黄砂岩の壁が続く廊下を、ジェイダは一人、歩いていた。
このお屋敷に引き取られてから、今日で七日目になる。
下級将校の家から一代で身を立てた、近衛軍上級将校ガルテリオ・ヴィンツェンツィオ。彼の屋敷はその肩書きに見合わず質素で慎ましやか、贅沢品の類はほとんどなくて、屋敷自体もかなり小さく見えた。この間までジェイダが住んでいた民家に比べればもちろんとても大きいのだけれど、話に聞いていた豪華絢爛な貴族のお屋敷とはちょっと趣が違う気がする。
だって部屋数は最低限しかないし、使用人も少ない。高価な絵画や陶器の代わりに溢れているのは、たくさんの古書や研究書、武器防具の類ばかり。
おまけに時々、使用人たちの仕事場である地下室から悲鳴が聞こえてきたりする。初めてそれを聞いたときには何か、屋敷の地下で自分などには思いも寄らぬ恐ろしいことが起きているのではないかとかなり怯えた。
まあ、実際は地下にある研究室とやらで、ガルテリオの妻のアンジェ――彼女は若き考古学者で、変わり者だがあの帝立オリアナ学院の教授だ――が古代の利器とやらの実験をし、変な煙を充満させたり何かを爆発させたりしているせい、らしいのだけど。
(変わったお屋敷だな)
と思う。いや、ジェイダ自身は生粋の平民で、本物の貴族の屋敷に立ち入ることなどこれが初めてなのだが、やっぱり何か違う……ような気がする。
ジェイダの父はかつて晶爵家のお屋敷に住んでいた、と言っていた。元は貴族の息子だったのだ。それが平民の母と恋に落ち、父親から勘当されたのだとか。
ということは父も昔はこういうお屋敷に住んでいたのかな、とぼんやり思う。ジェイダが物心ついた頃にはもうすっかり平民暮らしが板について、貴族らしさなんて微塵もなかった彼からは想像もつかないけれど。
「……」
いくつかの部屋の前を通り過ぎながら、壁に飾られた風景画を横目に見やる。あれはどこの風景だろう。崖の上に身を寄せ合うたくさんの家々と、その下に悠々と広がる――海=H
「なあ、ジェイダ。お前が軍に入ったら、記念に海へ連れていってやろう。海はいいぞ。タリア湖やラフィ湖なんかとは全然違う。船に乗って海原を渡っているとな、その気になればどこへだって行けてしまうような、そんな気分になるんだ」
不意に、幼い頃聞いた父の言葉が甦った。父は近衛軍に配属される前は、遠い町で海軍に属していたのだ。
だからあの人は海が好きだった。近衛軍に転属となったのは祖父の意思で、父の希望ではなかったらしい。
叶うことなら死ぬまで海軍にいたかった、と彼は言った。
海に船で漕ぎ出して、甲板で寝そべったりしていると、自分がいかにちっぽけな人間か――この世界がいかに悠大で美しいか、身に染みてよく分かる。その瞬間がたまらなく好きだった、と。
けれど喜々としてそう語る父の笑顔を思い出すと、ジェイダの心は暗く翳った。胸が締めつけられるようで、何だか少し息苦しい。
父シルトは、十日前に死んだ。
先日城の外で皇太子オルランドを狙った賊の襲撃があり、その際、己が使命をまっとうして名誉の戦死を遂げたらしい。
だからジェイダは、父の上官であったガルテリオに引き取られた――シルトは乱戦の中、私を庇って命を落とした。そのとき彼に託されたのだ。娘を頼む、と。
あの古くてみすぼらしい家まで自分を迎えに来てくれたガルテリオは、確かそう言っていた。彼は上級将校の身でありながらたった一人でジェイダのもとを訪ねてきて、自らの口で
部下の死を告げ、真摯に頭を下げたのだった。
そんなことをされたところで、父が戻ってくるわけではない。だけどジェイダは、目の前で馬鹿正直に謝罪する彼の姿を見ていたら、責める気にはなれなかった。
だから「君を引き取りたい」というガルテリオの申し出も素直に受け入れられたのだ。本当ならもっと訝ったり警戒したりすべきであったろうに、この人についていけば大丈夫、と何故かそう思えた。実際彼の家族は温かで、余所者のジェイダを快く屋敷に迎えてくれた。
(……でも、)
と、ジェイダは肩から垂れる草色の髪を目にして思う。母譲りのその髪を無意識に両手で掴み、ぎゅっと握ってため息をつく。
(でも、やっぱり私は余所者だ)
だって分かるのだ。この屋敷の人々が、どんなにか自分に気を遣ってくれていることが。
時折すれ違う使用人たちですら、花が咲いたような笑顔でいちいち声をかけてくれる。ジェイダが早く屋敷に馴染めるように、父を失った悲しみから立ち直れるように。
けれど彼らのそんな優しさが、今のジェイダには何故かこたえた。親切にされればされるほど、殻に閉じこもっていく自分がいる。
――あの子は可哀想な子だから。
そう言われているような気がするのだ。
自分はひとりぼっちだという現実を、突きつけられている気がするのだ。
もう父はいない。母も。
だからこれからはシルトの娘ではなく、哀れな戦災孤児として扱われる。
それが少しだけ、つらい。身寄りもない平民の子でありながら、このようなお屋敷に引き取ってもらえただけ幸運だと思う。彼らに他意などないことも分かっている。だけど。
(……会いたいよ、父さん……)
じわり、視界が滲むのを感じながら、しかしジェイダは歩みを速めた。自分の心がまたぐらついているのを感じて、早く部屋に戻らなければ、と思う。
こんな廊下の真ん中で泣いたりしたら、また余計な気を遣われるじゃないか。そんなのはごめんだった。これ以上みじめな思いはしたくない。だから、早く――。
「――だ……って……まって、じぇーだ!」
瞬間、意識を現実に引き戻されて、ジェイダははっと我に返った。
呼び声がする。背後から。
それに気づいた刹那、慌てて目元を拭い、何事もない風を装って振り向いた。そして少し目を丸くする。
廊下の向こうからとてとてと必死に走ってくるのは――子供だ。まだ五歳にも満たないくらいの。
「ティノ様」
と、ジェイダは片膝をつきながら、とっさにそう呼びかけた。
彼はガルテリオとアンジェの一人息子だ。身長はまだ二十
葉(一メートル)にも満たなくて、最近ようやく色々な言葉を覚え出したと評判の。
「はあ……はあ……もう、じぇーだ、ひどいよ! ぼく、なんかいもまってっていったのに!」
「そ、そうだったんですか。ごめんなさい、気がつかなくて……」
「ぼく、ずっとじぇーだのうしろにいたんだよ! はあ、もう、つかれた……」
よほど長い距離を走ってきたのだろうか。ティノは大儀そうにそう言うと、屈み込んで弾んだ息を整えた。
しかしジェイダはこういうとき、彼とどう接したらいいのか分からない。ジェイダには兄弟がいないし、そもそもティノとは歳が離れすぎていて、こんな小さな生物と何を話せばいいのだ、というのが正直なところだ。
かと言ってその柔肌は触れたら簡単に壊れてしまいそうだし、頭を撫でてやるというのも偉そうで気が引ける。何しろ彼はこのヴィンツェンツィオ家の跡取りなのだ。ガルテリオには「弟だと思え」と言われたが、やっぱり未来の当主様をぞんざいに扱うのは恐れ多い。後々禍根を残したりしたら大変だし。
「あ、あの、それで……私に何か用ですか?」
「うん。あのね、じぇーだ、あたま、こうして?」
「……こう、って……頭を下げればいいんですか?」
「そう! ぼくの手がとどくようにして!」
なんでそんなことをしなきゃいけないんだろう……と思いつつ、逆らうわけにもいかないので、ジェイダは言われるがまま頭を下げた。床に膝をついた体勢で、まるで臣下の礼でも取るように
頭を垂れる。
すると嬉しそうににんまり笑ったティノが、背中から取り出した何かをジェイダの髪にぷすりと挿した。
もういいよ、と言うので顔を上げる。頭の左側に手をやってみると、これは……花?
「どう? きれいでしょ?」
満足げにそう言って、ティノはもう一本、背中から花を取り出した。それは花弁が反り返るくらい大輪の、白いリリジェの花だった。
実に見事な咲きっぷりで、花部は幼いティノの掌よりも大きい。目の前に差し出されるとむわっと甘い香りが漂い、自分の頭には今、これと同じものが挿さっているのか、と思う。
「これねー、おはなねー、だにおがもってっていーよってくれたの。だからじぇーだにあげようとおもってねー、おいかけてきたんだよ!」
「……どうして、この花を私に?」
「えー? だって、じぇーだがおはなつけたらきれいだなっておもったから。おとうさんだってきっとそういうよ!」
何の衒いもなく言って、ティノは太陽みたいに笑った。
「これもあげる!」と差し出された白い花が、視界をいっぱいに埋め尽くす。
途端に何故だか、涙腺が緩んだ。
――おとうさんだってきっとそういうよ!
ティノが満面の笑みと共に紡いだ言葉が、耳の奥でこだまする。
彼が言うお父さん≠ニはシルトのことじゃない。ガルテリオだ。
それは分かっている。でも、どうしてかその言葉が無性に嬉しくて。
「じぇーだ?」
ティノが驚きの声を上げるのが聞こえた。だけどジェイダはこらえきれなくて、ぽろりと涙を零してしまう。
泣き顔を見られまいとうつむいたら、ティノは慌てふためき出した。自分がジェイダを泣かせてしまったと思ったらしい。
「あ、あ、じぇーだ、ごめんね? おはなきらい? ぼく、きれいだとおもったの。ごめんね、ごめんね……!」
「違います、ティノ様」
その慌てっぷりが少し可笑しくて、ジェイダはぷっと笑ってしまった。
次いでようやく顔を上げ、彼の手にある花を受け取る。
花弁に鼻を近づけて、そっと匂いを嗅いでみた。
優しくて豊満な、甘い香り。それがジェイダの胸を満たしていく。
良かった。
もう、寂しくない。
「ごめんなさい、驚かせてしまって。だけどこれは嬉し泣きです」
「う、うれしなき……?」
「はい。ティノ様からの贈り物が、嬉しくて。ありがとう。大切にします」
ジェイダが笑ってそう言うと、ティノは束の間ぽかんとしていた。
けれどやがてこちらの意図が伝わったのか、彼の顔にも花が咲く。
ジェイダはただ、彼のその無垢な優しさが嬉しかった。
可哀想な境遇だからとか、きっと寂しいだろうからとか。
ティノはそんな理由でジェイダを気遣ってくれたわけじゃない。
ただ純粋に自分を想ってくれた、その気持ちが。
(ねえ、父さん)
もう大丈夫。
どうやら私は、ひとりぼっちじゃないみたい。
◯ ● ◯
ケリーの部屋は、ヴィンツェンツィオ屋敷の東の塔にある。
窓は北の庭に面していて、春はそこからの眺めが美しい。庭師のダニオが丹精込めて手入れしている庭園では、冬でも季節の花が咲く。でも、やっぱりケリーは春が好きだ。
(今年もリリジェの花が咲くまであと少し、か)
と、雪降る窓の外を眺めながら、ケリーは物思いに耽っていた。
すっと開けた机の引き出しには、季節外れの白い花。だけどそれは、あの日ティノからもらった花じゃない。
あのときの花は押し花にするには大きすぎて断念し、せめて代わりにと街で探した造花の髪飾りだった。手触り以外は本物のリリジェの花そっくりで、ケリーはこれをひそかに気に入っている。
(ま、これを頭につける機会はたぶん二度と来ないけど)
久しぶりに手に取って眺めながら、内心そう苦笑した。元々男勝りな性格ではあったけど、今は軍人になったことで、その性格にいっそう磨きがかかっている。
年頃の娘のように着飾ったり化粧をしたり、そういうのは柄じゃなかった。鎧を着て武器を取り、前線で敵の血を浴びる。
それが最もしっくりくる自分には、この花はもう似合わないだろう、と思った。これと合わせられそうな、女らしい服も持っていないし。
(だけど何故だか捨てられないんだよね)
オーウェンあたりに見られたらきっと抱腹絶倒されるから、もうずいぶん長いことこの場所に
収い込んだまま。
それでもここへ戻る度眺めては、これに勇気をもらうのだ。
大丈夫。
私はまだ戦える、と。
「――ケリー! そろそろ行くよー!」
と、ときに愛しい呼び声がして、ケリーはふと顔を上げた。それから引き出しに花を収い、槍を取りつつ返事する。
「今行きます、ティノ様」
今日は記念すべきティノの登城日。
彼は今年で成人し、これから近衛軍士官としての日々を送る。
自分はそのティノを――いや、ジェロディを、ガルテリオから託された。
あの日、父が自分をガルテリオに託したように。
今度はガルテリオが、息子を頼む、と。
(お任せ下さい、ガル様)
心の中でそう囁いて、ケリーは自室をあとにした。
足早に屋敷の玄関へ向かうと、そこにはかけがえのない家族がいる。
父のガルテリオ。妹のマリステア。
腐れ縁のオーウェンと――弟の、ジェロディ。
「お待たせしました、ティノ様」
言って、ケリーは微笑んだ。
自分はこの家族のために、これからも戦い続けよう。
そう心に誓いながら。
まだ見ぬ春に、思いを馳せて。
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リリジェの花言葉は「無垢」。