進行性スペクトラム



覚えてないんです。

あなたの声も、私に伝えようとしたことも何も。

私が発したという言葉も。


そのときそこには誰がいたのだろう。
自分の姿をした、別の誰かが、私の代わりに話をしていたのか。
もしかしたら平行世界の出来事だったりして。
なんちゃって。
では、どちらが私の生きている世界?




「ねえ、聞いてる?」


「あ…うん、聞いてる」


「もう。また急にぼーっとして。それで、この前言ってたスイミングスクールの話なんだけど」


「え?」


「だから、言ってたでしょ?通いたいって」


「あー…うん」


覚えていない。
そもそも私は物心ついた時からお風呂も怖がっていたくらい水につかるのが大嫌いだ。
水泳の授業もあれこれ理由をつけて休んでいる。
それなのに、スイミングになんて通いたいわけない。


「近所のほら、南ちゃんも通ってるとこ。今日申し込んでおいたわよ!」


「…ありがと」


「あれ?嬉しそうじゃないわね」


「ううん!うれしい、たのしみだなーーー」


「ならよかったけど。それにしてもあなたがねー。
泳ぐのなんて大嫌いなのかと思ってたのに」


「…」


大嫌いですよ、お母さん。その節は散々迷惑かけたよね。


「水泳の授業も全然やらないって先生も言うし。せっかく他の教科は成績いいのにね、もったいないなーって思ってたんだよ」


「うん、ごめ」


「そしたら、苦手だけど克服したい、っていうから、さすがだなーって」


「まーね」


「さすが、お母さんの子だわ」


「…うん、そりゃね」


勉強も嫌いだった。
なんで塾に通っているのかも全然わからない。
勉強も水泳も克服しようなんて思ってない。
どちらかというと塾に行くときは、好きなことしてたいのになー、って思っている。
なんで私、そんなことになってるの。
どうしてそんなことを言ったの。

あれ?
塾に行くときのいつもの通り道の公園の夕焼け、きれいだな。

あれ?
それから、私、どうしてる?


「お母さんは鼻が高い!」


うん、ありがとう。
でも、それは誰?ごめんね、私はわからない、覚えてない。
頑張ろうとは思っても、苦手なことは頑張れない。
なのにいつも気が付くと、お母さんは褒めてくれる。




螺旋階段を下る。
下の階にはいつも美しい霧がかかっている。
霧が私の姿を隠す。
懐かしいオルガンの音が聞こえる。
階段を下りながら私は、ゆっくりと目を閉じる。
わからないことは、放っておこう。
わかるのは真っ白な世界と、溶けていく意識。
きれいな音楽。
時々現れるセロファンのオウム。
あれを描きたいな。そのあと食べちゃいたい。





「そろそろ塾の時間」


「あ、そうね。車出してあげる、待っててー」


「ありがとう。ところで、スイミングスクールはいつから通える?早く泳ぎたい」





深くまで潜れるように。