よく晴れた午後のこと……
任務を終えて帰ってきた赤髪の少年は通いなれた金髪の彼の部屋に向かっていた。
彼も今日は仕事がないといっていた。
もし彼が余裕があったならば、一緒に街に出掛けるか、
剣術の訓練に付き合ってほしいと思って。
いつものように、勢いよくドアを開ける。
いつも通りの満面の笑みで。
「ラインハルトー、任務お疲れ……って、あれ?」
アネットは部屋に飛び込んで、固まった。
その理由はと言えば、部屋の様子。
ハイドリヒの部屋はいつも綺麗に片付いている。
しかし今の彼の部屋は少々散らかっている。
否、散らかっているというよりは、部屋のものを箱に収めているような形で。
本棚も空っぽで、机の上もすっかり片付いている。
声をかけられたハイドリヒは顔をあげて、アネットを見た。
すぐに視線を手元の箱に戻す。
その箱の中にもたくさんの本が詰め込まれていた。
「あぁ、アネットさん。お疲れさまです」
至って平然とそう返したハイドリヒ。
アネットは瞬きをして、首をかしげた。
「ラインハルト、なんで部屋……模様替えか?」
配置を変えるのか?とアネットはいう。
そうででもなければこうして部屋のものを箱に詰める意味がわからない。
アネットの言葉にハイドリヒは一瞬動きを変えた。
そして、一つ溜め息を吐いた。
静かな声でいう。
「……セラの方から聞いていませんか?
指導者の入れ換えがあるのですよ」
「指導者?」
ハイドリヒの言葉にアネットはきょとんとした。
そして小さく首をかしげる。
「……アネットさん、私の立場わかっています?」
ハイドリヒは少し呆れた顔をして、アネットにいった。
アネットは小さく首を振ると"どういう意味だ?"と訊ねる。
アネットにとってハイドリヒは恋人であるという以外、
騎士としての役職は曖昧にしか覚えていない。
ハイドリヒはそんな彼に、説明した。
「私がこの国に留まっているのは、この国……
イリュジアの、情報戦などの指導のためです。
その指導者が変更になったということですよ」
「え……」
彼の言葉にアネットは固まる。
ハイドリヒはアネットの方を見ないままに、言葉を続けた。
「つまり、異動ですよ。イリュジアには、他の方が来ます」
「え、え……?」
珍しく動揺した声をあげる、アネット。
揺らぐガーネットの瞳。
アネットは頭が追い付かないままに訊ねる。
半ば、怯えたような声で。
「え、じゃあ、ラインハルトは……?」
「……私も異動ですよ。
新しい統治領で暮らさなければならないので部屋の片付けをしているのです」
アネットはその言葉に大きく目を見開いた。
今一つ、頭がついていかない。
否……理解したくなかった。
異動?
新しい統治領?
それは、つまり……?
ハイドリヒは固まっているアネットを一瞥すると、小さく溜め息を吐いた。
「……ですから、この部屋に間違えてノックなしで飛び込んだりしないように。
次に来るのがどんな人かは知りませんが、
普通はノックなしで飛び込んでこられたら驚きます」
「え、あ……そう、だな」
アネットはそう答えた。
否……答えざるを得なかった。
ハイドリヒがいなくなる。
それは、理解出来た。
今ハイドリヒが部屋を片付けている理由も納得した。
けれど……
それはつまり、ハイドリヒがこの部屋からいなくなるということで。
それを理解して平然としていられるほど、アネットは大人ではない。
それでも必死に平静を装って、いった。
「ラインハルト、え、それ……出発すんのいつ?
支度してるってことはすぐか?
それと、お前が行く、新しい場所って何処……?」
「えぇ。明日の夕方に出ますよ。
場所は……イリュジアからもカルフィナからも少し離れていますね。
たまには、様子を見にこられるかもしれませんが……
そう頻繁には戻ってこられないでしょう」
ハイドリヒは淡々とそう語った。
アネットはその言葉に唇を噛み締めた。
「……そう、か……寂しいなー……
でも、あの……あれだ。新しいとこでも、頑張れよ」
アネットは必死に笑顔を作っていう。
その笑顔が真実の笑顔でないことくらいハイドリヒはすぐに気づいた。
しかし、気づかないフリをしていう。
「勿論です。……あぁ、見送りは来なくて良いですからね」
「え、なんで!?」
アネットは驚いた声をあげる。
ハイドリヒはアネットの方を見ないままにいった。
「騒ぎになるのが嫌なのですよ。
貴方のことですから、騒ぐでしょう。
このまま部屋の荷物はまとめておいて、
私が向こうについてから送ってもらうことにしていますし……
片付けといっても、もうさして詰めなければならないものもありませんしね」
ハイドリヒはそういうと、自分が本を詰めていた箱を閉めた。
そして、アネットに訊ねる。
相変わらず、彼の顔は見ないままで。
「……それで、アネットさんはどうして此処に?」
「え……あ、なんでもない。
仕事終わったよ、っていいに来ただけ。
ごめんな、引っ越しの邪魔、して」
アネットは笑顔でそういった。
一緒に出掛けよう、何て言えなかった。
一緒にいるだけで、泣き出してしまいそうな気がして。
「……じゃ、俺アレク様のとこいってくるわ。
まだ手伝わなきゃいけない仕事あったら手伝わなきゃだし」
言い訳っぽくそういうと、アネットはハイドリヒの部屋を出ていった。
半ば逃げるように。
ハイドリヒは顔をあげて、アネットが出ていったドアを見た。
その表情に滲むのは、微かな寂しさと、失望……?
「……何を、期待したというのですか。私は」
小さく呟くと、彼は再び荷物の整理に戻った。
***
そして次の日の、夕方。
アネットは一人で中庭に座っていた。
秋は日が落ちるのが大分早い。
既に日が暮れ始めている。
もう、彼は出発しただろうか……
「ラインハルトー……」
アネットは小さな声で彼の名前を紡ぐ。
無論返事などない。
―― 嗚呼、これが当たり前になっちゃったんだな。
呼んでも返事はなくて。
部屋を訪ねてもいなくて。
それがもう、当たり前になってしまったのだと。
膝に顔を埋めたアネットがそう思ったとき。
「……このままでいいの?」
不意に聞こえた声に、アネットは顔をあげた。
そこにたっていたのは艶やかな金髪の女性で……
アネットは驚いたような顔をしてまばたきをした。
「リナ、様」
そう、そこにたっていたのはハイドリヒの許嫁であるリナだった。
彼女は"こんにちは"と優美に挨拶をすると、門がある方を見ていった。
「いいの?行ってしまうわよ、あの人」
あの人、が誰を示しているかはわかっていた。
恐らく、彼女は見送りにきたのだろう。
自分には来るなといった割りに彼女には見送りを許したのだな、と思う。
検討違いな嫉妬をしていることにはアネット自身も気づいていた。
許嫁に見送らせるのは普通のことだと知っている。
リナの言葉にアネットは微笑んだ。
「行ってしまう、って……わかってるっすよ。
ラインハルト……仕事熱心だから」
アネットはそういって、小さく笑った。
彼らしくない、寂しげで無理をした笑みだった。
さして親しい訳でないリナがそれを感じられるほどに。
リナは少し顔をしかめて、言葉を続ける。
「……そのままでいいの?引き留めなくて」
その問いかけにアネットは苦笑した。
そして小さく首を振る。
「そりゃ、引き留めたいっすよ。でも……」
アネットは膝を抱えて、溜め息を吐いた。
「無理っすよ。
俺の独断で決めていいことじゃないっすから」
アネットは騎士だ。
ハイドリヒも騎士。
仕事の重要さは理解しているし、邪魔をしたいわけではない。
異動、ということは上からの命令なのだろうし、それに逆らうことは良くない。
もし逆らえば、ハイドリヒの立場が悪くなるであろうことは想像がつく。
「俺の我儘で止めていいことじゃ、ないっしょ。
それに、俺が止めたとこで、ラインハルトが異動をやめるかもわかんねぇし」
アネットはそういって笑う。
相変わらずの敬語にならない敬語口調。
リナはそれを聞いてから溜め息を吐いた。
「私は貴方なら、止められると思うのけれど」
「え……」
リナの言葉にアネットは目を見開く。
リナはハイドリヒと同じ青い瞳でアネットを見つめながら、いった。
「……貴方じゃなきゃあの人は振り返らないのよ。
悔しいけれど……私じゃダメみたいなの」
寂しげに、リナはそういった。
さっき、実際そうだったから。
―― いってしまうのね。
―― ええ、仕事ですから。
―― ……貴方がいないのはいつものことだけれど、流石に少し遠いわね。
―― イリュジアからも、遠く離れますからね。
そんな会話を交わした。
引き留めようとしても、きっと彼は振り返らない。
ではこれで、といって一つ騎士の礼をしたあと、彼が見たのは城の方だった。
見送りに来たリナの方ではなくて。
「前から、何となくわかっていたわ。
あの人が見ているのは、貴方だったわよね」
許嫁である自分よりも、彼が見ているのはアネットだと理解していた。
初めてアネットと出会ったときに、感じたのだ。
―― アネットさん?!
あのとき、リナも突然駆け出したアネットを見て驚いた声をあげた。
けれど、ハイドリヒのその声には、違う色が灯っていた。
驚きだけではない、心配の色が。
ただの"仲間"に向ける声ではなかった。
―― ……探しにいかなくて、宜しいの?
―― ……申し訳ありません。折角来ていただいているのに。
リナに申し訳なさそうにそういったあと、
ハイドリヒは駆け出していったアネットを探しにいってしまった。
そのあと無事に見つかったアネットと笑いあうハイドリヒは、
何処かほっとした顔をしていた。
リナはそれを見ていて、理解した。
ハイドリヒは、彼を見ていると。
自分ではなく、あの赤髪の騎士を見ているのだと……
だから。
リナは穏やかに微笑んで、いう。
「……貴方ならば、止められるわ。
さっき出たばかりだから貴方の足ならばすぐに追い付けるでしょう?」
「……でも」
アネットはまだ躊躇う表情だ。
追いかけたい。
でも、追いかけていいのかわからない……
そんな踏み切りのつかない彼を見てひとつ息を吐くと、
リナはアネットの背中を押した。
そして、いう。
「ほら。行きなさい。
早く追いかけて、追い付いて……
行かないでと止めてみなさいな」
きっと大丈夫よ、とリナはいう。
貴方なら彼を振り返らせることが出来る、と。
アネットは暫しリナを見つめていたが、やがて明るく笑った。
その瞳に灯るのは、強い光……――
「……ありがとう、ございます。リナ様。
俺、ラインハルトを追いかけてくるっす!」
アネットはそういうと、勢いよく駆け出していった。
あっというまに姿が見えなくなる。
リナはやれやれ、という顔をして溜め息を吐く。
そしてふっと笑顔を浮かべて、呟くようにいった。
「いつの間に私もこんなにお人好しになったのかしらね……」
吹き抜けた秋風がリナの艶やかな金髪を揺らす。
彼女はふっと笑みを浮かべて、目を閉じた。
***
―― イリュジアから少し離れた路地。
ハイドリヒはそこをゆっくりと歩いていた。
新しい勤務先での相手との待ち合わせ場所までは歩き。
そこからは、迎えの馬車が来て馬車での移動になるという。
ハイドリヒはそれとなく周囲を見た。
賑やかな、ディアロ城の城下町。
彼は元々この国の騎士ではない。
けれど……
離れるのが、名残惜しい。
そう感じるのが不思議で、ハイドリヒは苦笑した。
周囲を見て思い出すのはとりとめもないことばかり。
アネットと一緒にいった少しカジュアルなレストラン。
品揃えがいいんだ、といってアネットが笑っていた武器屋。
―― 嗚呼。思い出すのは彼のことばかり。
記憶のなかにある情景には、いつでも彼がいた。
明るく笑って、時に心配そうな顔をしたり、頼もしい表情を見せたり……
そんな彼の声を、何だかんだで一日聞いていない。
見送りに来なくて良いといったのは自分だけれど……
―― そっか……寂しいなー……
たくさん笑顔を見てきたのに。
思い出すのは、自分を笑顔で見送ろうと試みる、苦しい笑顔で。
「……何を、考えているやら」
ふぅ、と息を吐き出すとハイドリヒは歩き出す。
こうして振り向いてばかりはいられない。
早くいかなければ。
そう思った……そのとき。
「ラインハルト!」
後ろから呼び止められて、ハイドリヒは大きく目を見開いた。
聞こえた声は、聞きなれたもの。
けれど、俄には信じられなくて……
そして慌てて振り返ると同時……勢いよく、抱きつかれた。
ハイドリヒは青い瞳を見開く。
「わ……!?」
「ラインハルト、いかないで……!」
無論抱きついてきたのは、赤髪の少年。
ハイドリヒは驚いた顔をした。
「何故、貴方が此処に……!?」
「追いかけて、来た……ラインハルト、呼び止めたくて……!」
全力で走ってきたのだろう。
彼の息はすっかり上がってしまっている。
いかないで、と彼はいう。
ハイドリヒに抱きついたままで。
「アネット、さん……」
「俺、やだ……
ラインハルトに、すぐ会えなくなるの、嫌だよ……
行かないで。イリュジアに、いてよ」
そういうアネットにぎゅ、と強く抱き寄せられた。
ハイドリヒは青の瞳を揺るがせる。
―― ……あぁ、やっぱりこの人には敵わない。
自分が彼の立場なら、同じ事ができただろうか。
追いかけてきて、行かないでと縋ることが出来ただろうか。
……冷静に、諦めていたかもしれない。
これは彼の仕事だからと。
でも、今自分を抱き締めているこの少年は、
まるで子供のように素直に気持ちをぶつけてきた。
そして、ハイドリヒは感じる。
本当は……こうして、引き留めてくれることを内心望んでいた気がする、と。
部屋で、アネットが部屋を去ったときに感じた失望は、
アネットがなにも言わずに自分との別れを受け入れてしまったからだ、と。
自分に抱きついているアネットの背に、
ハイドリヒはおずおずと腕を回した。
びく、と一瞬跳ねるアネットの体。
「……我儘、ですね」
ハイドリヒはそういう。
アネットはハイドリヒを抱き締める腕を少し緩めた。
そして、顔をあげてハイドリヒを見る。
ガーネットの瞳は少し潤んでいるような気がした。
アネットはハイドリヒの手を握って、いう。
「……わかってる。
ラインハルトを困らせてるのも、わかってる……
でも、俺やっぱり嫌だよ。ラインハルトと離ればなれなんて、嫌……」
傍にいてほしい。
遠くになんていかないでほしい。
大好きな彼が自分が会える場所からいなくなるなんて、嫌だ……
そういいながら、アネットは再びハイドリヒを抱き締める。
暖かく力強いアネットの体。
彼は、ハイドリヒを抱き締めたままでいう。
「……ラインハルトが怒られないように、俺が何とかするから。
全部、俺のせいにしていいから。
俺、どんな罰則でもうけるよ。
……だから、一緒に……帰ろう。
イリュジアに、帰ろうよ」
アネットは懇願するようにいう。
ハイドリヒは小さく、息を吐いた。
「……叱られる、で済めば良いですけれどね」
「!じゃあ……」
ハイドリヒの体を離して、顔をあげるアネット。
「……早く、戻りましょう。暗くなってしまう、前に」
ハイドリヒはアネットにそういった。
言葉はそっけなく。
けれど……微かな笑みを向けて応えてやった。
―― Do not leave me… ――
(城に戻ってみれば見送ってくれたはずの許嫁が立っていて。
"ほらね、言ったでしょう?"と私の隣に立っている彼にいう)
(引き留めたかった。その背中を押してくれた貴女にも俺は感謝する。
大好きな彼と離ればなれになるなんて、やっぱり嫌だったんだ)