。前開きのそれは身頃にいくつか留め具がついていて、いつものように一番上のものだけ除きすべてきちんと閉めてみる。
そうすると生地が突っ張るかもしれないとカミラは言ったが、特に違和感や動きづらさは感じなかった。その旨を伝えれば彼女はぶつくさ言いながらも後ろへ回り、改めて縫い目を確かめている。
「……まあ、着心地が変わらないなら良かったけど。もう狩りには着ていかないでね。たぶんちょっと引っかけただけでほつれちゃうから」
「ああ。これからは家畜番か野良仕事のときの作業着にする。問題は
羊駝どもだな。あいつらが噛みついて引っ張らなきゃいいんだが」
「イーク、何故か羊駝たちに異様に好かれてるもんねー。小屋から出すとみんな大喜びでイークに突撃しに行くし、柵の中にいても隙あらばイークの髪とか服とか引っ張ろうとするし」
「あれは好かれてるのか……? 俺はずっと嫌がらせかと……」
「イークをおちょくるのが好きってことは、略してイークが好きってことでしょ?」
「……なるほど。つまりお前もあの羊駝どもと同じってことか」
「さあ? 何のお話か分かりませーん」
カミラはニヤニヤしながらそう言うと、傍らに置いていた洗濯物――イークの衣類――を抱えて歩き出した。イークはそんなカミラの背中に舌打ちを投げかけつつ、自身も続いて家を出る。
外は今日もうだるような暑さだった。この季節、木々の間から照りつける太陽を見る度忌々しくてたまらないが、雨が降ったら降ったで困る。ルミジャフタに降る雨は大抵長雨か豪雨になるからだ。
元々湿度が高い土地ということもあって、ルミジャフタはとかく雨が降りやすい。おかげでいつも道がぬかるんでいることを思えば、カラッと晴れている今日はまだマシな天気と言えるだろう。
それにカミラの家はイークの家の二軒先とかなり近いので、このくらいの距離なら移動もさして苦にならない。問題は朝食のあとに待ち受けている家畜の世話だ。
郷で飼われている羊駝や
家禽、馬といった家畜は住民の共有財産だった。だから郷の男たちが持ち回りで世話をする。
今日の家畜番はカミラの兄とイークで、よりにもよって羊駝小屋の担当だった。確か同年代のやつらが馬小屋の担当だったから、そちらと交換してもらおうか……とイークがわりと真剣に思案したそのときだ。
「ところでさ、さっき言ってたフィロメーナ≠チて?」
「……は?」
「起き抜けになんか言ってたじゃない。フィロメーナがどうとか、何とか村がどうとかって」
「ああ……夢の話だよ。なんでお前がそんなこと気にする?」
「だってイークが夢を見るなんて珍しいじゃない。しかもフィロメーナって、名前からしてうちの郷の人じゃないでしょ? 一体どんな夢を見てたの?」
「あー……クィンヌムの儀に出たあとの夢だよ。そこで俺は山賊の被害に悩んでるルシェッロ村ってところに立ち寄って、村人たちを救出することになった。そのときフィロメーナって女が、少人数でも大勢の山賊を打ち破れる策があるとか言い出して……」
と何気なく説明しながら、イークはまた得も言われぬ違和感を覚えた。起床してから既に半刻(三十分)ほど経過しているというのに、未だ鮮明に居座っている夢の記憶。
こんなことがかつてあっただろうか。これじゃまるで現実に体験した記憶と同じだ。イークは話しながら自身の右手に目を落とす。未だそこに残る、フィロメーナの肩を掴んだときの温かな感触……。
「へー。じゃあそのフィロメーナって人、よっぽどの策士だったのね。どんな人だった? 美人? それとも強そうな女戦士?」
「まあ……少なくとも強そうではなかったな。夢の中では貴族の家の生まれってことになってて……」
「キゾクって、王様の次に偉くてお金持ちの人たちのことよね? ってことは結構綺麗な人だったんじゃない?」
「そこは否定しないが、それ以上に……」
「それ以上に?」
「……理由は分からないが、悲しそうな顔をしてるやつだった。あいつは何をあんなに思い詰めてたんだろうな……」
すべては終わった夢の中の出来事だ。だからそんなことをカミラに尋ねたって仕方がないのに、イークはそう口に出さずにはいられなかった。
箱庭育ちのお嬢様で、世間知らずでお人好しで、どこか抜けていながら硝子のナイフみたいなものを内に秘めていた不思議な女。思い返せば返すほど、彼女のことが気になって仕方ない自分がいる。
あの悲しみに満ちた横顔の理由は何だったのだろうか。彼女は何故一人で旅をして、心の中に抱いたナイフを静かに磨いていたのだろうか。
端的に言えば、もっと彼女のことを知りたかった。
そうだ。自分は知りたかったのだ。フィロメーナの過去。理由。心の内側。
たかが夢の中の登場人物に、どうしてそこまで?
自分でもよく分からない。分からない、けれど――
「イーク」
刹那、ふと名を呼ばれて我に返った。
気がつくとカミラが隣で立ち止まって、じっとこちらを見つめている。
その空色の瞳の奥に、得体の知れぬ光が炯々とともっているのを見て取って、イークも思わず足を止めた。
いつもはおちゃらけてばかりいるカミラが、怖いほど真剣な眼差しで見つめ返してくる。彼女は腕の中の洗濯物を、まるで何かのおまじないみたいにぎゅうっと強く抱き締めると、少しもイークから目を逸らさずに、言った。
「あのね。傍にいてあげて」
「え?」
「傍にいてあげて。そのフィロメーナって人の傍に」
「お前、なんで――」
「私だってよく分かんないよ。でも分かるの。その人にはイークが必要だって」
「俺が……?」
「ひとりにしちゃダメ。守ってあげて。絶対傍を離れないで」
「カミラ、」
「私、知ってるよ。イークが本当はすごく優しいこと。その優しさがあればきっと、フィロを救ってあげられる」
燦々と照りつける朝日を浴びて、眩しいくらいに微笑みながら、カミラは親しい友人でも呼ぶように彼女のことをフィロ≠ニ呼んだ。
どうして、とか、お前は、とか、訊きたいことは色々ある。それと同時にイークは理解し始めていた。ああ、そうか。これは。たった今目の前にいるこの
幼馴染みは――
「――おーい、カミラ、イーク! 遅いじゃないか、朝食が冷めるぞ!」
そのとき再び呼び声がして、イークとカミラはほとんど同時に振り向いた。
そしてとっさに腕を翳す。
眩しい。
異様なほど真白い陽射しの中。
イークはこちらへ向かって歩いてくる青年の影を見た。
自分は彼を知っている。とてもよく知っている。己の半身と言ってもいい。
それなのに、
(エリク、お前――)
どうしてだろう。
忌々しい太陽の光に邪魔されて、彼の顔が、思い出せない
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