その他多数の動物を助けるために実験と称して小動物の腹を開くの。皮肉よね。
獣医を志す友人の悲しそうな笑顔にはこわいと書いてあったわ。
牛や鶏を食べた口であの動物がかわいいと泣き笑うこの矛盾に気づいたってなにも変わらないの。
ちっぽけな私はいのちの食べ方をひたすら見てる、そこに意味なんてないよ。
もうすぐ夕方です。
今日の晩御飯はとんかつだ。
有り難くいただきましょう。
偽善なんてと本当の善を探してた時期があったが、結局掘り起こして出たものは偽善の山だったよ。
その時の絶望感っていうのかな、今までの優しさを全否定されたみたいなあの感覚は凄まじいものでした。
でもそれでいいんじゃないかってそう思い始めたのはいつ頃だったか、確かいつかの記事に偽善と善について書いた頃だと思う。
その時死ぬほど書いたから偽善についてはあまり深くは書かないけど、自分の為に優しさ出せる素晴らしさを最近感じてます。
ここで勘違いしてほしくないのは全てが全て私の勝手な行動だと言うことだ。
要は相手が返さなかったからといって「こんだけしてやったのに」と嘆くのはお門違いなんさ。
恋愛は特にこれがあるんじゃなかろうか、人間関係ってのは深めていけばいくほど驕りが顔を出すから不思議ですな。
驕りが出ぬよう気を引き締めていこう、ぴしっとね。
おがくずさんへ
おがくずさんのその意見、私も深く頷けます。
例えばプレゼントするってなった時でもそれは相手に喜んでほしいという私のエゴで、掘り起こせばもっとたくさんそれはあります。
うん、それでいいと思うのです。
その人が動いた事で確かにそこには笑顔があるんですもの。
どこかの言葉にあるようにやらない善よりやる偽善。
まさに今動けば変えられるかもしれない力を私たちは常に持ってるはずだから。
現におがくずさんの意見で私はまた新しい世界を覗けました。ありがとう。
リョウちゃんへ
ありがとうっていう言葉以上にこの気持ち伝えられる言葉がないのがちと悔しいけど。
やっぱりこれしかないよ。
ありがとう、リョウちゃん。
02/15 08:35の方
私のことばを好きだと思ってくれるならそう言ってくれた優しい貴方を私は素敵だと思うよ。
RADすきな人が居て嬉しいな、アルバム早く聞きたいですね。
ありがとうという言葉は不思議なもので、使えば使うほど周りの笑顔が増えていきます。
なんでかな、明日もまたがんばろうって思えてしまうんさ。
がんばろうね、がんばろう。
いま私は考えてる。
でも人間のスペックから見れば10分の1も使えてないに違いない。
いやそんな事はどうでもよくて、話したいのは如何に普通というものが曖昧なものかと言うことで。
例えば世の中の半数が太っちょな女性を好きだと言えば世間はたちまちそれを基準に動き始めるのである。
多勢に無勢、多数の意見の力さえ合わされば戦争さえ軽くできてしまう。ああ悲しきかな。
立場によりけりでころころと顔を変える普通に同調しようとしたって別の普通からすればそれは異常なんだ。
ならこれ以上に信じらんないものなんてないじゃないかという感想を添えて終わりにしたいと思います。
んー、そのうちまたこれを批判する記事を上げそうな気がするぞ。
まぁそんな事よりそうめんが食べたいね、夏まで待てないんだけどどうしようか。
困ったな。
だれかの悲しさに寄り添う度、その人の笑顔に喜ぶ気持ちの隅っこで膝抱えてる寂しさに気づいた。
誰かと繋がりが出来る度肥えてくこれに押し潰されそうな私が確かに居ます。
ねぇあんさん、ちょいと鋏を貸しとくれ。
そう言って切り始めたのはいつからだっけか。
いつの間にか忘れられる生き方を歩みつつあるけれど、寂しそうな背中探すのは止められないな。
ありがとうなんて言葉までもらっちゃった日にゃ帰った部屋でまた膝抱えてるんだ。
君だけは私を忘れないでよ。
そう泣きながら考えて吐いて自己顕示欲を撒き散らす日々です。
風邪引きました。
ごほんごほん。
近頃拍手からもコメントもらってる、自分の出すものに反応があるのはすごく有り難いね。
ほんの一粒でいい、気持ちの足しにできたなら私は嬉しいです。
ただ鵜呑みはだめだよ。
そこから生まれる自分の気持ちを大切にしてください。