2011年3月11日。
この日は、朝から、一ヶ月前に事故った首が痛くて、早退して病院に行こうと思っていました。
交代制でお昼を取り、14時半になりさぁ午後も仕事頑張るか!!ってな時。地震が来ました。
もう驚いて外に出て、瓦屋根が落ちてきたり停電したりでパニックでした。
でもこの時は、大きい地震だったな、くらいの感覚しかありませんでした。
その日は5時退社だったのですが、1時間早く4時退社。
元から早退しようと思っていた私は、ラッキーぐらいの気持ちで、信号機がもとから無い道路を選んで病院へ。
普通に営業してたので、リハビリを受けて待合室でテレビを見て。
驚愕しました。
家が津波でどんどんどんどん破壊され呑み込まれている映像が流れていたからです。
私は生まれも育ちも栃木県なので、地震=津波、という思考にならないのです。
完全に盲点で、もうなにがなんだか分からない気持ちで家路につきました。
停電はどうやら街中だけで、山間のド田舎にある我が家には何もライフラインが壊れることもありませんでした。
東京に住んでいる弟は無事。栃木から東京に通っている姉は、電車が動かないということで会社待機。
とりあえず家族は安心だ、と思ったのも束の間。
そこでテレビを見て、更に驚愕。
町が燃えている。津波に押し流された家々が燃え、類焼し、眼下が全て火の海でした。
そこで思い出した彼氏の実家。詳しくは聞いてなかったけど、確か宮城県って言ってなかったけ?仙台?松島?どっちみち海沿いだったはず!!!
彼氏に連絡をするも繋がらず。
しばらくしたら向こうから電話があり、どうやら彼氏の住む市は停電中で情報がまったく無いとのこと。
テレビやネットで得た情報を伝え、その日は終わりました。
余談ですが、前日10日に買った三国無双6は、さすがにやる気が起こらず、半年くらい手をつけられませんでした。
2011年3月12日。
この日は元から彼氏と会う日。前日の電話で焦燥しきっていたのが伝わったので、スーパーでパン数種類を購入し家へ。
入ると、家の隅でうずくまっている姿がありました。
宮城の家族と連絡がとれない。生きているのか死んでいるのかも分からない。
その時の彼氏の顔は真っ白で、私は掛ける言葉も見つからずただ抱きしめるしかありませんでした。
その日はどうしても外せない約束があり、2人でそれをこなし、帰宅。
お弁当を買ったもののまったく食べない彼氏。
そして18時。災害伝言ダイヤルにお兄さんの声で「皆無事」という連絡があり、ようやく安否がわかりました。
伝言を聞いてる彼氏は途中から泣き出してしまって、内容の分からぬ私はもしかしたら…と嫌な想像もしてしまいました。
実家は目の前にある田んぼが津波を食い止めてくれたお陰で、津波の被害はなかったようです。
父方の祖父母宅は一階が冠水。実家に引き取って、取り敢えず実家で生活しているそうです。
伝言を聞き終わった瞬間、嗚咽を漏らして泣きじゃくっていて、あぁ、嬉し涙ならいっぱい流せばいいんだよ!!って心底感じました。
一緒に泣きました。
2011年3月15日。
会社に宮城の人が多いことから、会社命令で、日本海経由で宮城に彼氏は行きました。
私が12日に持っていったパンが好評だったと教えてもらい、凄く嬉しくなりました。
私自身、福島に親戚がいます。
車が波に呑まれ使えなくなったり、5月に入るまで上下水が使えなかったりして、栃木に来た際にお水を渡したりなんだりとしました。
彼氏(今はもう夫ですが)の親戚で、実は亡くなった方がいると言うことを、2013年の年始の帰省で始めて聞きました。
祖父の妹の旦那さんだそうです。
前々から寝たきりで、地震発生時、消防団の人に手伝ってもらって運ぼうとしましたがどうしても無理で。
口に飴玉ひとつ咥えさせて。お互いに目で合図をして頷き合って。
そして…だそうです。
今年の1月、宮城に帰省しました。
今はもう毎日のようには報道してくれないけど、復興にはまだまだ遠いな、という感じがしています。
実際被災し、住んでいる人の話を聞けば分かります。
電車もまだ通ってないし。
なのに、私の記憶は少しずつ薄くなってきています。
私は被災者じゃありません。地震は体験したけど、家は停電することも無く農家ですから食料も困らず。
どこか他人事でした。
それでも時々忘れてしまう。
栃木はね、南東北とも呼ばれててね。
私は元から福島に親戚がいるし、宮城の方と結婚したのでさらに身近になりました。
私は忘れないでいなければ。
心を整理しておかねば。記録しておかねば。私の心の記録なので、世間にはまったく有効ではないけれど。
まぁそんな思いを抱きまして、書いた次第です。