お家に帰ってベッドにごろんしたらそのまま6時間睡眠。
作業2日目は炊き出し。
避難所に行って、お婆ちゃんと子どもたちとたわむれた。
そこの避難所はもうずっとうちのNPOの炊き出し班が炊き出ししてて、避難所の人たちも心を開いてくれてた。
私を見て「あんた新人でしょ!」とか「初めて見る顔だね、どっから来たの?」とか声をかけてくれたり。
すごく元気なお婆ちゃんが、炊き出し班の皆と仲良しだったり。
一番印象的だったのが、懐いてくれた小学生が将来自衛官になって瓦礫から人を助けたりしたいって言ってたこと。
普通、小学生から出ない「自衛官」って言葉。
炊き出しの後、チームリーダーがその町を車で走って現状を見せてくれました。
1日目に瓦礫処理に行った地域は半壊の建物が多くても、町並みはあった。
でもその地域は町並みとかはなくて、もう瓦礫しかない。
普通では考えられない位置まで津波が来て、高台にある役所や病院も津波の被害にあってた。
家の土台らしきものがちょっとあって、ここに人が住んでたんだなって。
避難所で私に話し掛けてくれたお婆ちゃんも、自衛官になりたいって言ったあの子も、ここに家があって生活していたんだって考えたら泣きそうになった。
でも被災地に居る間は泣かないって決めてたから、我慢した。
その後、町のボランティアセンターに行って班長が役所の人と話してる間休憩。
班長が戻ってきたら、たまたまボランティアセンターで会ったお婆ちゃんの家に行くことになった。
そのお婆ちゃんの家はすごい急な坂の上にあって、かなり高台で津波の被害はないけど、地震でブロック壁が崩れそうになってて、これが崩れると隣の人の屋根に落ちてしまうって状態。
もし出来ることがあれば明日辺り何か応急措置でもって見に行って、お婆ちゃんとお話して。
津波は大丈夫でしたか?って聞いたら、震災当日は海間近の仕事場にいて、車で送ってもらえたから無事だったけど、あと5分遅かったら巻き込まれてたって言われた。
そういう話を直接聞いて、やっぱり現実なんだなって思った。
お婆ちゃんのお家が高台だから、そこから見えるその町の状態を一望できた。
ここに生きてる人がいて、亡くなった方も沢山いて、瓦礫しかなくなってしまった町の高台で避難生活している人が沢山いる。
2ヶ月経とうとしている今でも瓦礫ばかりの町。
このお婆ちゃんも、家に戻るたびにこの景色を見ているんだ。
自分の地元の壊滅的な状態を。
帰るとき、もう一度町中を走って。
ここにあの人たちの生活があったんだって思ったらやっぱり泣けてきて、車の中でバレないようにちょっと泣いた。
リアリティのない映像ばかり見せられて自分の外側の話って思ってて。
実際にその町をちょっとでも歩いてみると、それが自分の内側の世界になる。
3月11日に怖い目にも寒い目にも辛い目にもあわなかった私には、被災地に行って現状を見ることだけでも私にとって十分意味があると思った。
向こうの人と話してて思うのは、すごくボランティアって存在に感謝していて、すがっている。
あんなの自分たちだけではどうにもできないから。
でもやっぱり、津波とか震災当日とかのナイーブな話になると、少しだけ動揺したように穏やかではなくなる。
それを外に見せまいと隠している。
大きく生活を変えられたあの日のことを今でも消化できないで、どう扱っていいのかわからないみたいに見えた。
でもどう扱っていいのかわからないのは私だったのかもしれない。
わかったのは、被災地の人たちは意外と元気に暮らしているってこと。
そうやって普通の生活を取り戻そうとしてる。
でも、どんなに被災地以外が同情して、自粛とかしても彼らには届かない。
まだまだ自分たちのことで手一杯なところが大きい。
だってまずどんなボランティア団体があるのかすらわかってない地域もまだまだある。
送り付けられてくる物資を見てもベビーカーとかわけわかんないものもあるし、とにかく何かをして自分を満足させたいだけの人間が被災地以外には沢山いるってこともわかった。
そんなことよりも一泊二日でも瓦礫処理とか泥かきとかの方がよっぽど喜ばれる。
私が行ったのは宮城県のテレビで沢山報道される地域。
つまり、まだ恵まれてる地域。
中には未だに1日おにぎり2つとかで生活してるちいさな集落だってある。
新宿から仙台まで高速バスで5時間。
かかる交通費だって往復6000円しない。
被災地が意外と近いところにあることにびっくりした。