2009-1-29 15:48
彼女は突然いなくなった。
その一週間後彼女は死体として僕の所に帰ってきた。
『死にたがりのバラッド』
警察からの事情聴取。
遺体安置所に横たわっている死体。
死体を引き取りに来た彼女の両親と共に僕は呆然と彼女を見下ろしていた。
ぴくりとも動かない躯。
閉じられた瞳。
健康的だった肌は青黒く変色し、所々腐敗が進行している。
聡明だった彼女の面影は今や見る影もない。
パンパンに浮腫きった顔はまるでアンパンマンのようで。
兎に角、綺麗だとはお世辞にも言えたものではない。
彼女の両親は、彼女の変わり果てた姿を見て、胸中の思いを如何なものとして捉えてるのだろうかと、僕は他人事のように考えていた。
やはり、悲しいのだろうか。
それとも、厄介払いが出来て清々しているのだろうか。
そんな思考が冷静に僕の頭の中に浮かび上がる。
彼女の横顔。
鼻筋の通っていた鼻は、へしゃげて潰れている。
白魚のように整っていた指は、あらぬ方向に曲がり、パンパンに膨れている。
両手首には何度も刃物を突き立てた後の傷が残っており、その傷の上から更にえぐり取るように新しい傷が何重にも積み重ねられていた。
これは、彼女の嗜好の一部の残害であった。
彼女は自身を傷つけ、そして何度も自殺を謀るような趣向の持ち主だった。
自らの躯を切り刻み、睡眠薬などの激物を過剰摂取したりと、悪癖な事を繰り返していた。
彼女が自殺行為を謀る度、病院で入院する彼女の世話を僕はそれはもう、甲斐甲斐しく世話をやいていたものだ。
何度も入退院を繰り返す彼女を医師達や看護士達は呆れた顔で見ていた。
僕だってほとほと愛想が尽きていた。
初めて自殺を謀った時は、死なないでくれと、涙を流しながら請うたのだが、流石に二回、三回…と繰り返されると慣れてしまうものだ。
それに、彼女は自殺を企てるものの、本気で死のうとは思っていなかった。
只、僕に構って貰いたかったのだ。
彼女が入院すると、僕は一日中尽きっきりで彼女の面倒を見る事になった。
それはそれは、献身的過ぎるぐらいに。
味を締めた彼女は、僕に構って貰いたいが為に自殺を繰り返すようになった。
ほんと迷惑極まりない事山の如しである。
もっと別のやり方があるだろうに、彼女はわざわざ自分の命を犠牲にしてでもそのやり方を選んだ。
もう、馬鹿だとしか言いようがない。
彼女の両親も呆れ返り、遂には見舞いにも来なくなってしまった。
両親から見離されても、彼女はどこ吹く風で、僕さえ構って貰えればいいと思っている様子だった。
三回目の入院の時、医師から精神科に入院した方がいいと告げられた。
医師もほとほと疲れてきていたのだろう。
自分達では手に負えないとばかりに精神科に移るように勧められた。
まぁ、当たり前と言えば当たり前である。
一度ならず、二度も三度も自殺をするような輩の精神は普通ではない。
異常だと捉えられても仕方のない事だろう。
僕は、彼女と相談しますと一言告げてそこから立ち去った。
何故だか無性に虚しかった。
「いやよ」
彼女は断った。
いやいやと首を振り断固として頷かない。
予想した通りの反応を見せた彼女に、僕がどうして?と尋ねると彼女は目を伏せて言いにくそうに口をもごもごさせながら遂に口を割った。
「あんたと会えないじゃない」
小さな小さな蚊の鳴くような声。
彼女は落ち着きなく視線を彷徨せながら僕と目を合わそうとしない。
そんな初めてみる彼女の姿に僕は「どうして?」ともう一度尋ねた。
すると、彼女はピクリと小さく反応し、伏せていた猫目をキッと吊り上げて「寂しいからに決まってるじゃない」と当たり前だと言わんばかりに怒鳴った。
彼女は癇癪を起こした。
あんたは私と会えなくてもいいのと、胸をドンドン叩かれた。
ドンドンドンと、僕の胸板を何度も叩く握りしめられた小さな拳が白くなっていた。
僕は彼女の気の済むまで殴らせた。
彼女は気が済んだのか殴るのを止めると、顔を俯かせたままじっと黙り込んだ。
長い黒髪が前に流れ彼女の顔を覆う。
ふるふると細かく震わせながらしんと静まる室内で口火を切った。
「…入院するわ」
淡々とした口調を零した後、彼女は、一切も言葉を発しなかった。
その時、彼女がどんな表情をしていたのか僕にはわからなかった。
それから数日後。
医師から紹介状を書いて貰い、いろいろと手続きを済ませ、半ば追い出されるかのように精神病院に移入した。
電車で片道一時間以上はかかるような、都会から外れた田舎にある公的な施設。
回りは田園風景が広がっており、澄み切った空中には、鷹がクルクルと同じ場所を旋回しながら飛んでいた。
ああ、なんて長閑な処なのだろうか。
交通網は不便だけれど、ここならばのびのびと治療に専念出来るだろう。
だが、往復1200円もかかるのは懐にかなりきついものがある。
一週間に一度程度しか会いにいけないだろう。
青空に点々と散らばる雲を見上げながらぼんやりとそんな事を思った。
面会日を毎週水曜日に決めた。
大学やバイトといった時間を考慮した結果、水曜日が一番都合が良かったからだ。
毎週水曜日、僕は彼女に会いに行った。
彼女は僕が来るとふてくされた顔をして、あまり喋ろうとしなかった。
でも、朱色に染まる彼女の耳を見る限り、内心は嬉しいのだろう。
そんな嘘のつけない彼女が微笑ましくて僕はこっそりと笑った。
入院中の彼女は、驚く程大人しかった。
前みたいに暴れたりもしないし、自殺を謀る事もなかった。
穏やかだった。
穏やかな3ヶ月を僕らは過ごした。
彼女との限られた時間。彼女との甘い囁き。彼女との心の交わり。
もしかしたら、この3ヶ月が一番幸せだったのかもしれない。
僕は確かにこの時幸せを感じていた。