あの日、あの時、あの瞬間の出来事を、僕はきっと一生忘れないと思う。



――僕らの夏は,始まったばかり――



 世界の危機を救ったという、まるで御伽噺やドラマのような出来事が現実に起きて、その後に行われた陣内栄の通夜等も何事も無く終わり、漸く訪れた平穏な日常の中で、小磯健二はぼんやりとした表情を浮かべながら縁側で夜空に浮かぶ月を見上げていた。
 深く濃い藍色の夜空に神々しく浮かぶ月は都会で見るものとは全く違い、まるで別世界のモノのように思える。此処に来てからは全てが新鮮で、健二はふと今までの事も夢なのではなかっただろうかと思ってしまう。

 最初はバイトと称して連れて来られた、憧れの先輩である篠原夏希の田舎の陣内家の屋敷は世界を守った代償(と言うのもあれだが)でほぼ半壊したと言える常態だったが、それでも住めない訳ではなく、壊れた瓦礫や木材を大まかに片付けてまだ使えそうな部屋に何人かで雑魚寝するような形となった。
 だが、健二は客であり、今回の件で体力・精神的に相当疲労したという配慮で、一人で客間を使わせてもらっている。と言っても、その客間も半壊してあちらこちらが酷いことになっていたが、それでも寝れない訳ではない。
 本人は大丈夫だからと言い張ってはいたが、オズのパスワードを何度も解き『あらわし』の軌道を変えた際に極限状態まで使った脳は悲鳴をあげ、眩暈と痙攣で動けない状態になっていたのだ。それもあり、一人の方が落ち着いて安静に過ごせるだろうと医者である万作に言われてしまうと、健二は渋々頷くことしか出来ない。
 そんなこんなで、当初予定していたよりも大幅に長く滞在することとなった陣内家に、それなりに馴染んできたとは言え、どちらかというと人見知りな性格がある健二は遠慮がちに日々を過ごしながらも、この生活を楽しんでいた。
 父は単身赴任で、母は忙しさで家を空けることが多く一人の時間が長かった健二にとって、この大家族と過ごす生活はある意味で夢であり、あらためて人の温かさというものと家族の絆の大切さを実感する。
 一人っ子である健二にとって、小さい子供達の面倒をみたり遊んだりすることは疲れはするものの楽しいことであるし、翔太のようなお兄さんの存在は憧れでもあった。
 そして、オズでの事件絡みとはいえ、世界的に有名であるキングカズマ―そのアバターの本人でもある池沢佳主馬とも出会えたのだ。
「やっぱ、すごいなぁ。でも夢みたいだ」
 そうつぶやいた健二は、ふと月に向かって手を伸ばし、まるで月を掴むかのように手を握り締める。

「何が夢みたいなの?」

 一人きりの空間に突然響き渡った声に驚き、ヒッと間抜けな声を上げた健二はその声がした方向に顔を向けた。そして、其処に現れたその人物に更に驚いたように目を見開く。
「かっ、佳主馬くんっ?!」
 そう、其処に居たのは今の今まで健二の思考にいた佳主馬本人だった。突然の来訪者にあわあわとして、思わず向き直り正座の姿勢をとってしまった健二を見て、佳主馬はふぅ、と溜息をつく。
「あのさ、お兄さんの方が年上なんだし、そんなに畏まられても、こっちが困るんだけど」
「え、あ、あぁ…」
 佳主馬は健二の隣に座り込みながらそう言うと、当の本人は分かったのか分かってないのか曖昧な返事をして、猫背気味の背をさらに丸めて視線を床に落とした。
「………」
「………」
 何故だか互いに黙り込んでしまい妙な空気になるが、それは嫌なものではなく、健二は何となく気恥ずかしい気持ちになる。それもそうだ。だって、目の前にはあのキングカズマが居るのだから。いや、正しく言えばキングカズマを自在に操る佳主馬本人だが。
 年下とはいえ、自分も憧れるあのキングカズマの主である佳主馬と二人きりで居るとなると、畏まらない方が無理だと思いまがらも、佳主馬の言うことも一理ある。
「…えっと…こんな時間まで、起きてたの?」
「いや、寝れなくてそこら辺をうろついてた」
「そっか」
「お兄さんは?」
「僕も同じだよ」
「ふーん…」
 ふと思ったことを口に出すと、佳主馬も話に乗ってくれた。彼とこうやって話すことがあまり無かったことに気付いた健二は、何だか嬉しくなって口元が緩む。こうして普通の会話をしていると、年の近い弟が出来たような、そんなくすぐったく温かい気持ちになった。
「…あ、そういえば、こうやって二人きりで話すのって久し振りだよね…?」
「うん。おばあちゃんの誕生日とか、この家の片付けとかでバタバタしてたからね」
 おばあちゃんの誕生日―葬儀とは決して言わない佳主馬の言葉に、あの日のことを思い出す。陣内家の皆が笑顔で栄の誕生日を祝った、哀しい空気など微塵も無く、心から喜び合っていたあの日。皆の眩しい笑顔に、健二は栄という大きな存在の偉大さを再確認させられたのだ。
そして、そんな中に自分も居れたということが何よりも嬉しかった。
「ねぇ、さっきの質問」
「ふへっ?」
 いきなり違う話題を出されるとまた間抜けな声を上げて隣の佳主馬に視線をやる健二。
「さっきの質問、答えてよ」
 佳主馬が現れる前の健二のように、月を見上げながらそう言う彼の言葉に、あぁ、と今思い出しましたといったような声を零す健二は、少し恥ずかしそうに頬を指で掻いてから視線を月に向けた。
「佳主馬くんと出会えたこととか、此処で起きた出来事とか、全部、夢みたいだなって思って」
 今までの事を思い出しながら、一つ一つの言葉を噛み締めるように答えられたそれに、佳主馬は少し目を丸くして健二を見る。
「…うん、確かに…夢みたいかもしれないくらい、色んなことがあった…」
 佳主馬もそう呟くように言うと、今までのことに思いを馳せた。オズでの世界中を揺るがし危機に陥ったあの事件で、佳主馬は様々な経験をし、大切な家族を守り、かけがえのないものを手に入れた。そして、どんな事があっても諦めないことの大切さを教えてくれたのは―
「健二さん」
 突然佳主馬から自分の名前を呼ばれたことに驚いて目を丸くさせた健二は、彼に視線を向けたまま固まってしまう。そんな健二の前で、正座をして姿勢を正し真っ直ぐ真剣な眼差しを浮かべた佳主馬は、すぅっと息を吸い込んで。
「ありがとう」
と、精一杯の気持ちを込めて言い放った。今までのやりとりからは脈絡のないようなその言葉に、きょとんとしたまま口を半開きにしている健二をよそに、佳主馬は言葉を続ける。
「健二さんが、最後まで諦めなかったから、皆を守れた。健二さんが居なかったら、キングカズマは復活出来なかった。だから、本当にありがとうございます」
 それは、あの事件があってから佳主馬が健二に対して言いたかった感謝の言葉と気持ち。
 初めは頼りなさそうな人だ、としか思っていなかった佳主馬だが、あの事件の最中でそれは覆った。全ての始まりでもあった、オズの管理塔のパスワードを解いた(しかし最後の一文字を間違えたというニアミスだったが)ことや、翔太に逮捕された時に皆に向かって言い放った言葉(これはその場で聞いた訳ではなく、後に母の聖美から聞いたものだが)や、栄が亡くなった時に万助がラブマシーンへの敵討ちを提案した時に自らも名乗りあげたこと、佳主馬がラブマシーンにリベンジをして追い込むまでいったのたが、最終的には取り込まれてしまって負けた時もまだ諦めていなかったのは健二だけだった。あらわしが陣内家に落ちるその時も、健二だけは諦めていなかった。
 そして、そんな中でも自分のことより陣内家の皆を気遣う優しさ。
 池沢佳主馬は、小磯健二という人間を、心から尊敬したのだった。

********