静かな、森の奥。
そこを歩いていく、漆黒の髪の隻眼の少年……シュタウフェンベルク。
彼は緑がかった青の瞳を周囲にめぐらせた。
「……気のせい、だろうか」
彼は小さく呟く。
そして溜息を吐き出した。
今日は、一人で巡回任務に出掛けてきた彼。
副官であるヘフテンは別の仕事。
正式に言えば、シュタウフェンベルクを休ませるためにヘフテンが仕事の大半を引き受けた、という状況なのだけれど……
それならばせめて、と街中の循環に出てきた彼。
その時に感じた"気配"に反応して、此処……城の近くに来たのだった。
感じた気配……それは、時折自分や仲間に手を出してくる堕天使の気配。
またちょっかいを出しに来たのか、と思って牽制しにいこうとしたのだけれど……
「……おかしい、んだよな」
おかしい。
そう思うのには幾らか理由があった。
まず、感じる魔力が弱すぎる。
そして何より、いつもならあの堕天使……フォルは、自分のすぐ傍に気配を現すというのに、今日はそうではない。
おかしい、とそう思った。
そうして歩いていた、その時。
シュタウフェンベルクはあるものに気づいて、はっとした顔をした。
それは……
木に寄りかかったまま、俯いている青年……フォルの姿。
「……どうしたんだ、これは」
そう呟いてから、シュタウフェンベルクは恐る恐る彼に近づいた。
彼の性格は、性質は、よく知っている。
油断して近づけば何をされるかわかったものではない。
しかし……
フォルは顔を上げない。
そして、近づけばわかった。
彼の呼吸が、酷く荒い。
彼の顔を覗き込んで、気づいた。
「……お前、体調でも悪いのか?」
思わず、そう問いかけていた。
覗き込んだフォルの顔。
色の白い頬は真っ赤に染まり、いつも人懐っこく、意地悪い光を灯すサファイアの瞳は涙に濡れている。
吐き出す呼吸も苦しそうで……
「……なんだ、大佐殿、か」
警戒した表情で彼は顔を上げてから掠れた声で彼はいう。
少しほっとしたような声だった。
「何だ、って何だ……」
呆れたように溜息を吐き出すシュタウフェンベルク。
フォルはそんな彼を見上げつつ、言った。
「何……?僕、疲れてるから……帰って」
今は相手してあげられないよ、といいながら立ち上がる。
ふらり、と傾いだ体を、シュタウフェンベルクは反射的に支えていた。
まったく自分は何をしているんだろう、と一瞬思う。
今隣でへばっているのは仲間でも友人でもない、むしろ敵である堕天使なのに。
「歩けるか」
「……そんなに弱ってるように見える?」
強がる口調。
シュタウフェンベルクの身体を軽く突き放してから歩き出すフォルだったが、すぐにその体は傾ぐ。
倒れる前に支えに入ってやれば小さな呻き声が聞こえた。
「おとなしく支えられていれば良いものを」
「腕が片方しかない君に支えられるってのも恰好つかないからね」
いつもなら自分からくっついてくるくせに、こういう状況だと離れようとするのだろうか。
面倒くさい奴。
そう思いながら、シュタウフェンベルクはフォルに言い返した。
「それでも私の方が貴様より背も高い」
「華奢なくせに……よく言うよ」
そう答えたフォルはふっと息を吐き出す。
どうやらもう口を開く気が起きないらしい。
漸く少しおとなしくなった彼を半ば引きずるように、シュタウフェンベルクは彼らの屋敷に連れて帰った。
***
彼の屋敷には誰もいない。
ペルはおそらくディアロ城に居るし、ノアールも……だろうか。
他にも少年が三人いたはずだが、彼らも出かけているらしい。
シュタウフェンベルクは何やら完全に弱っている様子の堕天使をベッドに寝かせた。
いつもならば無理矢理自分をベッドに押し倒しにかかる堕天使をベッドに寝かせるというのは何だか違和感だ。
「まったく……何をやっているんだ」
そう呟きつつ、シュタウフェンベルクはフォルの額に濡れタオルを置いてやる。
元々人が良く、世話好きな彼。
幾ら相手が敵の立場であるフォルでも放っておけなかったらしい。
ただ、ささやかな抵抗のつもりか彼の額に置いたタオルはきちんと絞れておらず、ぐっしょりのままだ。
小さく顔を顰めたフォルを見て、シュタウフェンベルクは鼻を鳴らしつつ、言った。
「すまないな、片手だとどうもうまく出来ないんでな」
そんな彼の言葉にフォルは少し顔を顰める。
そして、小さく呟くように言った。
「さっき僕が言ったこと、根に持ってる……?」
意地悪でやってるでしょ、と呟くように言うフォル。
しかしシュタウフェンベルクはそれを無視してやった。
タオルを置いてやっただけ、まだ妥協というか、気遣いだ。
これくらいのやり返しはありだろう。
そう思いながらフォルを見ていたシュタウフェンベルクだったが……
やがて、溜息を吐き出した。
動く気力も湧かないのか、びしょ濡れのタオルを絞ろうともしない。
水が顔を伝い落ちて行っても無視、というか何もしないというか……
「……まったく」
世話の焼ける。
そう呟きつつ、シュタウフェンベルクはタオルを手に取った。
そして、もう一度絞り直す。
別に、きちんと絞れないわけではない。
わざと、びしょびしょのままに乗せたのだから。
そのままにしてやろうと思っていたのだが……
力なくベッドに横たわったままの堕天使に意地悪をするのは少し、いたたまれない。
そう思いながら彼はタオルをしっかり絞り直した。
既にぬるくなり始めているのが少し気にかかったが、そのあたりはどうしようもない。
絞り直したタオルを額に乗せ直してやる。
するとフォルは恨みがましげな視線を向けて、溜息まじりに言う。
「ちゃんと絞れるんじゃない……」
酷いなぁ、と呟き目を閉じるフォル。
彼はふっと息を吐き出して何も言わなくなった。
どうやら、本気で弱っているらしい。
そう思いつつ、シュタウフェンベルクはおずおずとフォルに触れた。
ぴりっとした痛みが走る。
その理由に、彼はすぐに気が付いた。
魔力が暴走している?
そう思いながら、注意深くフォルを見る。
「う、ぅ……」
苦しそうに呻く堕天使。
彼の身体からは、堕天使の魔力が放出されていた。
発熱の所為で、上手く魔力の調整が出来ないらしい。
そうして無意識に魔力を放出してしまっていることも相まって、彼は一層しんどそうにしていた。
シュタウフェンベルクは顔を顰める。
それはもちろん、この放出されている堕天使の魔力が厄介なものであるからでもあったのだけれど……
純粋に、心配だった。
苦しそうな、フォル。
例え相手が敵でも、苦しんでいるのは放っておけない。
それに何より……
異常に放出されてしまっている堕天使の魔力を、自分ならばどうにかしてやることが出来る。
シュタウフェンベルクはそっとフォルに触れる。
そしてそのまま、自身が持つ破魔の魔力を使った。
彼を傷つけてしまうことがないように。
ただ、この異常放出されている堕天使の魔力を吸い取ってやるために。
「っ……本当に、世話の焼ける……」
そう呟きながらも、シュタウフェンベルクはフォルの頬を撫でた。
強い堕天使の魔力を感じながら、目を閉じる。
こうしてやれば、そのうち魔力も落ち着くだろう。
そう思いながら……
―― ……母、さん……
譫言のように彼が呟いた。
小さな、小さな、声。
ともすれば、気のせいと思いそうな声だった。
母をよぶ声。
それに、シュタウフェンベルクは少し戸惑った顔をする。
だって、彼の親は……彼自身が殺した。
そう、聞いている。
それでも母を呼ぶ。
今までそんなフォルの姿は一度も見たことがなかった。
「……弱っている、んだろうな」
そう思いながら、シュタウフェンベルクは目を閉じる。
彼が少しでも早く回復するように、と思いながら……――
***
しばらくそうして魔力を吸い取ってやっていれば、やがて彼の呼吸が少し安定した。
これならもう大丈夫だろう。
そんなことを考えつつ、シュタウフェンベルクはフォルから離れた。
そして、溜息を吐き出す。
流石に、疲れた。
堕天使の魔力を打ち消し、吸収するために破魔の魔力を使い続けていたのだ。
当然のことだろう。
「ほんとに、お人よしっていうか……なんて、言うか」
聞こえた声。
目を開ければ、うっすらと目を開けた堕天使と視線がぶつかった。
「僕が君たちに何してるか忘れるほど馬鹿じゃないでしょ……
今だって、もしかしたら君を騙してるだけなのかもしれないのにさ」
「それが見破れないほど落ちぶれたつもりはないさ」
あっさりとそう返す。
確かにそうだと思ったのか、フォルはふっと息を吐き出す。
そして、呟くように言った。
「でも、普通わざわざ自分を消耗してまで、僕の魔力の吸収なんて……
ほんと、お人よしだよね……」
半ば呆れたような、不思議そうな声。
それを聞いて、シュタウフェンベルクは少し顔を顰めた。
「うるさい……
体調不良を良いことに悪魔の魔力を垂れ流しにされて他の者に被害が出るよりはマシだ」
そういいながらシュタウフェンベルクは鼻を鳴らす。
フォルは彼の様子を見て小さく笑った。
「ま、それもそうだよね……」
笑うだけの気力は出たのだろうか。
そう思いながら、シュタウフェンベルクは彼の額に乗せた濡れタオルを取り換えた。
「おとなしく寝ていろ」
「言われなくても……起きる気力は、まだないよ……」
そういいながら、フォルは目を閉じる。
すぐに寝息が聞こえてきた。
まだ少し辛そうだが、魔力の暴走が収まった分行き分マシになったらしい。
そんな彼の様子を見て小さく息を吐き出すと、シュタウフェンベルクはいったん城に戻っていった。
―― Weak… ――
(いつもと違う、堕天使の姿
その声の弱弱しさ、呼吸の弱さが、放っておけなくて)
(少しでも力になりたい、なんていう彼はとんでもないお人よし。
こんな堕天使(ヤツ)なんて、放っておけばいいのにね?)