手の中から、何かがするりと抜け落ちるのを感じた。
それは夢であったかもしれないし、思い出であったかもしれない。人生であったかもしれないし、魂であったかもしれない。
けれどイークは辛うじて瞼を押し開け、自分がまだ生きていること――そして手から抜け落ちたものが、その
いずれでもあることを知った。
フィロメーナ。真っ青な顔で震えている彼女の手には、剣。
柄巻きに青い布が巻かれた、イークの剣だ。しかし人殺しのための道具は彼女には重すぎて、完全に腰が引けている。頭上には文字どおり狂喜乱舞する魔物の姿。
「フィ、ロメーナ、よせ――」
絞り出した声は血の咳に掻き消えた。腹部に刺さった槍が熱い。激痛と熱と体に回り始めた瘴気の毒とで、正直気が狂いそうだ。
だが目の前にフィロメーナがいる。虫も殺したこともないような細い手でどうにか剣を構え、迫り来る魔物と戦おうとしている――
「あ、んた、じゃ、無理、だ、逃げろ……!」
イークの叫びを合図としたかのように、槍を振りかぶったコウモリ人間が急降下してきた。フィロメーナが構えた剣の切っ先は、どこを狙っているのかも分からないほど激しく震えている――あれでは攻撃など受け切れない!
「ぐっ……く、そ……!」
ルミジャフタの男が女に庇われてたまるか。イークは戦士の誇りに懸けて、渾身の力で体をもたげた。腹の穴からボタボタと血が垂れる。しかし構わず、イークは手を伸ばしてフィロメーナの外套を引っ掴む。ぐらりと彼女の体が傾き、悲鳴が上がった。倒れ込んできたフィロメーナを抱き留め、自らの下に庇う。
「イーク……!!」
魔物の絶笑がすぐそこだった。
されどイークの耳には、まったく違う声が聞こえている。
『いいか、イーク。うちの郷で男がみんな戦士になるのは、くだらない喧嘩で見栄を張り合うためなんかじゃない。女や子供――弱者と誇りを守るためだ。お前の剣はそのためにある。覚えておけ。いつか、必ず――』
――お前の目の前にも、お前の剣を必要とする者が現れるさ。
だってお前は出来損ないの父なし子なんかじゃない。
そうだろ、イーク?
(……ヒーゼルさん、俺は――)
屈託のない師の笑い顔が目に浮かんで、イークも笑った。物心ついた頃から負け犬と嘲笑され続けたイークに、唯一嘲りではない微笑みを向けてくれた人。
どうせ死ぬのなら、あの人に恥じない死に方をしたかった。
魔物の槍が、イークのうなじに迫っている。
「ジャッポォ!」
そのときだった。どこからともなくベルントの絶叫が轟き、
突風が吹いた。
視界の端に、光輝く翼が見えた――ような気がする。
次の瞬間、イークの真上にいた魔物が吹き飛んだ。残りの二匹も色めき立ち、ギャッギャッギャッギャッと耳障りな声で騒いでいる。
「ジャッポさん……!」
体の下でフィロメーナが何か叫んでいた。……ジャッポ? ああ、そう言えばそんな名前の小男がベルントの仲間にいたような気がする。
すぐ傍に舞い降りてきた彼の
長靴には、光でできた白き翼。
翼刻の力だ。あの
神刻は刻んでも神術らしい神術を使えないが、代わりに空中での驚異的な機動力を得る。翼神ホフェスの力を宿した神刻で、かの神のように天高く飛び回ることこそできないが、それに近い跳躍力と滞空時間が与えられるのだ。
「オイ、そこのキザ野郎! さっさとその槍を抜け! 瘴気が全身に回ったらおしまいだぞ!」
「お……まえらは、どいつも、こいつも――」
――まったく人を好き勝手呼びやがる。イークが浅く笑いながらついた悪態を、ジャッポは最後まで聞かずに飛び立った。
妙なあだ名をつけられたのは気に食わないが、あの男なら空飛ぶ敵とも渡り合える。コウモリ人間は残り二匹だし、あの程度ならジャッポ一人でどうにかしてしまえるはずだ。
そう判断したイークは体を横に倒し、千切れそうになる意識をつなぎとめた。腹部の槍。触れるだけで肉が焼ける瘴気の塊だが、抜かなければならない。
肩で息をし、滝のような汗を流しながら、しかしイークは覚悟を決めた。もう一度両手で槍を掴もうとして、
「待って!」
硝子の響き合うような、透明な声がした。かと思えばイークの手は払いのけられ、代わりに白い繊手がグロテスクな槍を掴む。
「ううぅぅ……っ!!」
熱した鉄板の上に生肉を放り投げたような、ジュウウウウッという音がした。同時にフィロメーナの顔が苦痛に歪み、彼女の手から煙と異臭とが立ち上る。
「フィロ、メーナ、何を――……ッ!」
とっさに止めようとしたが、叶わなかった。槍が引き抜かれる激痛に絶叫しそうになり、歯を食いしばって下草を握り締める。
フィロメーナが渾身の力で体を後ろへ倒し、槍が完全に抜けると同時にイークは大量の血を吐いた。再び意識が遠ざかる。
体が内側から焼け爛れていくような感覚。瘴気の毒だ。
ああ、さすがにこれはもう、手遅れかもしれない――
「お嬢さん! アナタ、なんて無茶を……!」
「わ……私のことは、いいです、から……お願い、早くイークを……!!」
泣き叫ぶフィロメーナの声が聞こえた。
けれどそれも、壁一枚挟んだ遠い世界のもののように感じられる。
イークはそのまま、深い深い闇の底へと落ちていった。
そこには何もない。無だ。
しかし不思議と体は軽い。地に横たわっているようで、宙に浮いているようで。
あるのはただ、全身をやわらかく包む心地良さだけ。
温かくて、気を抜いたらまどろんでしまいそうな――
――イーク。
けれど呼び声が聞こえた気がして、イークは重い瞼を開けた。
――イーク、起きて。眠っちゃダメ。私が言ったこと、もう忘れたの?
(……お前が言ったこと?)
心の中でそう尋ねると、声の主は当然のように答えを返す。
――そうよ。言ったでしょ。彼女の傍にいてあげてって。
(彼女、って……)
分からない。誰のことだったか。
記憶はすべて暗闇に溶けて、体から流れ出してしまったようだ。
けれどこの声には聞き覚えがある。
声の主は暗闇の向こうで――
微笑っている?
――起きて。彼女が待ってる。
(おい、待て。お前は――)
――忘れないで。彼女にはあなたが必要よ、イーク。
(お前は誰だ。少なくとも、カミラじゃないだろう)
残った力を振り絞って頭をもたげ、暗闇の中に目を凝らした。しかし視線の先からは小さな笑い声が聞こえるだけで、声の主の姿は見えぬまま。
――何も知る必要はないわ、イーク。さあ、起きて――
「――だけど、ベルント。あっちのトカゲはほとんどアナタが倒しちゃったじゃない。前に戦ったときには倒せなかったんじゃなかったの?」
「まあそうだが、前に
大黒蜥蜴と戦ったのは俺やヴィルヘルムが十五、六の頃のことだぜ。あんときゃまだ
四傑にも選ばれてなかったし、当然ながら
咒武具も持ってなかった。それじゃいくら俺でも勝てなくて当然だろう」
「何だよ、昔≠チてあんたのガキの頃の話? じゃあビビッて損したぜえ。そんな昔のことだと思わねえだろ、フツー」
「そうか? 今の俺に倒せねえ魔物なんざいねえし、だとしたら必然的にガキの頃の話ってことになるだろ」
「ホント大雑把ッスよねベルントさんて……ジル姐、こんな人と付き合ってて疲れないんスか?」
「男なんてこれくらい適当な方がいいのよ。神経質な男は疲れるもの。その点ベルントは何にも考えてないから、御しやすくて助かるわ」
ギャハハハハ! そりゃないッスよ姐さん! ……とかいう品のない笑い声で目が覚めた。人が倒れているのにやかましいなと、眉を寄せて薄目を開ける。
睫毛の間から差し込む陽射しが眩しかった。いつの間にかずいぶん日が高く昇ったようだ。ぼんやりと意識が覚醒すると同時に、肉が腐ったような臭いが肺腑を満たした。魔物の血の臭い。瘴気の臭い。それが喪心する直前の記憶を呼び戻し、イークは己が腹部に手を当てる。
(生きてる……のか?)
血を吸った衣服の不快な感触こそ覚えたが、触れた先に痛みはなかった。小さな布地の破れを見つけて指を這わせてみるも、傷口らしきものは見つからない。
頭が異様にぼうっとするのは単に寝起きだからか、あるいはまだ瘴気の毒が抜けきっていないのか。後者だとすれば、たとえ傷は癒えていても命の危険はまだ去っていない。瘴毒というのは通常の解毒法では中和できず、至聖神カドシュの御力がなければ取り除くことができないからだ。
「イーク……!」
……我ながらとんだヘマをしたもんだな。虚空を眺めて他人事のようにそう思っていたら、突然視界に栗色の髪が降ってきた。
そう、文字どおり
降ってきたのだ。大地を潤す雨神タリアの慈悲のように、寝そべるイークの真上から。
「良かった、目が覚めて……」
気づけばそこにはフィロメーナがいて、覗き込むようにイークを見ていた。彼女のぱっちりとした瞳は涙で輪郭を失い、今にも洪水を起こしそうだ。
――ああ、良かった。彼女も無事だったか。
天使と見紛う造形の
顔を見て、イークが真っ先に思ったことはそれだった。
……にしたところで、距離が近い。
あともう数
葉近づけば、鼻と鼻が触れそうだ。
そもそも頭の後ろ側にある、妙に温かくてやわらかなものは何だろう。一行はリーノの町を出てからずっと野宿続きだが、これほど上等な枕を持参した覚えはない。イークは思考速度が鈍った頭で考えた。
ええと、この距離と位置関係とやわらかさは、つまり――自分は今、フィロメーナに膝枕をされている?
「――ッ!?」
次の瞬間、イークは
兎人族もかくやという瞬発力で跳び起きた。途端に塞がったはずの傷がずきりと痛み、呻いてうずくまる羽目になったが、女に膝枕をされるという醜態から脱することができたのならば構わない。
腹部を押さえつつ振り向けば、やはりそこには膝を揃えて座ったフィロメーナがいた。イークが突如跳ね起きたのを見て面食らっているようだが、イークはイークで羞恥と恥辱と毒の名残りで頭がぐらぐらして、まともに言葉が紡げない。
「あ、あんた……無事、だったのか……」
「それはこっちの台詞よ、優男君。あの状況から無事に生還するなんて、アナタ、ツイてるわね」
カラカラに乾いた喉から辛うじて声を絞り出すや、そう横槍を入れてきたのはジルヴィアだった。大黒蜥蜴とかいう魔物の群はイークが眠りこけている間にすっかり片づいたらしく、大地のあちこちに巨大な血溜まりが残っている。
ベルント率いるゲヴァルト族の面々は、全員無事だった。見たところ掠り傷一つ負っている者はいない。皆この悪臭の中、体中魔物の血で濡れているのも気にせずに、朝食の干し肉を囓っていたところのようだ。……よく食えるな、こんな腐臭の真っ只中で。
「おう、ようやくお目覚めか。気分はどうだ、青二才」
「あ、ああ……すこぶる快調とは言えないが、何とか無事だ……傷を治したのはあんたか、ジルヴィア?」
「ええ、そうよ。感謝なさい。傷の治療もそうだけど、アタシたちがたまたま聖水を持ち歩いてなきゃ、アナタ今頃
天樹の実になってたんだから」
「聖水……」
こいつらそんなものまで持ち歩いてたのか、とイークはいささか驚いた。聖水とはまさしく神の力を宿した水のことだ。詳しい製法は知らないが、その水には魔を祓う力があり、振り撒けば瘴気をも退散させることができるのだとか。
イークはそういう噂を聞いたことがあるだけで、実物を拝んだことはついぞなかった。しかし一説によれば、聖水を精製できるのは力ある一部の教会に限られ、一般人が入手するためには多額の寄付≠しなければならないという。
そんな高価で稀少なものを使わせてしまったのかと思うと、イークの額には冷や汗が滲んだ。消費した聖水の代金を払えと言われたら、現在手持ちが二
銀貨しかないイークは路頭に迷うことになる。
それはまずい。非常にまずい。イークは血まみれの腹を押さえたまま目を泳がせた。まずは、そうだ、とにかく彼らの機嫌を損ねないよう振る舞わなくては。
「あー……そ、そいつはどうも……助かったよ、ほんと……」
「だろうな。一瓶一
金額もする代物を使ってやったんだ、むしろ助かってもらわにゃ困る」
「あ、ああ……そうだよな……いや、その、あんたらがいてくれて、マジで助かっ――」
「使っていただいた聖水の弁償は、私がします。元はと言えば、イークが負傷したのは私のせいですから。それにジルヴィアさんには、イークの傷を癒やしていただいたご恩もあります。ですからどうぞ、お納め下さい」
イークが屈辱をこらえ、必死に拈り出そうとした言葉は敢えなく遮られた。かと思えば横から奇跡のように伸びた繊手が、ベルントへと差し出される。
イークは目を疑った。
フィロメーナの細い指の間からは、確かに金貨が覗いていた。
しかも一枚だけじゃない。二枚だ。金貨二枚もあれば、世間ではそこそこの剣が買える。というかフィロメーナ自身、今の手持ちは三金貨ほどしかないと、リーノでそう言っていたではないか。
「おい」
だからイークはとっさにフィロメーナの手を取った。ベルントがすかさず金を受け取ろうとしたのが見えたので、睨みながら遠ざけた。
「あんた、金を稼ぐ宛もないくせに、そんな大金をおいそれと人に恵むな。そいつをいま渡しちまったら、あんたの路銀が尽きるだろうが」
「でも」
「でもじゃねえ。あのとき俺があんたを助けたのは俺の意思で、ヘマしたのも俺だ。そのツケをあんたが払う必要はない。それは
戦士に対する侮辱だぞ」
思わず険しい声音で言うと、フィロメーナの手が小さく震えた。指先に感じる微かな震えに、甘美な痺れを覚えながら――いやいや、違う。何をやってるんだ俺は。怯えさせたかったわけじゃないだろ? そうじゃなくて……。
「じゃあなんだ、さっきの聖水代はてめえが払うのか、青二才。そうやって粋がるだけの手持ちはあるんだろうな?」
「その呼び方はやめろと言ったろ。当然金は払う。ただ、今すぐに、はさすがに無理だが……」
「何だとォ?」
「い、今はルシェッロ村の救済が最優先で、他の
依頼を入れてる暇がなかったんだよ。だがこの件が片づいたら、ちゃんと稼いであんたらに一金貨払う。何だったら、えーと……誓約書? とかいうのを書いてもいいし」
「馬鹿言いやがれ、即金で支払えねえなら利子をつけるのが当然ってモンだろが。というわけで一日支払いが遅れるごとに利子十
青銅貨、それでもいいってんなら呑んでやってもいいぜ」
「り、りし……?」
いきなり知らない単語を出されて、イークは静かに混乱した。そもそも誓約書だとか公証人だとかいう制度さえ、イークは郷を出てから知ったのだ。りし≠ネんてものは聞いたこともなければ見たこともない。
だが今のベルントの口振りを聞く限り、すぐさま金を用意できない罰として、支払いが遅れるごとにペナルティが発生する、ということか……?
「……だとしても一日ごとに十青銅貨って、高くないか?」
「何言ってんだ。聖水一瓶一金貨ってのはあくまで相場の話だぜ。本来ならもっと貢がなきゃ譲ってくれねえ教会だってごまんとあるんだ。ま、お前がこれから青二才≠カゃなくて甲斐性なし≠チて呼ばれてえなら話は別だが」
「わ、分かったよ、払えばいいんだろ、払えば! くそっ……そうと決まれば、さっさと行くぞ。山賊なんざとっとと蹴散らして、もっと実入りのいい仕事を探してやる……!」
「威勢がいいのは結構だけどね、優男君。アナタ結構ふらふらじゃない?」
「うるせえ、平気だ! あとあんたもその呼び方をやめろ!」
ニヤニヤしている熊みたいな大男と、愉しげに目を細めたモロ出し女にからかわれているのを感じながらも、イークはムキになって立ち上がった。案の定血が足りなくて眩暈がしたが、何とか両足を踏ん張って耐え忍ぶ。
とにかく一命は取り留めた。五体も満足だし、たとえ金欠だろうと生きてさえいれば何とかなる。何とかなる……はずだ。今更フィロメーナに縋って「やっぱり立て替えてくれ」なんて言えないし。
「あ、あの、イーク、それならやっぱり私がお金を払った方が……」
「いい! とにかく俺は着替えてくる! あんたらも出発の準備をしておけよ!」
イークは突き放すようにそう言うと、あとは自分の荷物を引っ掛けて歩き出した。確か向こうの雑木林の中を小川が流れていたはずだ。そこで血を洗い流し、さっさと着替えてルシェッロ村へ帰り着いてやる。
ときにそんなイークの後ろ姿を、フィロメーナがちょっと困ったように眺めていた。さらにそんなフィロメーナの横顔を盗み見て、ジルヴィアが愉快そうにくすりと笑う。
「
楽しくなってきたわね」