男の名はベルントといった。
ベルント・シュバルツ・ヴァンダルファルケ。
それがこの男のフルネームらしい。
奥の席にどっしりと腰かけたベルントの周囲には若い取り巻きが数人。猫背の小男から何か色々とモロ見えな長身の女まで、全部で七人はいる。
彼らを前にしてイークが真っ先に思ったことは、こいつらも
異邦人だな、ということだった。何しろベルントは流れるようなトラモント訛りではなく、やけに濁音を強調する荒っぽい喋り方をする。
「あ、あの、先程はありがとうございました。騒ぎを治めていただいて……」
――こいつら、どいつもこいつも只者じゃないな。
さっきの経緯を考えるに敵ということもないだろうが、一応警戒しておくに越したことはない。そう考えて黙り込んだイークに代わり、礼を述べたのはフィロメーナだった。
リーノの町一番と噂の『ぺローの酒場』。イークたちは現在その入り口に最も近く、それでいてちょっと薄暗い隅の方の席にいる。
暗いのは頭上に中二階の床が張り出しているせいだった。ベルントは武骨な外見に似合わず隅の方で静かに飲みたい性分≠ニ言っていたが、どうやらその言葉に嘘偽りはないらしい。
「あら、勘違いしないことね、お嬢さん。ベルントは別にあなたたちのために連中を追い払ったわけじゃないわ。単にヤツらが目障りだったから蹴り出しただけ。そうよね、ベルント?」
「ああ。とは言えこんな物騒なところに、世間知らずのおめでた娘を連れ込む方もどうかと思うがな」
気怠そうに頬杖をつき、色っぽく尋ねたモロ見えの女――こいつは服を身につける気があるのかないのか、谷間とか腹とか太腿とかとにかくありとあらゆるところを露出している――に答える形で、呆れるほどデカいジョッキを呷りながらベルントが言った。その言葉が自分に向けられたものだと一拍遅れて気がつき、イークは思わず片眉を上げる。
「あ、いえ、その、違うんです。彼は私の傭兵探しを手伝うためについてきてくれただけで……さっきの騒ぎも、元はと言えば私があの人たちに刃向かったのが原因ですから……」
「分かってんなら、次からは酒場であんな戯れ言を吐くんじゃねえぞ、姉ちゃん。その様子じゃガキの頃から籠の中で育ったクチだろうが、アンタの知ってる狭い世界の常識は外じゃほとんど通用しねえ。そりゃ、世の中の男がみんなお上品な
トラモント紳士だったなら、こんな愉快な話はねえがな」
相変わらず野太い声でベルントが言い、それを聞いた取り巻きたちが酔っ払い特有の哄笑を上げた。フィロメーナは己の無知と無謀を恥じているのか、赤面したままうつむいて何も言わない。
「それと、そこの青二才」
「……青二才≠チて、俺のことか?」
「おめえ以外に誰がいるってんだ? たかが酔っ払いの戯言なんぞに本気になって、殺す気で剣を抜くバカ野郎にゃピッタリのあだ名だろ」
「なんっ……」
「若造にしちゃいい腕なのは認めるがな。俺の目から見りゃあまだまだヒヨッコだ。大した実力もねえくせに粋がるなよ。
戦場じゃそういうヤツから死んでいくんだぜ」
瞬間、ビキ、と、額に青筋が走るのをイークは自覚した。……誰が粋がってるって? さっきのような連中にはあれくらいが妥当な反応だろうが。
ああいう輩は放っておけばおくほどつけ上がる。自分は故郷で似たようなやつらと喧嘩ばかりしていたからよく分かる。
が、イークは敢えてベルントに反論しなかった。言い草は気に障るものの、この男が自分の何十倍も強い戦士であることは誤魔化しようのない事実だ。
さっきの居合抜きをあっさり見切られたこともそうだが、それ以上にベルントのまとう気配はそんじょそこらの傭兵どもとは違った。歳はまだ三十五、六と見えるのに、年齢以上の死線を何度も潜り抜けてきたことが一目で分かる。
彼を取り巻く男女にしてもそうだ。ベルントほどではないにしろ皆手練れのようで、一人一人サシで勝負しても勝ち目があるか分からない。
だとしたらこいつらには逆らわないことだ。
それは戦って負けることを恐れているからではない。
自分より強い者の言葉には素直に従え=B
無軌道だった幼き日のイークに、かつてそう諭してくれた人がいた。
イークが人生で唯一恩師と仰いでいる人だ。
――自分より強い者の存在を認めることで、男はもっと強くなれる。だから強い相手の言うことは素直に聞いて、戦い方を見て、学べ。盗め。モノにしろ。
恩師はいつもそんな風に言っていた。そうやって自分も強くなったのだ、と。
あの人ならきっと今、目の前にいる傭兵たちとも互角の戦いをするだろう。そのくらい強くて聡明な人だった。普段の言動はちゃらんぽらんで、とてもそうは見えないのが玉に瑕だったけど。
でもイークは師の言葉が正しいことを身をもって知っている。ゆえに逆らわない。ベルントたちの嘲りも、今は先輩傭兵からの有り難いご忠告として受け取っておこう――いつか絶対吠え面かかせてやる、と胸中で誓いつつ。
「だけどお嬢さん、さっきの様子を見るにかなりいいトコのご令嬢なんじゃないの? そんなお嬢様がこんなところで傭兵探しだなんて、穏やかじゃないわね」
「私は、その……確かに爵位を持つ家の生まれですが、今は貴族としての肩書きを捨てた身です。ここにいらっしゃる皆さんは、全員傭兵仲間……ですか?」
「まあ、そんなとこね。正確には傭兵稼業でお金を稼ぎながら、あちこち旅して人探しをしてるんだけど」
「人探し?」
「ヴィルヘルム・シュバルツ・ヴァンダルファルケって男を知らねえか。何年か前までこの国の軍にいた男なんだが」
そう尋ねてきたベルントの隻眼が、暗がりの奥でギラリと光った――ように見えた。その獣じみた眼光に、イークは図らずも寒気を覚える。
だが同時に頭の片隅で、何かが引っかかるのを感じた。
ヴィルヘルム。
ヴィルヘルム・シュバルツ・ヴァンダルファルケ……。
その名前を、以前どこかで聞いたことがあるような気がする。そしてずいぶんゴツい名前だな、とひそかにそう思ったような。
次いで脳裏をよぎったのは、黒いイメージ。けれどそれが何なのか思い出せない。そもそもイークは記憶力がいい方ではないのだ。そういうのはいつも
あいつの役目だったから……と頭を悩ませていると、ときにフィロメーナが口を開いた。
「ヴィルヘルム……ヴィルヘルムって、正黄戦争で真帝軍を率いていたヴィルヘルム将軍のことですか? その天才的な剣術を見込んで、我が国の重鎮が客将に招いたという……」
「ああ、たぶんそのヴィルヘルムだ。アンタ、ヤツに会ったことがあるのか?」
「いいえ、残念ながら直接お会いしたことは……ですがまだお若いにもかかわらず、トラモント中央軍の老将たちもこぞって認める英傑だったと聞いています。元はあなた方と同じ、流浪の傭兵だったそうですが……」
「ハッ、あの裏切り者が英傑≠ヒ。こりゃまたおめでたい世の中になったモンだ」
壁と一体化した布張りの椅子に凭れかかり、女の肩に腕を回してベルントは嗤った。それは凄惨な冷笑であり嘲笑だった。
その黒い隻眼の奥で燃えているのは、恐らく憎悪だ。口元は笑っているのに、目だけが憤怒を湛えて血を求めている。
何が彼にそうさせるのかは知らない。しかしそんなベルントの殺気に恐れをなしたのか、フィロメーナが傍らで硬直していた。
英傑だと聞かされていた人物に対し、あからさまな殺意を燃やす相手が現れたら誰だってそうなるだろう。イークはフィロメーナの戸惑いを読み取ると、今度は自分が彼女に代わって口を開いた。
「けどシュバルツ・ヴァンダルファルケ≠チて、あんたと同じ姓じゃないか。姓が同じってことは、そのヴィルヘルムってやつは父親か兄弟か?」
「馬鹿を言え。あんなクソ野郎が血縁者であってたまるか。まあ、厳密には遠縁の血族だが……」
「アタシらの姓はね、氏族名なんだよ。つまり同じ氏族に属する者は、みんな同一の姓を名乗る。アタシの名前もジルヴィア・シュバルツ・ヴァンダルファルケ。シュバルツ・ヴァンダルファルケってのは、アタシらゲヴァルトの言葉で黒きハヤブサ≠チて意味さ」
「黒きハヤブサ……?」
ジルヴィアと名乗った女の発言を聞いて、イークは刹那、はっとした。
そう言われてみれば確かに、彼らは皆風を切る黒い鳥の刺青を入れている。ある者は肩に、ある者は手の甲に、またある者は首の後ろに。
あれが同じ氏族であることを示す印なのか。氏族……ということは、彼らは肉親同士ではないが血のつながりを持つ仲間だということだ。
だから皆同じ姓を名乗っている。彼らの姓名制度を取り入れるなら、郷の者は全員英雄タリアクリの子孫だと言われているイークの故郷でも、住人は皆同一の姓を名乗ることになるのだろう。もっとも辺境の集落であるルミジャフタには、姓名制度自体が存在していないのだけど。
「しかしそのゲヴァルト≠チてのは?」
「何だいアンタ、傭兵のくせにゲヴァルト族も知らないのかい?」
「げ、ゲヴァルト族……?」
「千から三千くらいの規模で各地をさすらう戦闘民族のことさ。アタシらゲヴァルトは昔からどこにも定住せずに、傭兵稼業で
生計を立ててる一族でね。まあ、要するに旅する軍隊ってわけだ。その軍隊は各氏族の長に率いられていて、戦争がある土地に出向いては報酬と引き換えに武力介入してる」
「へえ……そんな民族がいるとは知らなかった。それじゃああんたたちは、生まれたときから傭兵をやってるのか」
「そういうこと。と言ってもアタシらははぐれ者で、同族の仲間はここにいるので全部だけどね。別の氏族の仲間ならこの辺をうろついてるかもしれない。最近この国は傭兵の稼ぎ場になりつつあるし、隣のシャムシール砂王国はいつだって兵力を欲しがってるから」
なるほどな、とイークは心底から納得した。つまり彼らは生まれついての傭兵で、今は一族から出た罪人か何かを追ってここにいるというわけか。
ゲヴァルトなんて民族の存在は初めて知ったが、しかしイークは彼らにわずかな親近感を覚えた。何せイークもキニチ族と呼ばれる少数民族の出身だ。男は生まれた瞬間から戦士として育てられる故郷の風習も彼らの生い立ちと少し似ているし、それならベルントたちが並々ならぬ強者の風格をまとっているのにも頷ける。
「ときに姉ちゃん、アンタ、名前は?」
「え? あ、私はフィロメーナ……フィロメーナ・プラータノです」
「プラータノ、か。聞いたことのねえ家名だが、アンタさっき、この国の貴族の出だって言ったよな。それならヴィルヘルムの行方を知ってそうな軍人を知らねえか。この国じゃ軍のお偉いさんってのは、貴族出のヤツが多いんだろ?」
ベルントからドスのきいた声で尋ねられると、フィロメーナは口を噤んだ。そんな彼女の横顔を、イークは怪訝に思って盗み見る。
だって今、フィロメーナは姓をプラータノ≠ニ名乗った。しかし彼女の本当の名は確かフィロメーナ・オーロリー≠セったはずだ。
それを何故この男たちには隠すのだろう。父親が放ったという追っ手を警戒しているのだろうか。だが今の話を聞く限り、この男たちは彼女の父親と関係があるとは思えない。なのにどうして正体を隠す……?
「……それでしたら正黄戦争時代、ヴィルヘルム将軍と同じ真帝軍にいた方を当たってみてはいかがでしょう。現在トラモント黄皇国の各地を治めている将軍たちは皆、真帝軍で軍功を挙げた方々です。彼らは現皇帝の復位に貢献したヴィルヘルム将軍を戦友と思っているでしょうし、もしかしたら戦後の彼の足取りを知っているかも」
「だが地方を治める大将軍なんかに、俺たちみたいな余所者がパッと行って会えるとは思えねえ。アンタの口添えで俺たちを紹介してもらうってのは可能か?」
「それは……」
と、フィロメーナは言い淀んだ。無理もない。彼女はさっき自分で言っていたように、父親の反対を押し切って実家を飛び出してきた
元ご令嬢だ。
そんな彼女の言葉が、この国でどれだけの影響力を持つのかイークは知らない。
けれどフィロメーナは覚悟を決めたように唇を結ぶと、真剣な面持ちで顔を上げた。
「分かりました。各地を治めるトラモント五黄将の中には、面識のある方が何人かいらっしゃいます。その中でも特に信頼できるのが――北でシャムシール砂王国との国境を守っている、ガルテリオ・ヴィンツェンツィオ将軍です」
「ガルテリオ・ヴィンツェンツィオ? ヴィンツェンツィオって言や、正黄戦争が終わって以来負けなしで有名な常勝将軍か」
「はい。あの方であればきっと私の名をご記憶のはず。ですので私からあの方宛に紹介状をしたためましょう。ですが代わりに、あなた方にも協力していただきたいことがあります」
「協力してほしいこと?」
「私たちはこの町の南西にある、ルシェッロという村を救いたいのです」
驚くほど巧みに話をつなぎ、フィロメーナは交渉のテーブルの上にルシェッロ村の名前を上げた。よほどヴィルヘルムという男の情報が欲しいのか、ベルントたちも乗り気で聞き耳を立ててくる。
そこでフィロメーナは可能な限り手短に、自分たちがこの町へ来た経緯を説明した。つまりルシェッロ村が現在山賊たちの支配下にあること、そのために村人の暮らしが困窮していること、地方軍が重い腰を上げないこと、それならばと有志を募り村人たちを救出しようとしていることを、だ。
「なるほど。アンタらが傭兵を探してここへ来たってのはそういうことかい。だがそれなら斡旋協会を通して有志を募った方が早えだろうに、なんでわざわざこんなところで声がけしてる?」
「それは、その……少々経済的問題が発生したというか……」
「経済的問題?」
「要するに、充分な傭兵を雇う金がないってことだ。そもそもこいつは斡旋協会の存在も、傭兵一人雇うのに最低一
金貨は必要なこともまったく知らなかったらしい」
「ぶはははは! 何だそりゃ? 姉ちゃん、アンタよくそんなんで村を救おうなんて思えたなァ!」
イークがありのまま真実を打ち明けると、たちまちベルントらが噴飯した。他方、フィロメーナは反論の余地がないらしく、何か言いたげにしつつもこらえて沈黙を貫いている。
「そう、だけどそれは困ったわね」
「困ったって何がだ、ジル?」
「ベルント、アナタ自分がしたことをもう忘れたの? さっきのウジ虫連中を叩き出したとき、店に詫び代として最後の金貨を渡しちゃったでしょ。おかげでアタシたち金欠よ」
「あ? そうなのか? 今、手持ちいくらだ?」
「六
銀貨四
青銅貨」
「ろ……」
「今夜の酒代を払ったら今夜この町に一泊するお金しか残らないけど、どうするの?」
ベルントの逞しい腕を離れ、再び頬杖をついたジルヴィアがそう尋ねると、あれほど賑やかだった席がシン……と静まり返った。
ゲヴァルト一行は銘々手にした杯や料理に視線を落とし、完全に沈黙している。……なるほど。これがハノーク語で言うところのどんぶり勘定≠ニいうやつか。
「……。よし、分かった。姉ちゃん、その依頼受けよう」
「え?」
「安心しろ。アンタの計算じゃ戦力は十人必要らしいが、俺たち七人とそこの若造がいれば申し分ねえ。そっちにいるジャッポは
翼刻使い、それにジルもこう見えて
蒼?刻の使い手だ。そして俺たちゲヴァルトは、一人一人が並の兵士十人に匹敵する。山賊ごとき目じゃねえぜ」
「で、その心は?」
「おめえら、金がねえとは言ってもまったくの無一物で傭兵を雇おうとしてたわけじゃねえだろ。いくらなら出せる?」
「報酬ならガルテリオ・ヴィンツェンツィオへの紹介状があるだろ」
「馬鹿を言え、それはさっきおめえらをくだらねえ騒ぎから助けてやった分だ」
「あれはあんたが勝手にやったことだって言わなかったか?」
「さあ、記憶にねえな。お前はどうだ、ジル?」
「ごめんなさいね、アナタたち。この人、見てのとおり豪快だから」
「ああ、確かに豪快な忘却力だ」
イークが半眼になって冷然たる眼差しを注いでも、ベルントは意に介す様子がなかった。それどころか馬鹿でかいジョッキの中の
麦酒を呷って、完全にこちらから目を逸している。こういう大人にだけはなりたくない。
「どうする、フィロメーナ? こいつらはこう言ってるが」
「……そうね。だけどこちらも五倍の敵と戦ってくれ、なんて無茶を言っているんだもの。気持ちだけでも報酬をお支払するのが筋だと思うわ」
「だがあんただって、そんなに金を持ってるわけじゃないだろ?」
「ええ。だから代わりに――こちらで手を打っていただけませんか?」
言うが早いか、フィロメーナはわずか首を傾けると、白く細い指先をそっと栗色の髪へ差し入れた。
そうして隠れていた左耳から何かを外し、ベルントへと差し出す。彼の分厚い掌に乗せられたそれは、雫型をした赤い宝石の耳飾りだった。
「あら、素敵。それ、
赤暉石じゃない?」
と、そこで目ざとく身を乗り出したジルヴィアが言う。赤暉石……というのはあの赤い宝石の名前だろうか。イークは花とか宝石とか、女が好きそうなものに対する知識が絶望的に不足しているから、そう推測するしかない。
「その耳飾りは、黄都ソルレカランテに工房を持つ有名細工師の作です。きちんとした質屋か宝石店へ持っていけば、最低でも一金貨にはなるはず。交渉次第では更に高い値がつくでしょう。ですのでそれを報酬の代わりにお譲りします」
「へえ……そうかい。そいつはありがてえ。だがいいのか? この耳飾り、片方だけってことはもしかしなくても――」
「いいんです。どうか受け取って下さい。今の私には……それを身につけている資格はありませんから」
(……資格?)
たかが耳飾りを身につけるのに、資格なんてものが必要なのだろうか。イークはまた怪訝に思って、フィロメーナの横顔を盗み見た。
彼女は耳飾りがベルントの手に収まったのを見届けると、微かに眉を寄せ唇を結ぶ。その表情を目にした途端、図らずもイークの胸はざわついた。
――どうしてそんな悲しそうな顔をするんだ。
そこまで大事なものなら、手放さなければいい。条件を翻したのは相手の方なのだし、もっと上手い交渉の仕方だってあるはずだ。
なのに、どうして。
イークはフィロメーナを問い詰めたい衝動に駆られた。けれどそれより一寸早く、ベルントの方が口火を切る。
「よし、それじゃあ交渉は成立だ。そのルシェッロ村とやらの救出に、俺たちも一役買ってやろう。で、出発はいつだ?」
「村の窮状を思えば、できるだけ早く発ちたいというのが本音です。準備にはどれくらいの時間が必要ですか?」
「俺たちはほとんど身一つだ。準備が必要なものと言えば食糧くらいか。それも朝のうちに買い込んじまえば、明日の昼には出発できるぜ」
「では明日、義神の刻(十一時)にイル・チェントロ聖堂前に集合ということでいかがでしょう?」
「分かった、それでいい。それじゃ明日、義神の刻に」
「はい。よろしくお願いします」
フィロメーナは折り目正しくそう言うと、最後に自分の外套の裾をちょっと摘み、膝を折る仕草をした。それがトラモント貴族式の礼だとイークが知るのは、まだ当分先の話だ。
ほどなくイークたちはベルントらと別れ、今夜はそのまま宿へ帰ることにした。
けれどイークの脳裏にはまだ、先程の横顔がチラついている。