夕焼け色に染まっていく、冬の空。
鮮やかな夕日はもうすでに褪せ始めていて、宵闇が迫ってきていた。
そんな時間に静かな廊下を歩いていく、赤髪の少年。
任務を終えて帰ってきた彼はすぐに愛しい人の部屋に向かう。
それは、"以前"から彼の日課ではあったけれど……
かつてのように、明るい雰囲気はない。
憂鬱、というのとは少し違う。
寂しそうというか、悲しそうというか……
そういう雰囲気をともしていた。
「アネット」
そんな彼を呼び止めたのは、緑髪の魔術医。
アネットは"何すか、ジェイド様"と彼にいう。
「今から、ハイドリヒのところにいくのでしょう?」
「……はい」
アネットが頷くとジェイドは白衣のポケットに手を入れて、アネットに手渡す。
それは、液体の入った小瓶だった。
アネットはそれをまじまじと見つめて、首をかしげる。
「薬、っすか?」
「えぇ……飲ませてあげてください。
薬というよりは……栄養材ですね」
そういって、ジェイドは微笑んだ。
アネットは怪訝そうな顔をする。
「栄養剤……?」
「えぇ……ハイドリヒ、あまりちゃんと食事をとっていないようなので。
強引に食べさせても体に良くないので……
薬剤で少し補充してあげた方がいいでしょう」
ジェイドはそういった。
アネットは一瞬顔を歪めてから、"了解っす"という。
ジェイドは小さく頷いて……そして、表情を変える。
心配そうな、不安げな表情に。
「アネット……貴方も、あまり思い詰めてはダメですよ」
「あははっ、誰の心配してるんすか、ジェイド様」
アネットはからからと笑った。
ジェイドは彼のリアクションにすこし驚いた顔をする。
アネットはひらりと手を振ると、笑顔を浮かべたままにいった。
「わかってるっすよ。
大丈夫……俺は、大丈夫っすから」
アネットはそういって笑う。
そのまま、ジェイドに背中を向けて、歩きだした。
ジェイドはその背中を見送りながら、顔を歪める。
「……貴方の恋人も同じだったと、覚えていますかアネット……」
そう呟いた声は、廊下の先の方を歩く赤髪の彼には届かない。
そして緑髪の彼は小さく溜め息を吐き出す。
自分にはもう、なにもできないという諦め。
なにもしてやれないという虚しさ。
けれど、それを誰より痛感しているのは今背を見送った彼だと知っているから、
ジェイドはそれ以上暗い顔を浮かべることなく、自室に向かって歩きだした。
***
辿り着いた愛しい人の部屋。
アネットはその前でひとつ息を吸い込むと、ドアノブに手をかけた。
「ラインハルトー!入るぞ?」
アネットはノックもせずにドアを開けた。
静かな部屋。
返事は、ない。
アネットは部屋に視線を巡らせて……ベッドの上に視線を止めた。
そこは、丸く膨らんでいる。
「寝てるのかー、ラインハルトー?」
その端にあるベッドの上に眠っている、金髪の少年。
人形のように眠っている彼の姿にアネットは一瞬息を詰める。
正直、こうして部屋に入ってくる度に、思い浮かべたくない状況が頭をよぎる。
心配するあまりに、そういう夢……
ハイドリヒが、自身で命を絶ってしまう夢を、見ることさえあった。
幸いなのは、そういう行動をとる気力さえ彼にないことか。
だから……
ただただベッドに寝ている彼の姿を見るのは、悲しいと同時に少しほっとした。
アネットはふぅうっと息を吐くとベッドに歩み寄った。
そして、そのままにベッドに眠っている金髪の彼の肩を揺らす。
「ラインハルトー、起きろー?」
ベッドに歩み寄ると軽く体を揺らす。
すると、ハイドリヒは虚ろな目をアネットに向ける。
揺らいだ青色の瞳がアネットを捉えた。
「アネット……さん……?」
「うん。任務終わったから帰ってきたんだ。ただいまー」
アネットはそういって明るく笑う。
そんな彼にハイドリヒはにこりともせずに体を起こした。
何をしに来たんですか、といわんばかりの表情。
最初の頃こそそんな彼の態度に少々怯んだりはしたが、今はなれてしまった。
アネットは彼の隣に座ると、先程ジェイドにもらった小瓶を取り出した。
それを揺らしながら、ハイドリヒにいう。
「ジェイド様がこれ飲んどけってさ。」
「……いりませんよ」
ぷい、とそっぽを向くハイドリヒ。
その様子は、まるで子供のようで。
アネットはそんな彼の態度にひとつ溜め息を吐くと、
強引に彼の顔を自分の方へ向けさせる。
「いらなくても飲めっての……
ラインハルト、食事もろくに食ってないって心配されてんだぞ」
「……食べたくないんですって」
ハイドリヒはそういう。
アネットはその反応に顔を歪めると、瓶を外して中身を口に含む。
そのまま、彼に口付けて流し込む。
「っ、……ん、ふ……」
「ん、ぅう……」
暫く頑なに飲み込もうとしなかったハイドリヒだが、
アネットが暫くそれを続けていれば、諦めたように飲み込んだ。
はぁ、と息を吐き出すハイドリヒ。
アネットはそんな彼の金髪を撫で付けて、"やっと飲んだか"という。
そして微笑むと、ハイドリヒにいった。
「……な、ラインハルト。一緒に外いかねぇ?」
ずっと部屋に籠りっぱなしになっている彼。
外に出ないと体をも壊す気がした。
ハイドリヒは頷きも首を振りもしない。
けれど、アネットは彼の体を抱き上げて笑った。
「はい、いくぞ!決定!」
「……強引、ですね」
ハイドリヒは相変わらず無表情なままに、アネットを見つめた。
今さらだろ、とアネットは笑う。
「強引にでも連れ出さないと、ラインハルトずっと部屋にいるじゃん」
アネットはそういう。
"たまには外出なきゃダメだぞ!"といって。
そしてそのままハイドリヒを地面に下ろす。
一瞬ふらついた彼の体を支えた。
「……抱いてってやろうか?」
「……どちらでも」
以前ならば"冗談はやめてください"といっていたタイミングだろう。
恥ずかしそうに、頬を赤く染めて。
「……じゃあ、このままつれてく」
アネットはそういって、ハイドリヒの手を強く握った。
握り返されることもない、細い手を。
***
そうしてアネットとハイドリヒは中庭に出ていく。
冬の冷たい風が吹き抜けていく中庭には、夏場ほど人影はない。
それを好都合ともとれる状況なのが、悲しかった。
周囲に人間がいた場合、一人で必死にはしゃぐアネットと、
ひたすらに無表情なハイドリヒとの奇妙なコンビに注目が集まってしまうから。
吹き抜けた風にアネットは体を竦めた。
「さみーなぁ……ラインハルト、寒くねぇ?」
「……別に」
そう答えるが、ハイドリヒの頬は赤くなっている。
冷たい風は、やはり堪えるのだろう。
それでも寒いと言わないのは……もう、どうでもいいと思っているからか。
アネットはその横顔を見つめると、小さく溜め息を吐き出して目を閉じた。
―― どれくらい経ったっけ、ラインハルトがこうなってから……
きっかけは、わかりきっていた。
彼の、精神的にも肉体的にもハード過ぎる彼の仕事故。
人を殺める仕事。
そういう仕事をしてもなお、表情を変えるなという指令。
感情を抱くな。
情を抱くな。
ハイドリヒは自分にそう言い聞かせて、そういう仕事をこなしていた。
その度ハイドリヒは苦しげな顔をしていた。
他の人間にはわからない程度にではあるけれど、
いつも傍にいたアネットにはわかった。
苦しいだろうに。
辛いだろうに。
その仕事を続ける彼は、少しずつ追い詰められているように見えた。
だから何度も何度も、やめてしまえといった。
彼が壊れるのが怖くて、必死になって止めた。
けれど、彼は逃げなくて……逃げる術を知らなくて。
―― ある日、壊れた。
部屋から出てこないハイドリヒを心配して、アネットが訪ねたとき。
彼は、今とおなじようにベッドに丸くなっていた。
起きろ、と起こせばどうにか目は覚ましたけれど……
―― もう、何も考えたくない。
ハイドリヒはそういった。
なにも感じなければ済むのか、といって彼は泣いて、泣いて……
それ以降はもう、感情を表現することをしなくなった。
感情を持っているから辛いと。
その所為で苦しむことになったのだから、と。
彼は、そうして感情を捨ててしまったらしい。
はじめは正直、皆戸惑った。
元々感情表現が豊かな方なハイドリヒではなかったけれど、
無表情というのとは明らかに違う……異様な雰囲気だったから。
けれど、周囲にそんな怪訝そうな視線を向けられても、
ひそひそと話をされていても……彼は、気にした様子もなくて。
アネットが、必死に彼の傍に寄り添った。
ほうっておけば一日中何をするでもなく部屋に籠ってしまう彼の傍に。
そして、笑いかけた。
声をかけた。
ちゃんと食事をとれとしかった。
その必死さは、アネットにある不安があったからだった。
―― 生きることさえ、やめてしまったらどうしよう。
アネットはそう思っていた。
彼は、すべてを拒む。
食事をとることも、飲み物を飲むことさえも。
もう、死んでも構わないとさえ思っているのではないかと……そう思うほど。
アネットはハイドリヒを守りたいと強く強く思っていた。
すがってくれと、何度も手を差し伸べた。
けれど、強がりで、でも脆い金髪の彼はその手をとろうとしなかった。
その末に、一人ですべてを背負って……その重圧に、潰されてしまったのだろう。
ごめん、とアネットは眠る彼に何度も謝った。
助けられなくてごめん、と。
壊れる前に何とかしてあげたかったのに、と……
ただただ眠る彼は応えなくて。
それが、切なかった。
―― と、その時。
不意にアネットの頬に何かが触れた。
アネットは驚いた顔をして、その方を見た。
隣にいたハイドリヒが頬に触れていると気づくのに少し時間がかかった。
「何で、泣いてるんですか……」
彼にそういわれるまで、アネットは泣いていることに気づかなかった。
ハイドリヒはアネットに問いかける。
その声は無機質だった。
表情も、変わらない。
ただ純粋に……
隣にいていつも笑っているアネットが泣いているのが、疑問だっただけだろう。
アネットはぐいぐいとその涙を拭い、何でもないよ、という。
そのまま、強くハイドリヒの体を抱き締めた。
強く、強く、絶対に離さないと言おうとするように。
誰になんと言われようとも彼を手放そうとは思わない。
こうして"おかしく"なってしまった彼を手放すことを考えたことはなかった。
寧ろ……いつか、前のように笑ってくれると信じて、
前と同じように……否、以前以上に、アネットはハイドリヒに笑いかけた。
周りからは、心配もされた。
必死になっているアネットの方がそのうち壊れるのではないか、と。
もう戻らない可能性の方が高いのだから、
ハイドリヒから離れてしまう方がよいのではないか、と言われもした。
けれど、アネットはそれらの声をすべて突っぱねて、
ハイドリヒと一緒にいることを選んだ。
愛情を向けていれば、彼の心も戻ると 信じて。
笑顔を向けていれば、彼もいつか笑ってくれると信じて……――
「ラインハルト……大好きだ」
「……、そうですか」
ハイドリヒは短くそう返す。
その声にも、やはり感情は灯っていなかった。
好き、という感覚さえも彼にはきっと、もうよくわかっていない。
ハイドリヒはこてん、とアネットの肩に体を凭れる。
そのまま、目を閉じて呟く。
「……疲れた、……」
「ん……そっか。体力ねぇなあ……ラインハルト」
アネットはそういうと、強くハイドリヒの体を抱き締めた。
その"疲れた"の隠れた意味を感じて……
「ラインハルト……ずっと、傍にいてくれなきゃ嫌だからな……」
既に意識を失うように寝入ってしまった彼を見て、アネットは呟く。
無感情になってしまった彼は、それこそ本当に人形のようで……
―― あぁ、どうか。
もう一度だけ。
彼を、もとに戻してほしい……
アネットはそう願いながら目を閉じる。
その頬を、涙が伝い落ちていった。
―― Broken Heart ――
(壊れてしまった感情。
なぁ、これでお前は楽になれた?)
(でもどうか……お願いだよ。
もう一度、俺に笑いかけて。今度こそは支えきって見せるから)