「――アマラ!」
家を飛び出したアマラを追って、カルロスは走り出た。
月明かりが皓々と照らす夜道を、アマラが髪振り乱して駆けてゆく。
こうなる予感はしていた。いかに気丈な彼女でも、今回ばかりはカルロスの言葉を受け入れられず拒むだろうと。
けれど賽は投げられたのだ。もう引き返せない。
カルロスはアマラの名を呼びながら、夜道を駆けた。既にほとんどの家が寝静まっている時間だったのが不幸中の幸いか。
――そう言えばこんな風に、自分の足で地を馳せるのはいつぶりだろう?
思えば最近は馬の背に揺られてばかりで、自分で走るということをした記憶が久しくなかった。――なのに。
(まったく息が上がらぬ)
不思議な感覚だった。どんなに走っても息が乱れない上に、汗も出ない。
それどころか、体が羽のように軽かった。驚くほど夜目もきく。遥か前方にいるはずのアマラの足音が、耳元で鳴っているように聞こえる。
おまけに喉も乾かない。食欲も湧かない。
夜、目を閉じても眠りが訪れることがない。
(――これが、神子になるということか)
神子。
眠れる神の御魂をその身に宿した、半神半人の存在。
迷えるエマニュエルの子らを導くべく、神に選ばれた代行者――。
まさか自分がそんなものになる日が来るなんて、カルロスは夢にも思っていなかった。
《
義神刻》。
正義神ツェデクの眠れる魂。
カルロスはそれに
選ばれた。
あれは今から二月前。主君であるトレランシア侯領の侯主カルヴァンに付き従い、エスペロ湖に浮かぶ遺跡へ赴いたときのことだ。
アルコイリス遺跡、と俗に呼ばれるその巨大なピラミッドは、かつて古代ハノーク人たちによって築かれた神殿の一つだった。
そこは現在、ルエダ・デラ・ラソ列侯国にいる七人の侯主たちが一堂に会する際の会場として使われている。二ヶ月前にもそのアルコイリス遺跡で、ウニコルニオ事変を契機にした民衆の一斉蜂起――国民を騙して巨益を貪っていた侯王カルヴァンへの反乱――について対処するべく、緊急の侯主会議が開かれた。
そのとき、カルヴァンの護衛として共に遺跡へ渡ったカルロスに接近してきた人物がいる。
彼女の名はミラベル・レゲム・ニエト・アルコイリス。
かつてこの地に君臨したアルコイリス法王国――その王に連なる一族の女である。
現在ではアルコイリス虹爵家と呼ばれるかの一族は、アルコイリス遺跡の南、エスペロ湖の中心に浮かぶ島を唯一の領地とする旧主≠フ家系だった。
旧主≠ニは旧き主――すなわち列侯国の諸侯がかつて仕えていたアルコイリス法王を意味する。ところが二百年前、シャムシール砂王国の蛮行により法王国が崩壊すると、その末裔であるアルコイリス虹爵家は内政への干渉を放棄する代わりに国の象徴として島に留まり、絶対不可侵の存在となった。
その一族の出であるミラベルが、紛糾する侯主会議の間を縫ってひそかにカルロスに会いにきたのだ。
一族の出、とは言っても、彼女は亡きアルコイリス虹爵の妻であり、その出身はアマゾーヌ女帝国の華族――女帝サンドリアーヌと血縁関係にある一族――であると言われていた。かつて虹爵を大いに惑わせたというその蠱惑的な美貌は老いてなお健在で、彼女は波打つ豊かな紫髪の間から、不敵にカルロスを見据えて言った。
「そなたを案内したい場所があります。どうか何も訊かずについてきて下さい」
甘い甘い酒精を吐くような彼女の言葉に
誘われ、カルロスは深夜のアルコイリス遺跡へ漕ぎ出した。下心があったわけではなく、虹爵夫人という貴族の最高位を持つ彼女に逆らう口実を見つけられなかったのだ。
そうして足を踏み入れた遺跡の深部に、それはあった。
《義神刻》。
それは不思議な輝きをまとう巨大な
神刻石に覆われて、まるで待ち侘びていたようにカルロスを見下ろしていた。
その輝きの中に立ち、意味深に微笑んだミラベルの言葉が今も耳に残っている。
「カルロス・トゥルエノ・エストレ・ウニコルニオ。神の力を受け取りなさい。その身にツェデクの魂を受け継ぎ、内乱を収め、今こそアルコイリスの地に正義の支配を布くのです――この言葉の意味が、分かりますね?」
つまり、彼女はそのときこう言ったのだ。
この地に再び統一王国を築きなさい、と。
†
ようやく捕まえたアマラの腕を、力任せに引き寄せた。
少々手荒いとは思ったが、仕方がない。これ以上事を荒立てて住民が起き出してきたら困る。
案の定アマラは抵抗する素振りを見せたが、カルロスはそれを封じるように彼女の体を抱き竦めた。
アマラは泣きじゃくっている。胸が引き裂かれるような思いだった。
「何故、何故です、何故あなたが……!」
腕の中でアマラが泣き叫ぶ。声が大きい、と言おうとして、カルロスは気づいた。
気づけばそこはエスペロ湖の畔。あたりには湖へと続く桟橋こそあれど、人家の明かりはない。人の気配もない。
ただ岸辺に打ち寄せる細波の音だけが、微かに夜気を震わせていた。
仰ぎ見た
夜空には細い月と満天の星。――こんなときだというのに残酷なほど、世界は美しい。
「どうして、神子だなんて……内乱を止めるだなんて……!」
「神がそうせよと私に言われたのだ。だから私は、行かねばならぬ」
「神ではなくミラベル様がそうおっしゃったのでしょう!? あの方は何故カルロス様に……!」
「夫人の真意は分からん。だがこの国で今、民の信用を得ているのは私だけだ、とあの方は言われた。カルヴァンが侯主会議に私を伴った理由もそれだ。幸いにして三年前の大飢饉以来、我が騎士団が採ってきた政策は民衆に支持されてきた。おかげでこのトゥルエノ騎士団領は今も大きな混乱を避けられている。だからカルヴァンは私を護衛役に任じたのだ。民が私には決して矛を向けないと知り、それを利用するためにな」
「だからと言って、反乱軍に与すればトゥルエノ家のお立場がどうなるか、カルロス様だってお分かりでしょう!? 私はあなたの名を汚さぬために、この町でイリスを生むと決めたのに……!」
――分かっていた。自分のせいでトゥルエノ家の名に傷がつくことを、アマラが最も恐れていたことは。
そうなればただでさえ情夫の子≠ニ謗られてきたカルロスが、再び人々の嘲弄の的になる。アマラはそれを避けるために屋敷を去ることを決意した――つまりカルロスを守るために、カルロスのもとを離れる決意をしたのだ。
なのにカルロスはこれから反乱軍のもとへ奔り、侯王を討つつもりでいる。
そうなればトゥルエノ家はもはや列侯国貴族ではいられない。爵位は剥奪され、領地も没収され、カルロスはまた裏切り者の婚外子と騒がれるだろう。
(――だが、それでも誰かがやらねばならぬことだ)
と、カルロスは思う。
自分だって本当はこんな役回り、他の誰かに託して逃げ出したい。
けれど自分は、神に選ばれた。
正義神の寵愛がこの身にある限り、侯王たちの罵声は神への冒涜に変わる。七人の侯主たちを敵に回して勝ち目があるとすれば、その神威を味方につけた自分だけだろう。
カルヴァンなどは神子となったカルロスがいればもはや敵なしと狂喜しているが、カルロスは端からあの
禿頭のために戦うつもりなどない。
元々カルヴァンのことは心底から軽蔑していたし、先のウニコルニオ事変と呼ばれる一件では完全に愛想が尽きた。己の飢えを凌ぐために民の命を売っていた王になど、これ以上仕えてはいられない。
「――アマラ、聞いてくれ。こうしている今も、イリスと同じ年頃の子らが腹を空かせて泣いている。カルヴァンに騙され、愛する者を
竜人の餌にされた者たちが大勢いる。私はその者たちの慟哭に背を向けて、のうのうと橙爵の地位に甘んじていることなどできない……」
アマラの嗚咽が、微かな波音の間に聞こえた。カルロスはその震える肩を抱く腕に力を込めて、彼女の耳元に囁き続ける。
「今ここでカルヴァンに反旗を翻さなければ、あの男のしたことを認めるのと同じだ。私は、たとえ神の命であってもそれだけはできぬ。自分の父親は、己が安逸のために数万の命を犠牲にした男の一味だったと、イリスにそう思われるのが恐ろしい」
「……」
「それともお前は、私があの暗君の下で神の剣を振るうことを望むか?」
「卑怯です、そのような尋ね方は」
叫ぶようにアマラが言い、カルロスは苦笑した。もちろんカルロスとて、卑怯だと分かっていながら言っている――こう言えば、アマラが諦めてくれると知っているから。
「すまない。できることなら、私もお前たちと平穏な暮らしを送りたかった。だが時代がそれを許さぬ。誰かが民のために立ち上がらねばならないのだ」
「……ヒーゼルさんもそれを承知で?」
「ああ。私は故郷へ帰れと言ったのだが、あいつはまったく聞く耳を持たん。私が神になろうと悪魔になろうと、死ぬまでつきまとう所存だそうだ」
「でしたら、私たちも」
「いいや、駄目だ。いくら神の力を得たと言っても、カルヴァンがすぐに降伏するとは限らん。むしろあの男の性格を思えば、保身のためなら神にも抗おうとするだろう。そうなればここは戦場になる。だからお前たちはこの地を離れろ」
「いやです! カルロス様が爵位をお捨てになるというのなら、今度こそお傍に――」
「アマラ。頼む。聞き分けてくれ。私はお前たちを危険に晒したくない。いや、お前たちだけでなく、本当は誰も……誰もこの戦いに巻き込みたくはないのだ」
「カルロス様」
「明日城へ戻ったら、私は再びウニコルニオへ向かう。そこでカルヴァンに宣戦布告し、やつが逆らうようならその場で首を斬る。だがそれが失敗すれば戦争だ。そうなる前に、お前たちはオネスト侯領のパーヴォ・レアルへ逃げろ。あの街には私の叔母がいる。その叔母に頼んで、お前たちの新しい家を用意してもらった。――これを持っていけ」
言って、カルロスは懐から取り出した一通の書状をアマラへ渡した。それはカルロスの叔母と従姉たちに当てた手紙だった。
パーヴォ・レアルの親類たちには既に話を通してある。あとはアマラとイリスがこの手紙を持っていけば万事解決だ。
幸いイリスはカルロスにあまり似なかったから、彼女がカルロスの娘だと気づく者はいないだろう。それに叔母たちには二人のことを、自分によく仕えてくれた騎士の忘れ形見だと伝えてある。
「お前たちの道中の護衛には、我が騎士団から心きいた者たちを当てよう。トゥルエノ家に代々忠誠を尽くしてくれている者たちだ。たとえお前たちの正体が露見したとしても、彼らなら決して口外しない。もっとも、気心知れたヒーゼルを供にやれれば最良なのだが……」
「――いいえ、結構です。そんなことよりヒーゼルさんには、私たちの分までカルロス様のお傍にいていただかなくては」
思いがけず強い口調で言葉が返ってきて、カルロスは目を丸くした。そうして改めて見下ろせば、アマラが叔母たちへ当てた書状を胸に抱き、涙に濡れた目でこちらを見上げている。
「……叔母上様はお優しい方ですか?」
「ああ。私も数回しか会ったことはないが、あの母の妹というのが信じられないくらい気性の穏やかな方だ」
「そのお子様たちも?」
「皆私よりずっと年上だが、聡明で頼りになる。何かあればカルディナという長女を頼れ。幼き日の私を、従姉たちの中で最もかわいがってくれた」
大切に書状を抱いたまま、アマラは頷いた。その拍子に彼女の瞳から、また一つ涙が零れた。
「でしたら、最後に……どうか約束して下さい。すべてが終わったら、必ず……必ず私たちを迎えに来て下さると」
「ああ、もちろんだ。この戦いが終わったら、きっとお前たちを迎えに行く。そしてそのときは――どうか今度こそ、私の妻になってくれ」
アマラは笑った。笑った彼女の瞳からは、なおもぽろぽろと涙が溢れ続けた。
カルロスはそんなアマラを再び抱き寄せ、唇を重ねる。星空を映したエスペロ湖を背にして、二つの影が一つになる。
カルロスは誓った。
エマニュエルの二十二大神に。
自分はこの戦いに勝利し、必ず二人を迎えに行く。
そして今度こそ、かつて望んだ自由を手に入れるのだと――。
†
群衆の喧騒が膨れ上がっていた。
どよめき、喚声、怒号、悲鳴、罵声、怨嗟。
それらすべてが見下ろせる高台の上で、カルロスは目を上げる。
後ろに回された両手には
封刻環。
両脇には矛を携えた騎士が屹立し、広場に集まった群衆を睥睨している。
「それではこれより、謀叛人にして神の子を騙った冒涜者、カルロス・トゥルエノの公開処刑を始める!」
野次とも怒声ともつかぬ、群衆の絶叫が谺した。カルロスは狂乱する彼らの姿を見下ろし、目を細める。
見知った顔がいくつもあった。あれほど来るなと言ったのに、唇を引き結び、目を見開いて打ち震えているかつての仲間たちがあちこちにいる。
――皆、すまぬな。
届かぬ謝罪を口の中で呟いて、カルロスは
微笑った。
だがこれで良かったのだ。
ここで命尽きなければ、自分は――。
「罪人を押さえよ!」
どこからともなく、カルヴァンの声が上がった。後ろから衝撃が来て、木で組まれた処刑台の上に無理矢理跪かされる。
重々しい足音が聞こえ、うなじのあたりに刃が当てられる感触があった。恐らく斬り落とす位置を見定めているのだろうが、そうでなくては困る。神子は確実に首を斬り落とされるか、心臓を一突きにされねば死ねないのだから。
頭を押さえつけられ、目に入った処刑台の麓に、満面の笑みを浮かべたカルヴァンが見えた。
だが、不思議とカルロスの心は静かだ。自分を罠に嵌めた男の脂下がった面を見ても思いは乱れず、むしろ彼への哀れみさえ生まれている。
――この男はきっとろくな死に方をすまい。
《義神刻》の力で粉々に砕かれた方がまだ救いがあったというものだ。
けれど、もういい。
もう誰も殺めずに済むのなら、何がどうなろうと。
「首を落とせ!」
再びカルヴァンの号令がして、カルロスは静かに目を閉じた。
処刑人が斧を振り上げた気配がする。群衆のどよめきが悲鳴に変わる。
だがカルロスに恐れはなかった。
刃が、風を切って振り落とされる。
「――カルロス殿!!」
最後に呼び声を聞いた。
はっとしたカルロスは目を開けて、群衆の中に目を凝らした――黒や茶や赤毛ばかりの人だかりを押しのけるようにして駆けてくる、赤髪の男に。
(ああ、無事だったか、ヒーゼル)
安堵は再び微笑に変わった。
彼をカルヴァンの罠から救えたことがせめてもの慰めだった。
ヒーゼルが飛び出しざまカルヴァンに殴りかかろうとして、護衛の騎士たちに止められている。
広場の狂騒はもう収拾がつかない。
磨き抜かれた刃が降ってくる。
「――さらばだ」
最後にそう呟いて、カルロスはもう一度目を閉じた。
瞼の裏をよぎったアマラたちの笑顔が音を立てて弾け、そして、消えた。
(完)